ポストモダニスト語録

久松真一

『POSTMODERNIST』第4/5号 (1975/6) pp. 2-4.
只今私は、はからずも岐阜片田舎の仮寓に引っ込みましたが、実は私には引っ込めない大きな野望があるのです。それは世界維新というものです。

維新といえば、近くは明治維新ですが、それは国家内での維新にすぎません。それとは質も量も比較にならぬほどスケールの大きい近代という時代を変革する維新です。これは歴史的必然で、すでに目前に迫っております。

明治維新の時、旧幕の人たちは、幕府が倒れるなどどは予想もしなかったでしょう。ところが、それがアッという間につぶれてしまった。その期間は実に短い。またたくまといってもよい。それが歴史的時間というものです。普通は、時計が刻んでおる物理的時間を時間と想っておるが、物理的時間の二百年も三百年もが、歴史的時間では、一瞬にたってしまう。歴史的時間は人間にのみ存在する重要な時間です。過去の慚悔改心とか歴史の変革とか維新とかはこの時間によるのですが、普通人々はそれに気づかない。革命とか維新とかいったっていつのことかと思って、ぐずぐずしておる。

最近のエチオピアなどそのよい例です。日本の皇室より古い伝統をもち、あれほど協力な権威をもっておるようにみえた皇帝が、極めて短時間に消えてしまったではありませんか。これはまさに歴史的時間での出来事です。今までに、そういう例は大小いくつもあります。今はすでに滅びつつある近世を創ったルネッサンスもそれです。

いまや近世は、どうにもならぬ行きづまりに直面しています。最も根本的な問題としては、世界や歴史の主体の問題、現象的な問題としては、政治問題、イデオロギーの問題、経済問題、資源の問題、人口の問題、公害の問題、軍備問題等々、アポリアが山積しております。SALTの軍縮問題にしても、たとえ表面的には何とかして制限しようとしても、相互の国家エゴにはばまれてどうにもならない。印度までも核実験をやるという始末で、核は防止どころか、ますます拡散しつつあります。日本は広島、長崎で史上初めての核爆撃の惨害を蒙ったが、いま一たん核戦争が起れば、あの何百倍どころか、全人類の滅亡にもなりかねない。

私は、このゆきつまり、現象的危機の最大原因は国家のエゴにあると思います。現代悪の元凶は国家です。国家悪は、量からいっても、質からいっても、個人の悪とは比較にならぬ程大きい。しかも国家はそれを傍若無人に堂々とやります。それが、全人類の福祉や文化をどれ程害しておるかわからない。そこで私は、国家をつぶせというのです。一見、極端な発言ですが、もちろんこれは特定の国家をつぶすというのではなく、すべての国家を廃して、全人類、全世界の立場に立てということです。

いま国連とか、EECとかいうものも、外観は国家エゴを調整しようとしておるかの如くですが、結局エゴのために外なりません。国家が至上のものである限り、これは宿命的にどうにもならない。早い話が石油問題一つ解決できない。折角会議を開いても、却ってエゴをエスカレートする舞台になるばかりです。共産主義にしても、ソ連等のように、地球の何分の一とかいう広大な国土や、地下には膨大な資源を独占しながら、それを他国には使わせないというのだから、これは国家独占資本主義であって、真の共産主義でも何でもない。自由主義といって、米国のように国家権力が横行しておるようでは真の自由主義とはいえない。

私はこの近代の現状は、質も量も比較にならぬほど大きいが、創世紀のノアの大洪水のようだと思います。全人類を押し流す猛毒の大つなみは、もはや脚下に来ておる。脚下どころか膝まで迫っておるのに、不明で誰も気がつかない。ましてそれを救う方船を創建しようともしない。今や近代は没落の危機にひんしておって、このままでは人類はおそかれ早かれ自滅の外はありません。

宗教界はいち早くこの問題を取り上げるべきだが、世界の宗教の中で問題解決の根本原理を内蔵しておるのが禅です。それも既成の禅ではいけないが、禅にはその原理がある。禅ほど、ドグマから解放され、教義の対立から自由な、変化に対処して自由な宗教はない。禅はドグマをもたずに、自由にドグマを創って行く。禅自体からも脱皮してゆく。それが本当の禅である。この禅こそ、万法の帰するところで、新らしい歴史の母胎です。FAS禅とはこれに外なりません。私は、世界維新の原理をこの禅の中に発掘しましたが。私がポストモダニスト宣言を出したのがそれですが、本年で四年目です。

今日では、中世的なものはもとより、近世的な神学も脱皮して、宗教は個人の救済というような小乗的なことではなく、深く広く人類全体を救うという新大乗の方向を打ち出すべきです。国家組織を変革し、全人類協同体を創建して、人類の危機を一度に救う方策を樹立せねばなりますまい。それが一切衆生を実質的に救うということにもなるのです。

この頃の宗教学や仏教学でもそういう探求は殆んどなされないで、過去の遺物の研究にのみ没溺しておって、創造性のない不毛に終っている。トインビーというような歴史学者にも注目しておるが、彼も過去の歴史の知識や分析にはすぐれた学者だが、未来の歴史創造については頗る貧困である。歴史学の第一義は、創造されたるものの記録や、分析や、解釈ではなくして、歴史を創造することでなければならない。創造なくしては記録もありえない。

今や世界革命、世界維新というものは、新しい歴史創造であって、どうしても早晩起ることは歴史的必然である。その歴史的時間は目前に迫っております。私は今年世寿八十五ですが、久松死すともポストモダニストは不死です。私は今、僻地の片隅に引きこもってはおりますが、私は一隅を照らすのではなく、一時、一隅から世界を、未来を照らしているつもりです。

1974年10月2日