「相互参究」を相互参究する(後半)

発題者―江尻 祥晃

風信48号 2003年7月(ウエブでの読みやすさを考慮し、原文の段落区切りを変更しています。)          


 

参加者― 常盤・越智・大藪・原田・山田・江尻

相国寺山内林光院にて    

 

江尻「平常道場の実究・論究というのはずっと続いているわけなんですけれども、ここでの論究というのは相互参究であると思っているんです。実究というのはもちろん坐禅ですね。この二つは二つであって一つであるというふうに思うわけです。だから坐禅というものがあって、相互参究というものがある。現在でしたら、相互参究が先にあって、後に坐禅が来ているわけなんですけれども、以前は逆だったわけです。どちらが先でもいいんですけれども、この二つは離れてはいけない。別々のものだと考えてはいけないと思っていたんです。ここで相互参究を真剣にやる。それが坐禅というものを真剣なものにしていく。そしてまた、坐禅を真剣にやるということが相互参究を深めていくということになる。そういう相乗効果というか、そういうものとしての坐禅・相互参究、一体となった形というのが理想の形じゃないかと以前から考えていたわけなんです。今回の発題の題目というか、相互参究の一つの試みというふうな思いで書いたんですけれども、相互参究というものを坐禅の姿勢のままでするというのはどうか。今回のこの相互参究もそれに近い形ではあると思うんですが、坐禅という、本当に背筋を伸ばした姿でお互いに車座になって参究していくという相互参究のやり方。今までそういうことはやってきませんでしたが、車座になって坐禅の姿でやることによって、どう言ったらいいんでしょうか、そこでどういうものが生まれてくるか、実際やってみなければ分からないと思うんですけれども、そういう相互参究があってもいいんじゃないかと思っているわけです。むしろその方がいいんじゃないかと。この平常道場の時間の中でそれが実現できるかどうか、実は今日三十分だけでも実験的にやってみたらと思っていたんですけれども、時間がなくなってしまったのでできませんが、そういう相互参究を実験的にでもやれたらなあというのが自分の気持ちなんです。その時に、ここにも書かせていただきましたが、全員でやるわけなんですけれども、はじめは当然一対一の相互参究にならざるを得ないと思うんです。その間は、ほかの参加者はじっと坐禅していることになる。真剣に一対一で相互参究している、その場に居合わせてじっと黙坐しているのも非常に大事なことだと思うんですね。その時に一言も自分は発言しなくても、本当の自己に覚め合おうとしている者同士のやりとりといいますか、相互参究を静かにじっと坐って聴くということも非常に大事なことだと思うんです。それで、一対一の相互参究がとぎれた時点で全員が参加して、『今あなたはこういうことを言われたけれども、それはどういうことですか』とか、『私はこう思うんですが』というような意見を出し合って、全体の相互参究に移行していく。しかしこの時も、自分は発言したくない、自分との相互参究(縦の相互参究)を続けたいということであれば、黙坐を続けてもよいと、そういうようなことをやってみてはどうかと自分としては思いましたので、一つの例として挙げさせてもらったわけです。」

 

原田「普通の場合は老師と参禅者が一対一でやられる、臨済の場合ですよ。しかし我々はそういう関係が、久松先生は亡くなっておられませんから、久松先生の本を読んだり、西田幾多郎の本を読んだりしているんですけれども、やはり今あなたが言われるように、その考えは僕もいいんじゃないかと思うんです。ただ論究二時間、実究二時間という今までのやり方をこれに切り替えた場合に、今の格好とどう違うか。今度これでやった場合に四時間をかけてやるのか、三時間でやるのか、その辺のところはどうでしょうか。誰かが発言のきっかけをつくらなきゃならないでしょう。それは決めるわけですか。老師がおられてやる場合は問答形式になると思うんですが、やはりはじめにアクションを起こす人がいないとね。」

 

江尻「恐らくいろんな問題が出てくると思うんですけれども、僕は相互参究というのは、先程も言ったように、基本は本来の自分と現実の自分との間の相互参究、これが基本であると思っていますので、車座の相互参究において誰も発言しない、みんな黙って坐っているという場合には一時間でも二時間でも坐っていると、それでもいいと思っているわけなんです。今までのやり方というのは、第一週の土曜日はこういうテーマで、第二週の土曜日はこういうテーマでと、毎回違いますよね。全く違ったテーマで四回やっているわけなんですけれども、自分の思いとしては、一つのテーマで続けていくほうがいいのではないかと思っているんです。もちろん参加者が不定で前回の内容を今回続けるということが難しいというのは分かるんですけれども、できることならば毎回毎回相互参究しているテーマを深めていくというんですかね、その方がいいと思うんです。例えば前回、十一月の第四週の土曜日に、ここでやりましたけれども、意志前の状態が二時間三時間続くということについて議論がなされましたね。それは十分議論されないままに終わっていますが、例えば、このことについて越智さんに問いたいと思えば、このような車座の相互参究において問えるわけです。そこで一対一の相互参究が成立してやっていくことができる。続けて同じテーマでやっていくということは、また次回の土曜日にはそこから発展したものが、さらに深めたところからやっていけるわけです。今回の相互参究でも出てきたように、参究するというのは本来の自分、これこそ本来の自分だという、その本来の自己にお互いが参究するというのが真の相互参究なんだという認識は皆さん持っておられるわけですから、やはりその方向に向かって論究という場も変わっていかなければならない。お互いが本当の自己というものに覚めていく、いけるような場、そのような論究の形を模索して、いろいろと実験的に試してみるということが必要なんじゃないかと思っているんです。」

 

越智「今日やったこととこれと本質的にどこが違うんですか。」

 

江尻「本質的には違いません。」

 

