文明と宗教の危機に
山田 愼二
風信49号 2003年12月(ウエブでの読みやすさを考慮し、原文の段落区切りを変更しています。)
はじめに
日本人の自殺は、ふえるばかりである。すでに五年連続して年間三万人を超えた。それでも、まだ苦しみ方が足りないというのか。国民に「痛み」だけを押しつける政治が、どこまでも続いている。
世界では、テロを撲滅するためという目的を掲げて戦争がはじまり、いつ果てるともなく泥沼化している。人類全体がまだ苦しみ方が足りないとでもいうのであろうか。
私たちは、いま二重の大きな危機に直面していると思う。ひとつは、いわゆる近代主義の行きづまりである。もうひとつは、その背景にある宗教の破綻である。いいかえるならば、人類文明そのものが致命的な危機に陥っているのである。
従って私たちの前には二つの課題がある。ひとつは、いうまでもなく、前世紀から引き継いだポスト・モダンの試行である。いまひとつは、あらゆる宗教を超えて人類に普遍的な宗教性を追求することである。
二十一世紀の初頭において、こうした課題が大きければ、大きいほど、私はFAS思想の重要性をいっそう自覚する気持ちになる。
その一
「幸福」が日本中にあふれている。まるで水戸黄門の印籠みたいに、この言葉を目の前に突きつけられると、だれも「恐れ入って」文句をつけにくい。これは、とりわけ平成時代になって、しだいに目立つようになった。
たとえば、オランダ生まれのジャーナリスト、カレル・V・ウォルフレンは、滞日経験を踏まえた日本批判の論者として知られている。彼の代表的な著書は、そのタイトルにズバリ『人間を幸福にしない日本というシステム』と掲げた。
その主張によると、多くの日本人は自分の人生に疑問を抱いている。その原因は、日本社会が構造的にゆがんでいるところにある。彼の最終的な診断は、こうである。
「日本には、まだデモクラシーが実現していない」
従って、そこから出て来る結論として、きわめて明確な提言をする。
「だから、日本社会は政治・経済・文化・教育などあらゆる分野にわたって完全に欧米型システムに変更する必要がある」
つまり、日本人が不幸なのは、まだ日本的要素を残しているからである。これをなくして、日本が完全に日本でなくなったとき、ようやく日本人は幸福を手に入れるというわけである。
こうした考え方に対しては、むろん有力な反論が存在する。たとえば、日本で企業を経営するアメリカ人のビル・トッテンは、まるでウォルフレン説に対抗するかのように『アメリカ型社会は日本人を不幸にする』ときわめて対照的なタイトルの著書を発表している。
「日本がアメリカ型の弱肉強食の社会をめざすならば、国民は必ず不幸になる。すでに、その兆候は現われはじめている」
いったい、どちらの説が正しいのであろう。二つの対立する立場を前にして、私はいずれかに共鳴するよりも、むしろ強い疑問を覚える。なぜ、彼らは、そんなに「幸福」を問題にするのであろう。
いずれの場合も、欧米知識人が “遅れた ”日本人に向かって、しきりに「幸福論」を説き聞かせている。そんな構図が見てとれる。その
“外から ”の影響力のせいか、いまや日本人自身が「幸福になりたい!」と大合唱をはじめている。
二十一世紀を迎えた段階で月刊誌『文藝春秋』は臨時増刊号『新幸福論―ほんとうの幸せとは?』を発行した。現代日本を代表する学者、作家、宗教家など百二十三人が登場して、それぞれの幸福論を披露した。
そのなかで、哲学者・木田元の発言がひときわ印象的であった。ハイデガー研究などで知られる老哲学者は、こう語った。
「日本人のだれもがおおっぴらに自分の幸福を追求する社会なんて、とても私は暮らす気にならない」
この意見は、一見、逆説的にみえながら、実に明解である。木田の指摘するように、西洋人が臆面もなく幸福を求め、幸福を論じるのに対して、もともと日本人は幸福という意識があまりなかった。この言葉そのものが、英語のHAPPINESSあたりの訳語として明治期につくられた。
明治以前から「しあわせ」という言い方はあったけれど、それは単に「めぐりあわせ」といった程度の意味にすぎない。人びとは、それなりに他人のことを思いやり、全体の調和をめざして生きようとしていた。
その日本人が近年にわかに正面切って幸福を気にしはじめた。それは、いわゆる自己中心主義の発現にほかならない。そこに木田は、現代日本人の精神構造における激変を見て取る。いつの間にか、われわれは一種の
“落とし穴 ”にはまっていたのである。
考えてみると、われわれは、もともとキリスト教的世界観を背景にした西洋製の経済や社会のシステムを当然のごとく受け入れてきた。しかし、そのとき、キリスト教そのものまで受け入れたわけではない。しかも、うかつにも、それらの社会システムが西洋社会ではキリスト教信仰と深く不可分に結びついていることに気がつかなかった。
