発題「生き方の問題―私自身のことを中心に」 by 大藪利男

2000年2月12日

(本日のこの内容は、いずれ本人自らFAS協会の機関誌「風信」やこのホームページに寄稿されると思います)

永遠の悩み

■いかに生きるべきか―この問題を抱えて死ぬまで悩み続けると思う。だからこの問題は私にとっては永遠の問題である。ただ、「人間は悩み続けなくてはいけないものとして生かされている」と腹を決めてからはじたばたしなくなった。

生き方の問題―これは個々の問題である。いくら本を読んでも落ち着かない。自分で心底納得しないことにはどうにもならない。

私以前のものに突き動かされている

■「個人あって経験あるにあらず。経験あって個人あり。」と西田はいったが、自分ではこれが今ひとつはっきりしなかった。(「個人があってはじめて経験がある」というのはいかにも当たり前のことのようであるが)しかし、我々は生まれ、成長し、恋をし結婚し老いていく。これらは私以前に決まっていることである。我々は表舞台ばかり意識しているが、その裏には大きなシナリオがあって生きている。そして、これは自然の摂理であり変わることはない。

私自身の一こま一こまは私自身にとって大変なこと、しかし、これもちょっと自分を変えれば大したことではない。内山老師は「そんなのは陽気の加減だ」といっていた。

座禅を始めた頃

今年の一月、60才の誕生日を期にサラリーマン生活に終止符を打った。
30代の始めに病気に悩まされたり、死んでいてもおかしくないほどの交通事故にあったことなどが私に座禅をさせるきっかけとなった。そのときまでの私はごく平凡なサラリーマンであった。
それから気になって仕方のない人がいる、良寛と乞食桃水*と聖フランシスである。

*良寛と乞食桃水については、このFAS協会のホームページの大藪さんの記事「愚直なるもの」(『ブディスト』42,43 (1994)、pp.82-94 からの再掲)も参照下さい。
乞食桃水について:世に乞食桃水と言われる和尚があった。お寺も持ったし、境涯も立派な人であったが、跡をくらまして、乞食の群に入り、ほとんど三十余年間、あちらこちら歩いた。(澤木興道「禅談」改訂新版、大法輪閣、平成9年、148頁)

それまでもこういった人たちを知らなかったわけではない。わたしはこのようなドロップアウトした人々をかわいそうだなあという気で見ていた。こんな有名でなくてもまわりに同じことを考えている人がたくさんいることも分かった。私が偉いと感じている(世俗の価値)ではないものを主張し、生きている人がいることが分かった。
そんな生き方はどこからくるのか―これは引き続き私の問題となった。この人たちが私はどうしても気になって仕方がない―こういうものに惹かれる私は何なのか、これもまた私は気になって仕方がない。

当時の私は企業人であって、結婚もし子どももいた。いわゆる世俗の中に身を置いていた。そういう中にあって孤高に生きるとはどういうことか―これが私の問題であった。ドロップアウトも出来なかった私には、現実のまっただ中にあって孤高に生きるとはどんなことかということが次に問題になった。
今日はそのことを話したい。現実のまっただ中で仏法を生きるとはどういうことか―これを考えてみたい。
企業という組織は能力主義である。どう生きるか、というなまちょろい話は話題にならない。皆どこかで解決したよう顔をして生きている。一皮むけば、みんなこの問題に関心を抱いているが、現実の厳しさの中で口にも出さずに生きている。

多くの人が抱えているこのような問題に対して、「宗教」ということからでは入っていけないのではないか、本質を語りかける必要があるのではないか。

本質と言うこと―二人の無名の生き方を通して

(1)FASの会員であるU氏の生きざまについて
(2)遠藤周作の「深い河」に出てくる大津の生きざまについて

■(1)FASの会員であるU氏の生きざま
古くからのFAS会員で、わたしが絶えず気になっていた人、52才。現在丹後半島の山の中の廃屋に居を構え、堆肥を主体とした有機農法を取り入れた農業を行っている。
また出来るだけ自給自作をしたいという希望から、丹後で廃れていた藤の蔓から繊維をとって織る藤織りを復活させ、機織りもしている。他に竹細工のかご等を制作している。年収は数十万円程度。

その他、この人は町に出て目に見えない人のボランティア活動を行っている。京都で目が見えない耳が聞こえないしゃべれない、いわゆるヘレン・ケラーのような三重苦の人たちが二百数十人いるという。U氏はその人たちの通訳をしている。先日、U氏からわたしに電話があって、三重苦の人が今評判の障害者をテーマにした映画をぜひ見たいというので京都に通訳に来たと電話があった。

生い立ち:大学受験をやめる。自分が合格したら誰かが落ちる、そんなことは私には出来ないと。
武者小路実篤が宮崎県の日向で大正年間に提唱した「新しき村」に入る。その後本部が埼玉にうつり、一緒に移り住む。それから、全国放浪の旅。その間、全国各地に無名だがすごい人がたくさんいることを知る。この時期にFAS協会を知る。そのために、新聞配達をしお金を貯めて、1年間FAS協会に専念した。FAS協会の感想;話して座ってばかりで、実践が伴わなければだめだ、と。1978年、リュックを担ぎ丹後半島に行き、底に住みつく。

