基本的公案


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1999.11.27 sat
「基本的公案」

本日は「善の研究」講読の日でしたが、講師の所用のため、急遽、久松の「基本的公案*」(久松真一著作集第三巻P604-611,および会員誌「風信28号」を参照、)をテキストに取り上げました。英訳もあります。

久松の「基本的公案*」を取り上げた理由:
新たに土曜日の論究・座禅会に参加された方から、久松を知りたいと思い講談社学術文庫の「東洋的無」を買ったが内容が難しいというご意見をいただきました。一方、久松の講演録など理解しやすいものもありますが、これらの収められている著作集は一冊一万円近くもしますので、そう簡単には手がでません。
また、論究の時間には久松以外の思想を扱うことが多かったため、久松自身の思想も論究の素材にしてはどうかという意見もありました。

そこで、今回急遽、著作集第三巻の中から、久松の「基本的公案*」を題材**に論究を行いました。

*ほかならぬあなた、ほかならぬここ、ほかならぬ今、このとき、「どうしてもいけなれば、どうするか」ウルス・アップ「究極の邂逅」、『禅文化』第147号、pp. 24-29、原文英語:The FAS Society Journal 1996, pp. 57-60. )

**FAS協会では、毎週土曜日に論究会、参禅を行っていますが、これとは別に、「別時」と称して集中座禅会を年2回行っています。このテキストは昭和30年8月に京都の妙心寺で行われた別時の際の講演の記録です。

<「基本的公案」の内容要約>
(蚕の紡ぎ出す糸と蜘蛛の紡ぎ出す糸との対比)
蚕は自分が自発的に紡ぎだしたものによって、(自分はそこに閉じこめられることによって)自分を屍にしてしまう。
一方、蜘蛛は自分の網の中心に来て、座を占める。よほどのことがないと中心から離れない。自分の世界のどこに故障や事件が起きても、中心の蜘蛛には直に伝わるようになっている。自分の世界の一切のことは中心に座っていながらはっきり手に取るように分かる。
この蚕と蜘蛛との違いは、何か役に立つ寓話にならないか。現代、また将来、我々は蜘蛛に学ぶべき点が多いのではないか。蚕も蜘蛛も同じ糸を紡ぐものでありながら、両者に非常に違いがあるということはきわめて示唆的である。

(宗教的行を行うにあたっての基本的姿勢)
ここに集まってやっているのが宗教的行とすれば、それは一体、どういう悩みを、どういう風に救うのであるか、はっきり見極めをつけておかねばならぬ。そういう見極め無しにでは、非理性的なやり方であるといわざるを得ない。漫然と何か無しに座っていることは、自覚のある人間としては出来ないことである。

(道場の権威について)
権威は、学問にせよ、道徳にせよ、芸術にせよ、良心にあるのである。自立的良心に従うところにある。同じ良心といっても、良心にも深浅があり、あるいは良心が決めたものであっても、後に良心的にそれを改めねばならぬ、以前が間違っていた、という場合もある。...だが、現状としては、自分の良心の納得したことに従うほか道はない。

(良心を高めることとドグマの否定)
...われわれは良心的に謙虚な態度を持つことも大切なことであり、またそれは偏した良心を免れるには大事なことである。...今までの人たちが築き上げて来てくれ、長い間に多くの人たちが考え出してくれた、その遺産を十分摂取する幸せにわたしどもは恵まれている。しかしながら、過去のもの、他のものをドグマ的に受け入れることの危険性も、同時にまた戒められねばならぬ。ドグマやイドラとして受け入れるようなことがあってはならぬ。私はかかることを絶対に自らに許さない。

(宗教とは何か)
普通一般に宗教といっているものが、果たして宗教と言い得るかどうか。
宗教という以上は、独自なもので、独立性を持ったものでなければならぬ。たとえば宗教が学問と違わぬものであったり、芸術と違わぬものであったり、道徳と違わぬものであったら、特に宗教といわねばならぬ理由はない。それだと空名にして実質が無い。宗教という言葉が特に言われる場合、他によっては生ぜぬ悩みや要求、他のものにはないような独自の悩み、要求があって、そういう悩み、課題、要求が独自な仕方で解決されることを予想している。
私自身としては、私の要求している宗教はそういうところに狙いがある。一体、宗教と言い得るものが人間にとって何処にその存在理由を持つか。人間に、という場合の人間も、いかなる人間を指すのであるか。
人間にとって宗教はどういう存在理由を持つか。一体、人間にどういう特殊な課題、要求があって、どういう独自なしかたで、それが解決されるか。それをつかむことが、根本問題にもつながってくる。宗教という特別な名称が実質をもって存在し得る根拠が人間にはあるか、しかもそれが人間にとって根本的に重大なものであるか、まずそれを検討して、そこから、基本的公案の問題へ進まなければならない。