久松 ですから私はね、そういういろいろな弊害が起きない、それが伴わないような公案というものはですね、このFAS協会で「基本的公案」といっているものがそれなんです。つまり、一切でない、一切でなくして自由なというものに徹するといいますか、それを自覚する公案と、まあ公案と言えばそういう公案ですね、それが基本的のものだと。だからこれは今の無相の自己に徹するいわば公案と、こういうことになるわけですね。だから言ってもいけなければ言わないでもいけない、ということになるというと、そこでいけないとされるのは言葉だけになって来ますわね。言葉ということだけになって来ますから、そうじゃなしに、一切でない自分というものですね、そこは窮して通ずるというところなんです。困るでしょうが……、窮して来る、窮するということは、一切からして、こうでもないああでもないということに、つまり一切でないということになるわけですね。そしてそれをそれによってそこへ徹する……(机を叩きながら)……未生以前と、一切未生以前と。善悪とか何とかいう、そういう特殊な何じゃなしに、一切未生以前と、すべて未生以前と。
善悪というようなことも、不思善不思悪ということも、なにかまだ私から言うと特殊なものになるわけですわね。けれども本当に「不思善不思悪、正与麼の時〔まさにそのとき〕、汝の本来の面目はどうだ」と言った場合には、「不思善不思悪」ということでもって一切を含むんじゃなければいけないんですな。善も思わず悪も思わすという……善悪ということだけじゃなしに、一切というもの。思わずということも、心が思うということだけじゃなしに、作用(はたらき)というようなものの一切……、心でなしに身体の作用も、手を動かすでもなければ足を動かすんでもないと、そういう手足だとか、あるいは触覚だとか、そういうようなもの一切を含めて、そうでないと。これがまあこちらで「基本的公案」というものになるわけで〔あります〕。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これはいつも出来ることなんです、これだとね。歩いているときも、歩いてもいけないときはどうするかですね、(中略)、というようなことは、一切上において一切いけなければどうするか。これはわれわれは何かなんですからね、とにかく何かでしょうから、その何かであってはいけないと言ったらどうするか。そういうところにねえ、これはやっぱり真の自己というものは本当はあるんですから、本当の形なき自己というものは本当の自己なんですからね。普通はもうすーっと出てしまっておるものばっかりのところにおるでしょう、われわれは。
「坐ということを中心に」『久松真一著作集』第3巻(法蔵館)より
これが私にとっては真に具体的な根本的な存在問題である。これは単に私の生命の一部分たる知的な学問の問題ではなくして、私の全生命自体に課せられた生きた問題である。ここにおいて私というもの自体の存在が真剣な問題になってくる。ここでは私というものはいわゆる学問的解明の対象として客観化することのできるようなものではなくして、それ自身全体的に悩んでいる存在である。
生きている問題とはかく悩んでいる存在自身にほかならぬ。あたかも死ぬか生きるかの重病に悩む医学者のごときものである。病はここでは客観的に研究の対象ではなくして、刻々に彼に迫り彼を脅かす彼自身の悩みである。病の具体性が医学者の研究の客観的対象となった時よりも、かえって彼自身が悩む時に見られるように、問題の具体性は私自身が悩む時に見られる。私が問題を持つということは私が悩んでいるということである。私の存在はそれ自身悩みであるから、それを対象的に扱うことはできない。私の存在は只管に悩みから脱しようとするものであり、悩みから救われようとするものである。私というものは解かれなければならぬ問題自身である。かかる存在は存在といっても問題である存在であるから、それ自身存在ともいえない存在である。解かれたる問題が私の決定せられたる真の存在である。私はこの問題解決の道を東西の先哲古聖の芳躅にもとめた。しかしその落處は畢竟するに寸心老漢の誘掖と湘山老師の活計によって見出すことができた。私が本書に題して「東洋的無」と称するのはこの落處にほかならぬ。
(『久松真一著作集』第1巻「東洋的無」法蔵館)
大小無数の
涛
又
浪
無始よりこのかた
現はれては消え
消えては現はれ
尽未来際
起滅限りなし
されど、誰か知る
本来、海に半点の浪痕なく
常に
湛々寂々
無相にして
過現未を越えて現存し
東西上下を絶し此在することを
蔵して執せず
執せずして蔵す
妙なるかな
蔵海即空海
抱 石 1961年夏
(エル・アルコプレイ『聴きながら描きながら 対談 ハイデガー 久松 真一』より)