はじめに言葉があった

ヨハネによる福音書から


論究Home
1999.12.4 sat
初めに言葉があった(3)
<「初め」、「言葉」をめぐっての論究も今回で終了です。>
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禅で言葉を語るとき、どこに立って語るのか
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講師の視点はここにありました。
ヨハネによる福音書 1.1-14およびヨハネの手紙(一)1.1のロゴスの意味を解き明かします。

<12月4日の聞き書きメモ>

ギリシャ哲学でロゴスというときは、理性とか法則をさす。ヨハネ伝のロゴスは明確に言葉という意味である。
「はじめ」と「言葉」について
(1)神が言葉を語ることによってすべてがはじまった。言葉は万物の根源の発出である。「はじめ」以前は存在しない。(これは新約の立場であって、旧約の創世記とは異なる)
(2)神の一人子であるイエスがロゴスを語ることによってペルソナを発出する。

罪について
あらゆる被造物はその存在の根源に罪*があるために、個人がいくら努力しても救済は不可能である。救済は根源的な力(神)によって可能となる。
イエス・キリストは父なる神から派遣され(ヨハネ)、神の言葉はイエスの中に肉となり宿る(地上に住みつく)。

*罪:神がアダムを捜しているのに、アダムが神の前から隠れた(創世記3:8−10)。神が捜しているのに自ら隠れた。 ==> 神の意志に逆らった ==> 根源的な罪(パウロ、アウグスチヌス)

<ロゴスの機能>

(1)ロゴスとは父なる神が語った言葉。父の全本性がそこにあますところなくつぎ込まれている。ロゴスは父から生まれたもの、すなわち、「神の子」*である。

*ギリシャ語聖書では「子」は「実子」を意味する単語が使用されている。
(参考:パウロが民衆に向かって、イエスの言葉を聞いて「神の子」となれ、といったときの「子」は「養子」の意味であり、契約によって「子」となることを意味している。従って、同じ「神の子」でも区別が存在していたことになる。ところが、ギリシャ語からラテン語へと翻訳されたとき、実子、養子とも同じ単語が使用され区別が消失した。)

父なる神 とは 純粋な知性であり、 永遠でイデア的な存在である。
父が語るとは、父なる完全な似姿を生むことと同じことである。

(2)すべてのものはロゴスを通して造られた
ロゴスはあらゆる被造物の原型、範型である。また、あらゆるイデアのイデアである。
父なる神から生まれたイエスキリストには存在全体のあらゆる原型が語りつくされている。
ロゴスとは存在全体の第一原理。
父は言葉を語る(=イエスキリストという子を産んで)初めて「父」となる。

(3)救済の原理
ロゴスは生命の根源であり、ロゴスは最高の仕方で生きている。
ロゴスは生命そのものであることによって、人間の精神を照らす光となる
人間の根源に原罪がある。原罪は引き継がれていく。暗闇にいる人間に真理の光を当てるのがロゴスの役割である。
純粋なるロゴスは人間に理解されないので、ロゴスをイエスキリストに受肉させ、人間に真理を告知させる。

(4)ロゴスは如何にして聴けるのか?
現実の人間は罪と死によって規定されている。これを自力で免れるすべはない。
律法主義は自分の力で解決できるという自力の立場であり、自分に善性があるという立場であるので、自己欺瞞である。
ロゴスとは自己欺瞞に満ちた自己を打ち砕くものとして作用するが、同時にこれは自分にとっては苦である。

人間がロゴスを聴くには、聴く人間がロゴスの語られる場所、すなわち「初め」に立たなければならない。
「初め」とは歴史的時間の一番はじまりということではない。
「初め」とは、永遠に満たされた、最初の、単一なる今、を指す。
エックハルトの説教:
聴く人間も初めに立たなければならない。神は純粋な理性で語っている。(内面的な人間に徹する、魂の根底に立ち返る)

パウロ:重大な出来事を述べるとき、パウロは必ず「今」という言葉をつかう(数カ所ある)。パウロ以外に「今」を使う人はいない。今=終末論的今。
(過去の瞬間ではなくて)今自分が立っている瞬間。
今=過去/現在/未来を貫いて/永遠の仕方で発出する場。
神が神として存在していたところの絶対的初め。
パウロの信仰:
非常にラディカル。キリストと一緒に十字架で死亡し、復活する....(キエルケゴールもこのような立場)

1999.11.6 sat
初めに言葉があった(2)
キリストが二千年前と同じ仕方で現前する。
キリスト(ロゴス)と我との同時性(Gleichzeitigkeit、キエルケゴールのいう本質同時性、永遠の同時性)。
ヨハネによる福音書 1.1-14とヨハネの手紙(一)1.1の対比。
ヨハネの手紙(一)1.1「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目でみたもの...」(新共同訳)の「初め」をあらわす言葉は"initio"ではじまっている。キリストが肉体をともなってこの世に現れた初めをあらわす。
これに対して、ヨハネによる福音書や創世記の「初め」は"principio"であり、これは「世の創造の初め」、語る人も人でない、世の創造の初めという意味で使われている...(参考「ロゴス」の意味


ヨハネの手紙(一)(Epistole joannou katholike)1.1
Quod fuit ab initio, quod audivimus, quod vidimus
Was von Anfang war, was wir gehoert, was wir gesehen haben

oculis nostris, quod perrspeximus, et manus
mit unseren Augen, was wir gescaut, und unsere Haende

nostrae contrectaverunt de verbo vitae;
betastet haben, won Wort des Lehbens.

1999.10.2 sat
初めに言葉があった(1)
講師がこれを取り上げた意図
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禅で言葉を語るとき、どこに立って語るのか
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ヨハネによる福音書の1.1と創世記の1.1相似性とロゴスの意味
創世記1.1
In principio creavit Deus caelum et terram.
Im Anfang schuf Gott den Himmel und die Erde.
ヨハネ1.1
In principio erat Verbum, et Verbum erat apud.
Im Anfang war das Wort und das Wort war bei Gott