解決するとはどういうことか


米田俊秀



 
風信49号 2003年12月(ウエブでの読みやすさを考慮し、原文の段落区切りを変更しています。)



戦後数年たってサンフランシスコ講和条約が締結された年、久松は或る対談をおこなっている。その中で、歴史的課題は個別的解決では真の解決には到らず、歴史そのものの在り方に問題を掘り下げないかぎり、本当の歴史的課題の解決にはならないことを示唆している。つまり、現実的政治的な問題でも深く宗教の問題にまで次元を掘り下げないかぎり、言わば先送りの解決になるという。或る問題の解決はまた新たなる問題を生み、またある種の解決が試みられる。対立するものには各々事柄を正当付ける立場をもつものである。それを歴史といえば歴史ではあるが、しかしそこには限りない不安と、生滅の虚無感が付きまとうだろう。それを弁証法的な構造をもつ歴史の常態とみなすのではなく、現実の根源的な批判に立って、不安や虚無を克復する道を見出そうと試みることがなければならないであろう。そこで久松は、共産主義にも民主主義にも組せず、国家そのものの抜本的な改革をしなければならないとしている。


我々は現実に出会い、解決さるベく迫ってくる課題に個別的な領域の問題として個々に対応批判し結果を或いは結論を提示し解決していかなければならない。その様な普通考えられるような態度を久松は「個別的な問題の解決」という。現実に差し迫ってくる問題を、一つ一つの課題を個別的に解決していく在り方、それは極普通の在り方と見られるが、しかしその様なあり方には一種の不安が伴う。というのは一つの解決はまた次の解決を解くべき課題として迫ってくるものであり、次々と後から続いてくる解決は覆されていく。従って、最終的な結論ともいうべき事柄は先送りにされ何時までも到達されない理念として我々の前に置かれることになる。その様な現実の過程的な在り方に対して、歴史的に現れる事柄を契機にして歴史そのもの、また人間そのものを根本的に批判し、全体的に解決する在り方が個別的にたいして「本質的解決」というものであり、予て宗教の本質でもあったと、久松は批判する。


個別的な解決と本質的な解決という二つの方向が結び付けられねばならない。現実に起こる個別的問題を契機にして歴史と人間の根源的な問題を掴み出し、その上で現実的個別の問題を解決していくべきものなのである。例えば、佛教では歴史的な個別的事柄を契機として歴史を無批判的に認めるのではなく、歴史そのものの在り方に問題を掘り下げ深めて、世間虚仮、苦、無常という認識に到達したものなのである。その獲得された根源的立場より現実の個々の課題に向かうのであり、それが根本的解決あるいは宗教的解決というものなのである。従って、宗教的歴史観には普通の弁証法的歴史観に見られるように未来に言わば理念が置かれるのではなく、終末的現在にその始源が見出されているのであるといえる。その様な根源的なものの解決という立場から、久松によると、真の企画性や統一性が出てくるものであり、其処に人間の落ち着き、安心があるのであり、悪無限的不安を免れることが出来るのであるとされる。


宗教は「一般」に立って「個」を行ずる、といわれる。勿論、この「一般」は所謂政治的な普遍主義を意味するものではない。個々の事象における全体の上に新たなる統一を見出す想像力に負うものが普遍主義であり、その限り人間的なるものの領域を越えるものではない。一方、個別的な解決領域には確かに過去の経験の帰納による確実性を見出すことは出来ようが、過去的人間経験の範囲を脱するものではなく、将来に新たなる経験を開くことは或る意味で出来ないであろう。一般に立って個別を行じて行く場合の「一般」を久松は、先験的結論(transzendentaler Schluss)という言葉で説明している。


一九七六年三月の或る対談で、久松は根源的な解決のその一例として、先験的結論という言葉を使っている。transzendental 超越論的、或いは先験的なるもの、経験に先立ち、経験を成り立たしめる条件を用意するもの、「ア・プリオリな結論」という意味であろう。更に、この「結論」ということは、Schluss 、schliessen 推論するその結果という意味の結論と考えられる。論理的には、推論は一般より特殊に行くことであるが、一般なるものつまり世界が世界自身自ら発現することであり、創造作用であると考えられる。我々の住する根本実在の構造であるといえる。経験的結論と区別される経験以前の結論と言われるのはそのことであろう。そこにおいて我々の経験が創造される、不安なき解決としての人間の経験が創出されるのであるといえる。


先験的結論、それが「後近代的世界」といわれるものである。これは経験的に帰納されたものでは勿論なく、直観に立つものである。叡智的直観に立つものである。直観は決して主観的な、確かな客観性をもたないものとして棄てられるべきものではなくして、経験以前の確実性というものであり、現実を創造する力をもつものである。宗教的世界ではいつも預言者が意味をもっていることを思うべきである。


歴史的な課題の解決という我々の経験の初発は、決して未来の理念または目的に達すべき手段という意味をもつのではなく、先験的結論といういわば現在である具体化された目的のうえに立って、つまり結論に立って経験を為すところに創造がある。結論が経験の初発の内的構成力となることである。我々の一歩一歩の行為が初発であり、終わりであり、完結を意味するものである。先験的結論に立って行為を始めるその事が、結論を現成せしめることなのである。