No.1  04/7/1


 主体性の喪失と世界倫理の欠如  (『維摩七則』跋から)


・・・しかし、もしこの(集団力や科学力に対する)倫理力が、特定の個人や、社会や、国家や、国家ブロックや、民族や、階級や、イデオロギーのエゴイズムの立場に立ったものであるならば、たとい善意であっても、その限り、依然として不安は去らないであろう。近来、平和の要望が、これほどまでに世界的に絶叫されておるにもかかわらず、平和運動が空転して、完全軍縮一つ、軌道にさえのり得ないのは、もはや役に立たないこれらのエゴイズムの立場の倫理を蝉脱〔せんだつ〕し切れないためである。

今や、われわれはこの古い倫理を脱ぎすてて、全人類の英知と福祉とに立脚する新しい
世界倫理を確立し、これによって、集団力や科学力と倫理力との跛行〔はこう〕を是正して、現代の一つの危機を克服し、全人類のための、全人類による、全人類の政治を行い、従来の、諸民族や国家の歴史の集積としての世界史ではなくして、世界を一丸とした、新しき真正の全人類世界史の形成に向かって邁進すべきである。
これこそ、われわれがF・A・S協会において、「全人類(Allmankaind の立場に立とう」と標榜するゆえんである。

 かように、倫理力の増強によって現代の一つの危機を脱することができるにしても、なを今一つの危機を免れることはできない。近代文明の著しい進展によって、人間は、内界外界ともに頗る複雑多岐になり、自ら造った文明のジャングルに投げ込まれて路を失い、それに追いまくられて、近世に到って折角獲得した自律的主体性を喪失し、再び新しい形態の現代的奴隷となり、生ける屍化し、あたかも、蚕が美しい絹糸をつむぎ出して繭という自分の世界を造りながら、自分は、その中に閉じ込められて次第に自由を喪失し、いつの間にか蛹となってミイラ化する如くである。

人間のかようなあり方は、人間を分裂症ノイローゼに追い込まずにはおかないであろう。前述の倫理性の欠如と相からみあう現代の世界を蔽う不安やノイローゼは、この主体性の喪失に因るところ極めて大であろうと言わなければならない。
 
そこでわれわれに要望されることは、あたかも、蜘蛛が自ら糸をつむぎ出して、大空に複雑なる組織網を張りめぐらしながら、自らそれに引っ掛かることなく、常に中心に在って主体性を喪わず、自由に全網を駆使し、もし破れて役に立たなくなればそれを回収してさらに新しい網を造り出すように、人間も、文明の歴史を創造しながら、自ら造ったものによって自らを拘束することなく、常に創造されたる歴史を超えて、自由に歴史を造って行く主人公であることである。

かかる主人公こそ、『維摩経』の中にわれわれが新しき、否、本来の真の人間像として見いだそうとするところのものである。「無住の本より一切法を建」て、「道法を捨てずして凡夫の事を現ずる」という『維摩経』の語句は、この人間像を言い詮わしたものに他ならない。

この何ものにも捕らえられない絶対自由な主人公を、わが協会では、「無相の(Formless)自己」と言い、捕らえられずして歴史を創造するはたらきを、「歴史を超え(Supper-historical )て、歴史をつくる」と言うのである。(『維摩七則』跋より)

                                    No.1 主体性の喪失と倫理性の欠如 (04/7/1)


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