私はあくまでエゴ的自己を生かされている。しかし、同時に もっと深い自己を生きている。競争原理は自然の原理、競争原理があったからこそ、今を生きているのは厳然たる事実。だけれど、これだけで生きているのではない。人類はこれまでエゴ的自己を推進力として生きてきた、そして、これでやってこれた。これからはエゴレス自己を社会にどう組み込むか―このことなくして人類の未来はないのではないか。

■(2)「深い河」の大津の場合

遠藤周作は好きな小説家の一人である。特に沈黙、侍、海と毒薬には感銘を受けた。遠藤周作の母は熱心なクリスチャンであり、周作も小さい頃洗礼を受けた。
キリスト関係の著作に「イエスの生涯」、「キリストの誕生」がある。「イエスの生涯」では奇跡や神話に基づかない人間イエスの生涯を描いている。「キリストの誕生」では誤解とあざけりの中で、磔にされてから3,4時間もかかって奇跡も何もおこらず苦しみ死んでいくイエスを描いている。無力なイエスがなぜキリストとして―こんなに弱々しいイエスがなぜキリストとして復活するのか。イエスの弟子たちがイエスを三度も否定しながら、イエスの死後幾多の困難も省みず布教へと走らせたものは何か。それは神の愛に等しいイエスの愛だと、弟子たちがきづいたからだ...こんなモティーフが底を流れている。(「玉ねぎ(イエス)が殺されたとき」と大津は地面をじっと見ながら呟いた。まるで自分に向かって言い聞かせるように、「玉ねぎの愛とその意味とが、生き延びた弟子たちにやっとわかったんです。弟子たちは一人残らず玉ねぎを見捨てて生き延びたのですから。裏切られても玉ねぎは弟子たちを愛し続けました。だから彼ら一人一人の後ろめたい心に玉ねぎの存在が刻み込まれ、和すられぬ存在になっていったのです。弟子たちは玉ねぎの生涯の話をするために遠い国に出かけました。(深い河、講談社文庫、301-2頁)

深い河は遠藤周作の最晩年の作品。

大津:美津子のカトリック系大学の同窓。哲学科に籍を置く、くそまじめ、不器用、人がからかいたくなる。

美津子:フランス文学専攻、美人。 美津子:大津をからかい半分に誘惑する。神をとるか私を取るか。美津子をとった大津を捨てる。

大津:美津子に捨てられてぼろぼろになって...いつも行っていた大学のチャペルに入って跪いていると、(イエスから)おいでという声を聴く。

大津:リヨンの神学校へいく。

美津子:不動産会社の御曹司と結婚する。話は、仕事とゴルフと車。くそまじめでやさしい大津を忘れられない。

大津:5年リヨンの神学校にいるが、無意識に潜んでいる(西洋の神父からみれば)汎神論的な感覚のために神父の位をもらえない。

大津:神父になれなくて、インドのバーナラシーのヒンズー教のアシュラムに拾われ、そこで火葬する金もない極貧ののたれ死にしたアウトカーストの人たちを背負ってガンジス河に運ぶ仕事をする。

美津子:キリスト教のあなたが、なぜこんなところでこんなことをするのか。

大津:そんなことは問題ではない。イエスがここにいたら、きっとイエスは行き倒れを運んだであろう。

■私が鞄に入れ持ち歩き、折に触れて読んだ本。

清沢満之(1863-1903)の宗教的信念の必須条件。

宗教的信念に入ろうと思うたならば、まず最初にすべての宗教以外の時々物々を頼みにする心を離れねばならぬ。...家を出て、財を捨て、妻子を顧みぬという厭世の関門を一度経なければ、なかなか本当の宗教的信念に至ることは出来ぬであろう。...宗教は人間たるの道にあらずして、人間以上のあるものになろうという道であるから、この道に進もうと思うたならば、是非とも人間世界の事物を頼みにするような心を離れねばならぬ。...

■維摩経、菩薩の道(長尾雅人訳)

五無間罪野道を道としながら、しかも悪意、害心、遺恨が起こらない。
地獄の道を道としながら、しかも煩悩の塵をすべて離れている。
畜生の道を道としながら、しかも無知のまっくら闇がない。
貪欲の道を道としながら、しかもすべての欲望の享楽とは離れている。
怒りの道を道としながら、しかもすべての人々に対して怒りがない。
愚かさの道を道としながら、しかもあらゆる法を知によって洞察する心を持っている。
吝嗇の道を道としながら、しかも心身を顧みず、ものを人によく与える。
破戒の道を道としながら、しかもわずかな過ちにもおそれを抱いて、の徳や小欲知足に身をおく。
怠惰の道を道としながら、しかも絶えず精進して、あらゆる善根を追求することに努力する。
煩悩の道を道としながら、しかもまったくそれに染まることなく、自らの本性においては清浄である。
貧困の道を道としながら、しかも尽きることのない財産を手にする。
財のあるものの道を道としながら、しかもまったく財を追求することなく、無常であることをくりかえし想念する。
世俗の道を道としながら、しかも一切から脱却している。
涅槃の道を道としながら、しかも輪廻の流れを捨て去ることもない。
人々に病気や苦しみのあるふるまいを示しながら、しかも死の恐怖を超越し、根絶している。

道法を捨てずして凡夫のことを現ず。
煩悩を断ぜずして涅槃に入る。
不二法門