キリスト抜きのキリスト教的世界観。そこに、私たちの文明の抱える構造的なジレンマがある。その自己矛盾は、時代の進展とともにますます矛盾の度を深めている。
こうした文明の深層の次元でみると、私たちは
“不幸 ”なのである。矛盾の深刻さにおいて、私たちは世界中でもっとも不幸な民族なのかも知れない。
その二
エドガー・アラン・ポーの小説『タール博士とフェザー教授の療法』は、一度読んだら忘れられない。小説の舞台となっている南仏の精神病院は、いつの間にか患者たちによって乗取られ、患者が勝手に考案した怪しげな治療法が堂々と実験されている。
この世界は、まるで医師のいない精神病院のようなものではないのか。そんな作者の辛辣な皮肉を読みとらないわけにはいかない。
いわゆる「九・一一」テロ以降の世界を前にして、私はこのポーの小説をしきりに思い浮かべる。「世界を救うには、この方法しかない!」と声高に叫ぶ人物をよく見かけるけれど、彼もまた
“医師 ”のフリをした “患者 ”の一人にすぎないように思える。
この病める世界に対して、もっとも適切な治療法は、いったい、どこにあるのか。二十世紀において長らく効用を信じられていたイデオロギーは、すっかり信頼を失った。根強く支持されてきた宗教にあらためて期待が寄せられたにもかかわらず、その希望は無残に打ち砕かれた。
なぜなら、国際テロも、それに報復する戦争も、ともに「神の名」において推進され、大いに奨励された。宗教は平和の役に立たないのだ。ここにおいて私たちは、キリスト教やイスラム教のはらんでいる
“病理 ”について無関心ではすまされない。
「世の中で一番迷惑なのは、一神教と一神教のケンカです。はっきり言えば、一神教が人類の諸悪の根源です」
和光大教授の岸田秀は、フロイド派精神分析の立場から再三にわたり指摘している。岸田はフロイド最後の著書となった有名な『モーゼと一神教』などを踏まえて語る。
「一神教の神は復讐欲と嫉妬心が強く、残酷な罰を下す恐ろしい神です」
キリスト教の側からいわせると、当然、反論が出るであろう。キリスト教こそ人類愛を説く宗教であると主張するに違いない。この点について岸田は冷静に判定をくだす。
「こういう問題は、本人の自称や主観ではなく、あくまでも客観的な事実で判断すべきです」
つまり、キリスト教徒が世界各地で人々の福祉に貢献しているのは、まぎれもない事実である。その一方で、これまでの歴史においてキリスト教徒がどれほど多くの虐殺をくり返してきたことか。客観的事実をくらべるならば、答えは明らかである。
「やはりキリスト教は現実に愛の宗教とは言えないでしょう。憎しみの宗教だからこそ、反動的に愛を強調したと考えられます」
この議論に関連して私は、従来の宗教論について率直な疑問を抑え切れない。宗教に限らず、あらゆる分野で人間の言動を観察するならば「何を言ったか」(WHAT・TO・SAY)の言説は、あくまでもタテマエであり、実際に「何を為したか」(WHAT・TO・DO)の行動こそホンネといえよう。
宗教論において教義研究のみにエネルギーを費やすのは、その宗教が「何を言ったか」というタテマエのみに目を奪われて、歴史の中で現実に「何を為したか」というホンネの実態から目をそむける結果になりかねない。
神の名において殺し合いをくり返す 宗教を克服するには、どうすればよいのか。これが、二十一世紀の初頭において人類にとって最大のテーマとなったといえよう。
そのためには、従来の宗教論の領域だけにとどまっていては、不十分であろう。人類誕生以来の歴史全体を視野に入れるような幅広い文明論や人類学の立場からもアプローチを試みる必要がある。それほど危機は深く、根源的な探求が問われている。
その三
ここに人工衛星から撮影した地球の映像があるとする。それを拡大しながらユーラシア大陸とその周辺をしだいにクローズアップしてゆくと、何が見えるだろう。恐らくミドリ豊かな森林地帯とミドリを失った荒野とのまだら模様であろう。
ミドリの残っている地域を世界地図にかさねてみると、よくわかる。モンゴル・チベット・ネパール・ブータン・ミャンマー・タイ・カンボジア・ラオス・ベトナム・スリランカそして日本である。
これらの国々には、奇しくも仏教がなんらかの姿で生き続けている。それとは対照的に、かって仏教の本家であったインドと中国から森林は失われ、仏教も衰えてしまった。自然とともに共存する宗教としての仏教の根源的なあり方を痛感させられる。
「世界の巨大宗教の大半が森林を破壊した。その代表がキリスト教であろう」
