白隠「寒山詩闡提記聞」講読

寒山詩に白隠が注釈を加えたもの、原文は漢文
市販の現代語訳:久須本文雄「寒山拾得」講談社1997があります
闡提=白隠のペンネーム
闡提は一闡提ともいい、icchantika(梵語)の音写=解脱の因を欠き、成仏することの出来ないもの、の意(広辞苑)


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ヨハネによる福音書

寒山詩闡提記聞

善の研究


2000.6.17 sat
146-149詩(原典p61,訳文p203-205):
我行きて古墳を経れば
涙盡くるまで存歿を嗟く
塚破れて黄腸を壓し
棺は穿たれて白骨を露わす
欹斜して瓮瓶有り
ちょう撥されて簪笏なし
風至りてその中をつかめば
灰塵 乱 ぼつぼつたり(146詩)

2000.5.20 sat

2000.4.15 sat
140-142詩(p57-58):
140詩
薫郎年少の時
帝京の裏に出入す
衫(さん)は嫩(わか)き鵝(かり)の黄を作し
容儀は画に相い似たり
常に踏雪馬に騎り
払払として紅塵起る
観る者は路傍に満つ
箇れは是れ誰家子なるかと

141詩
箇れは是れ誰家子ぞ
人の為に大いに憎まる
癡(痴)心は常に憤憤
肉眼は酔ってぼうぼうたり
仏をみるも仏を礼せず
僧に会うも僧に施さず
ただ大臠(だいれん)を打するを知るのみ
此れを除かば百も能無し

142詩
人は身を以って本と為す
本は心を以て柄と為す
本在らば心は邪(よこし)ま莫く
心邪まならば本命を喪う
未だ能く此の殃(わざわい)を免れずして
何ぞ言わん鏡に照すに懶(ものう)しと
金剛経を念ぜずんば
却って菩薩をして病ましめん

人間は身体を根本とするが、根本は心によって運用されるのである。根本がちゃんとあれば心は邪悪でなくなり、心が邪悪であれば本来の生命を喪失する。この災厄から免れないでいるのに、鏡に自己を映すのが面倒くさいなどとどうしていえよう。金剛経を読まなければ、かえって菩薩を苦しめることになるのだ。

2000.3.18 sat
139詩(p54-56):
世に一等のやからあり
悠々として木頭に似たり
語を出すも知解なく
云うらくは我なべて憂えずと
道を問えば道も会せず
仏を問えば仏も求めず
子細に推尋すれば
呆然として一場の愁い

世の中にはぼさぼさとしてまるで唐変木のようなタイプの人たちがいる。そのお説教には仏法について何の知見もないのに、口先では「私には露ばかりも憂いがない」とおっしゃる。ところが道について尋ねてみても道を会得していない。仏について尋ねてみても仏になろうという木もない。そういう人を子細に吟味してみたところで、ただとりとめもなくわびしい気分になるのがおちだ。

2000.2.19 sat
前回の「之の子何ぞ惶惶たる」(136)を再読しました。

1999.11.20 sat
p51から52まで講読 しました。             

  • 136 之の子何ぞ惶惶たる
  • 137 昨夜 家に還るを夢みるに

1999.10.20 sat
丈夫莫守困〜寒山有一宅のパラグラフまで(p48-50)を講読しました。
以下、日本語訳の番号と冒頭です。

  • 135 丈夫困を守ることなかれ
  • 165 閑自(いとま)に高僧を訪えば
  • 166 閑に華頂の上に遊べば
  • 132 世に多事の人有り
  • 167 寒山に一宅あり