究極の邂逅

ウルス・アップ

『禅文化』147(1993)より転載
 その著作を通じて、あるいは彼の弟子・孫弟子にあたる人々との交流によって、久松博士は、私の生涯にとって、きわめて重要な、決定的影響力を持つ存在になっていった。

 数年間の研究活動を終えて、大好きな日本を去らねばならぬ日が間近に迫った時、私のなかに、久松博士とじかに会わない限り、決して日本を去るまいという決意が生まれた。ありがたいことに、北原隆太郎氏と石井誠士教授の、ご厚情あふれる努力によって、一九七九年三月二十五日に、面会の手筈を整えていただくことができた。

 その日は、実に暖かく、麗しい日曜日になった。大地は、近づく春の色彩と芳香とで、はちきれんばかりだった。

 石井教授とともに、岐阜の御宅の、繊細に設えられ、飾られた、大きな日本間に通された時、久松博士は、白い絹の冬衣に身を包んで、刺子布団の掛かったコタツのそばに、坐って待っておられた。それは、簡潔な、美と安らぎの空間だった。

 久松博士の暖かな歓迎と、輝くばかりの微笑みに、私たちは、すぐに、くつろいだ気持ちになった。私がスイスで育ったと知って、久松博士は、数十年前に訪れたことのあるヨーロッパの国々の思い出を、いくつか、私たちに語ってくれた。

 『ブディスト』と改名した(以前は『東方界』)FAS協会が出版している雑誌の、編集員である石井教授が、この雑誌と、それに関連した事項をいくらか説明した後、久松博士は、「ポスト・モダン」の時代について語り始めた。

 「自らの時代を生きるなか、人々は、一般に、来たるべき時代−−ポスト・モダンの時代−−に関する、何の考えもない。しかし、私は、逆にポスト・モダンの時代に立って、現代を扱っている」。これを聞いて、久松博士が、なぜ、「ポスト・モダニスト」というペンネームを使っているのか、私にはやっと呑みこめた。

 久松博士は、次に、「三つの歴史的時期」に、話を進めた。まず、一のみ存在して、多の存在していなかった「中世」、次に、多のみ存在して、一の存在しない「近代」、最後に、一と多が不二である「ポスト・モダン」の時代。

 手首の廻りに掛けた数珠を指さしながら、久松博士は、中世を糸に(一)、近代を珠に(多)、そしてポスト・モダンの時代を数珠全体(一多不二)になぞらえてみせた。

 お茶と、お菓子が出た。それは、ご馳走だった。眼にも、手にも、鼻にも舌にも、そして、心にも−−。

 久松博士は、茶碗の美しさを我々が賞味したことを、大変喜ばれた。そこで、石井教授が、もしあるなら、どんな質問でもいいから、久松博士にするようにと、私を励ましてくれた。

 以下に記す、私の質問と、それに対する久松博士の答は、石井教授によって注意深く取られた覚書と、この記念すべき日に関する、私自身の回想に基づいて、再構成したものである。

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問−先生は、「ぎりぎりのところ」あるいは「どうしてもいけない」ということについて、もっとはっきり言えば、先生が「基本的公案」と呼んでおられる、「どうしてもいけなければ、どうするか」について、話したり、書いたりしておられます。どのようにすれば、私はこの公案を工夫することができるでしょうか。また、これは坐禅と、どのような関係にありますか。
久松博士−坐る、立つ、横たわるといった肉体の在り方や、感情、意志、思考といった心の在り方−−ひとことで言うと、人の行動の在り方は、すべていけない。私の基本的公案が言わんとしているのは、ほかでもない、ただこの一事のみです。「どうしてもいけなければ、どうするか」。このなかに、死と復活が横たわっています。真の坐とは、肉体の坐でもなければ、心の坐でもない、それは「身心脱落」にほかならない。肉体と心が、ともに死し、蘇るのです。
 久松博士は、この時、彼の「基本的公案」について、私に話してくれたのだが、それは、ただ単に、「あることを話題にする」といったものでは、決してなかった。久松博士は、単にそれについて語ったのではない。そうではなく、彼はそれを、私に向かって「じか」に、訴えかけてきたのである。ほかならぬあなた、ほかならぬここ、ほかならぬこの時、「どうしてもいけなければ、どうするか」。

 そして、久松博士は、私の応答を望んだ。その眼差しで、私を身動きできなくさせたまま、久松博士は、私の答を待った。いつまでも、いつまでも、いつまでも……。

 私は、それまで、このような切迫感に出会ったことは、一度もなかったし、それ以後にもありはしなかった 実のところ、この切迫感は、単に、ある質問が私に向かって、じかに発せられた、というようなものではなかった。あるいは、私の身体に、ナイフが突き付けられた時に感じるような切迫感でさえなかった。

 それは、むしろ、私の身ぐるみ全身、私そのものとして、私の質問があるということ、つまり、私自身の質問の、一切の介在物を許さぬ、全面的な露呈であった。「私が、まさに今、ほかならぬここで−−どうしてもいけなければ、どうするか」。

 行き止まり。どうにもならぬ無力さと、究極の必要性に挟まれて、私は、恐るべき硬直状態に陥った。出口なし。苦悩に満ちた長い沈黙。貝のように押し黙った、重苦しい沈黙。答えなし。何を言っても駄目。

 こうした状況が、私たちの会見を通じて、数度にわたって繰り返され、私は激しい苦痛に苛まれ、震え、猛烈な無力さのなかに放り込まれた。どうにもならない、どうしようもない−−なんという、たとえようもない慈悲が、この「役立たず野郎」の上に降り注ぎ、無駄になってしまったことか!