環境考古学という新しい学問の提唱者として知られる日文研教授の安田喜憲は、一神教と環境破壊の関係を鋭く指摘している。
ヨーロッパにキリスト教が入ったとき、森林を伐採することによって布教が急速にすすんだ。森の中には聖霊が棲むと信じられ、崇拝されていたのに、森林が失われるにつれて、そうした土着の神々は抹殺されていった。
人々と自然との深いつながりが断ち切られた。そのあとに「天にまします唯一の神」が、しだいに支配の勢力を広げていったのである。
あらゆる宗教の原点には、その宗教を生み出した人々の育った自然環境があったはずである。そうした自然観や世界観は、巨大宗教が誕生して以来、しだいに忘れられ、無視されてきた。
「教祖の姿だけがふくれあがり、風土と自然を無視した宗教の生命は、もう長くないであろう」
安田教授が人類史の視野からこう語るとき、世の宗教家たちはなんと答えるのであろう。
人類学の立場からの宗教論として私は、二十世紀を代表する知の巨人、レヴィ=ストロースを思い出す。文化人類学の金字塔というべき歴史的名著『悲しき熱帯』の最終章において、彼はきわめて大胆な見解を披瀝している。
「人類は三つの大きな宗教的試みをした。ほぼ五○○年の間隔で仏教・キリスト教・イスラム教をつぎつぎに生み出した。そのたびに前者よりも後退を示したのは、驚くべきことだ」
また、ストロースは、この著書の翻訳者で愛弟子にあたる日本人学者、川田順造と対談したさいに、ハッキリと告白している。
「私は信仰を持ったことは、なかった。それなのに、仏教に接したときだけ心が通うのを感じた」
彼は西欧文明を根底から問い直して、いわゆる構造主義と呼ばれる思潮を創出した。その思想によってキリスト教やイスラム教を徹底的に批判したのに、仏教についてのみ高い評価を与えた。
「自然の尊重、環境の保護など現代で問題になっていることは、すでに二五○○年前の仏教の教えの中にみなあるからです。いわば、自然と調和を保とうとする人間の努力、それに私は深く共感を覚えるのです」
ここでいわれている仏教は、いわゆる宗派宗門にはなんの関係もない。あらゆる宗教的なるものの原型にもつとも近いものとしての仏教というイメージが、おのずと浮かんで来る。
いま私が再び思い起こすのは、あの「九・一一」テロの現場である。殺し合う一神教同士の病理を治療するために「自然の回復」の願いをこめて日本から声があがった。
「現場にまず樹木を植えよう」
また、日本を代表する世界的な建築家、安藤忠雄は、独自の立場からグラウンド・ゼロ・プロジェクトを提案して注目された。
「失われた都市の空白を何かで埋めようとするならば、それは建築ではなく、鎮魂と反省のための場所であるべきだ」
具体的には、球体の一部の形をして底面の直径二○○メートルのゆるやかな大地のふくらみともいうべき墳墓である。その球体は赤道半径から数字を割り出し「人類にとってただ一つの地球」への思いが込められていた。
こうした声も願いも空しく、ニューヨークの現場では、ユダヤ系ドイツ人建築家の設計によって、倒壊したビルよりもさらに高く天を衝く超高層の巨大ビルの建設計画がすすんでいる。
おわりに
「人種・国家・貧富の別なく、みな同胞として手をとりあい」
久松真一博士が人類解放のために掲げられた悲願のメッセージというべき『人類の誓い』こそ、いま私たちにとってこのうえなく切実な響きをもって迫ってくる。
それと同時に、いま私は虚心にこの一節を前にして、これに加えて「宗教の別なく」という一句を重ねあわせて読み込みたい気持に駆られる。
あらゆる文明の背景には、まぎれもなく宗教の問題が存在する。その宗教そのもののあり方が根底から問い直される時を迎えたのではないか。
いまや人類の病理となった宗教対立を克服するために、すくなくとも二つの道が考えられよう。
ひとつは、先人たちによって試みられているように宗教間の対話路線である。これには、相互の相違を認め合ったうえでの平和的共存論もあれば、さらに踏み込んで融合への可能性をさぐる立場も考えられる。
もうひとつは、もっと根源的なアプローチというべきかも知れない。個々の宗教そのものにこだわるのではなく、歴史的宗教よりもさらに以前の根源的な宗教性へとさかのぼり、あらゆる宗教の原型にあたる核心をつかみ出す。
それができれば、それこそが人類にとってもっとも普遍的な宗教ではないのか。それは、おそらく生き生きとした自然感覚にみちあふれ、なによりも生命を大切にする点において、仏教の精神にふさわしいであろう。
宗教以前の宗教でありながら、あらゆる宗教を超えて宗教以後の宗教へ。そうした探求の旅。それが、私にとってFAS禅の持つ意味であると受けとめている。