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問−先生は、「学行一如」によって、何を言わんとしているのですか。
久松博士−「学行一如」の「学」とは、基本的に主観的なものである「どうしてもいけなければ、どうするか」を、全面的に理解することにほかならないのです。従って、この「学」とは、「身心脱落」を学ぶということです。この意味で、「学」と「行」との間に、何の違いもない。これは、単なる観念ではなく、真実そのものです。「学行一如」とは、「どうしてもいけなければ、どうするか」の、真の理解にほかならないのです。

問−私は、ヨーロッパにちょっと立ち寄った後、アメリカにいく予定でおります。そのために、禅の指導者の下で、修行することができなくなるかもしれません。御助言いただけますか。
久松博士−指導者は、「あなた自身」です。指導者は、「どうしてもいけなければ、どうするか」です。これに関しては、どんな指導も、必要ではない。あなた自身が、あなた独りで、それを実践することができるのです。ちなみに、ほとんど大部分の師家も、この「ぎりぎりのところ」を、理解してはいない。私の提唱する基本的公案は、普通の公案とは異なるものだが、あなたの信念を強固なものにするために、重要なものです。生死を克服することに対する信念、不死・不生・不滅の自己に対する信念を成就するために、重要なのです。

問−真の健康とは、何でしょうか。
久松博士−「どうしてもいけなければ、どうするか」−−これを理解することが、真の健康です。まさに、ここは、どうなのです?……あなたもですよ、石井さん!(久松博士は、三十秒くらいの間、沈黙した)
あなたは、この公案を、どこであろうと、工夫することができます。これは、一般的であると同時に、個別的でもある公案です。すなわち、一と多が、一つの全体を形成しており、それらは一体不二なのです。

問−一人の人間の開悟は、他の人々の苦悩と、どのような関係がありますか。
久松博士−もし、あなたがこの公案を理解すれば、あなたは人々の苦悩の根源を掴むことになり、これを他の人々に勧めることができるようになります。あなたは指導者となり、他の人々に、「道」を示すことができるようになります。あなたは、指導力を持つようになるでしょう。開悟から生じてくる、非常に大きな力があります。それは、実際に、私自身の生に起こったことです。これは、あなたの生にも起こるでしょう。私たちは、きっと出会うでしょう。いつ? あなたが、「どうしてもいけなければ、どうするか」を理解した、まさにその時にです。あなたは、飛行機のなかで理解するかもしれないし、列車のなかで理解するかもしれません。それは、どんなところでも起こりえます。その時、私は、そこにいます。そして、まさにその時その場所で、私たちは出会うのです。その時、あなたは、私の言ったことを思い出し、それを理解して笑うでしょう。

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 そこで、非常にゆっくりと、弱々しく、ふらつく脚で、久松先生は立ち上がり、数歩あるいて隣の部屋に行き、私たちへのお別れの贈物として、御自身の手になる二枚の書を持って、戻ってこられた。どちらも、「覚」の一字が記されていた。また、久松博士の法号である「抱石」と署名されており、大きな朱の落款が押してあった。

 久松博士は、その落款を説明して、言った。「これは、私の名である、『真一』です」。そうして、少年のような微笑と、子供のような喜びを眼にたたえて、久松博士は、私のために、「真一」を英語に訳してくれた。「英語では、これは次のような意味になります。〈真実なる者〉」。

 涙に眼がにじむのを感じながら、私は久松博士に感謝した。先生は、玄関まで、私たちを送ってくださった。庭に面した廊下で、久松博士は私の肩に手を置き、私の方にかがみ込みながら、テーブルから、大きな本を取り上げた。久松博士は、それを開けて、私たちに見せた。「ほら、ここに私がいる」。

 久松博士は笑って、自分の名前を指さしたが、名前の後には、久松博士の人物と経歴に関する、簡単な説明が記してあった。本を閉じながら、久松博士は、私たちの面前でそれをまっすぐ上に掲かげ、厳しく要請するような、それでいて、何となく茫洋とした感じで、私たちを見つめ、大きな金文字で書かれた本のタイトルを見せた。「WHO IS WHO」(「紳士録」の意と、「誰が誰か」の意と、両方あり)

 私たちは、靴を履くために、眼を見張るばかりに美しい日本庭園に隣した玄関へ、一緒に歩いて行った。私たちが靴を履いている間、久松博士は、私に、「齢は幾つか」と尋ねた。「今年で、三十回目の誕生日を迎えます」と答えると、久松博士は言った。「あなたは若い。私は、もう八十だ」。石井教授が、素早く、久松博士を訂正した。久松先生は、笑って、言った。「ああ、そうです、そのとおりだ、私は九十です。あなたの三倍の齢です。それでも、私は死にませんよ。不生不滅です。これが『どうしてもいけなければ、どうするか』という問に対する、私の答えです」。

 

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 そこに、久松博士は、立っていた。庭に接して、暮れがたの暖かな光を浴び、穏やかに手を振りながら、今また、あの静かで、純粋な微笑みを浮かべている。白い着物と、暖かなチョッキを着た、長い白髪と、白髭の、あえかなる老人。

 私は、「さようなら」を言うことができなかった。私は、まず、久松博士に出会わなければならないのだ。

 「どうしてもいけなければ、どうするか?」

      〔花園大学国際禅学研究所副所長〕
       (1979年秋記す)


May 16, 1996