越智「二人ではじめて、その間、他の人達は聞いておってと、そんなルールを決めて、やってうまくいきますか。かえって窮屈でしょう。」

 

原田「越智さんのような先輩格の方がやはりできるだけ…誰かにリードしてもらえたら有り難い。」

 

越智「それだったらね、産業訓練でやっていることとあまり変わらないですね。」

 

原田「今、江尻さんが言わんとするところのものを一度何回かかけてやっていったらどうでしょうか。」

 

越智「そういうふうにやれると思うなら、やってもらうのは大いに結構だけれども、江尻さんの題を見せてもらったら、相互参究の可能性についてということでしょう。可能性と書いてある。可能性とは一体何なのかね、あなたが可能性というのは一体どういう立場で何を問題にしているのか、僕は何か傍観者みたいな感じがする。」

 

江尻「今の越智さんのご発言の答えになっているかどうか分かりませんけれども、結構何でも相互参究なんだと、例えばここでの論究は相互参究なんだと、路地の魚屋の大将と話をするのも相互参究なんだと、何でもかんでも相互参究なんだと、広い意味で言えば相互参究でないものはないんだと、確かにそう言える面はあるかも知れないけれども、本当の相互参究はどこで成り立つのかということは、やはりお互いに追求していかなければならないんじゃないですか。何でも相互参究なんだから、そんなことは考えなくてもいいとしておいてよいのか。相互参究が成り立つために、これだけはお互いにしっかりと、基本というんですかね、押さえていかなければならないと思うんです。」

 

大藪「いや、だから、相互参究というものをもっとどうあるべきか考えなければいけないんだと思いますけれどね。だけど、僧堂とか、長い歴史の中で作り上げられてきたものも非常に重要なものを含んでいる。そういう中で作り上げられてきた形式というものがあるということも事実ですよね。それがいろんな問題を含みながらも、その中に非常に重要なものが含まれているということも事実は事実だと思いますよ。だから是非考えなきゃいかんと同時に、ぶちこわすことと同時に、そのことの意味をもう一遍探り出すということですよね。それは非常に重要なことだと思っています。だから江尻さんが言っている相互参究の一つの試みの中身はもうちょっと相互参究していかなきゃならないのと違う?」

 

越智「一遍やってもらったらどうですか。そうすれば問題点がはっきり分かると思う。」

 

大藪「今日、江尻さんは話をしてくれたけれども、これで終わってないでしょう。まだまだ物足りないでしょう。だから少なくとももう一回相互参究についてということでやってもらったらいいんじゃないかと思います。皆さんお互いに通じ合ったわけでもないような気がする、まだまだ土俵に乗りかかっただけという感じじゃないかなと思う。」

 

江尻「できれば今回こうやって話し合いを持ったわけですから、今日お集まりの皆さんがどう思われたかということをお聞かせ願えたら非常に有り難い。」

 

                      参加者の一人から、江尻の言う相互参究とは現実の自分と本来の自分との相互参究が重要なのであって、車座になっての他者との相互参究はいらないのではないかという質問が出た。つまり、江尻の言う相互参究とは基本的公案と異ならず、二つの関係がはっきりしていないというのである。

 

江尻「その辺のところを、例えば、私が前回、相互参究と基本的公案はFAS協会における二本柱だというような言い方をした時に、常盤さんが、いや、二本柱ではないんだ、一つなんだと言われたと思うんですけれども、その辺と関係してくると思っているんです。」

 

大藪「非常に重要な指摘ですよね。相互ということの意味が、縦と横ですか、そういう二つがあるということは、今日の段階で共通の理解になったけれども、横の関係の相互参究というものが、縦との関係の中でどうあるべきなのかということでしょう、あなたが本当に問題にしなければならないのは。要するに、最後のページで言われているようなことをですよ、横と縦との相互参究というのがあるんだけれど、横の相互参究も無視できないよというものが出てくるわけでしょう。横の相互参究なんて、そんなものどうでもいいんだと、ただ坐っていれば、縦の相互参究さえしていればいいんだというものとは違うんでしょう。」

 

江尻「だから、単に横の相互参究という、それだけじゃないんですよね。他者との相互参究ができる地平というようなことで言ってきましたけれど、根本に縦の相互参究があるから横の相互参究が成り立つということがあるわけですよね。だけど、横の相互参究もとても大事なわけです。先程のご指摘は、本当の自分との相互参究をやっているだけでいいんだったら、何で車座になっての相互参究をする必要があるんだということでしたが、私はそれはとても重要なことだと思っているんです。まさしく自分が本来の自分との相互参究をしていくこと、それはとても大事なことなんだけれども、なかなかできないという私がいるわけですよね。基本的公案を、どうしてもいけなければどうするかということを自分一人でずっとやっていけるのであればある意味問題はない、お互いに相互参究する必要はないじゃないかということになるかも知れないけれど、現実問題、縦の相互参究をやろうと思っても、そんな簡単にできるものじゃないということが当然あるわけです。それは原田さんも言われたように、一人だけでそんな簡単にできるものではない。しかし、車座の相互参究の中で真剣にお互いが参究していった時に、久松先生は、いつどこで本来の自分が出てくるか分からないというようなことを言っておられますが、それがきっかけとなって縦の相互参究が促進されるということも考えられるわけです。確かにはじめのうちは浅いところで話し合いがなされていたとしても、いつひょっとして他者から、または自分から本来のものが出てくるかも分からないわけです。それはまさしく全員が本来の自分を生きている、つまり水であるからですね、いつどんな時にひょっと本来の自分が、本来の他者でもいいんですけれども、私たちの目の前に現れて、それで現実の自分が、本来の自分に深まっていく契機になりうるかも分からない。そういうものを孕んでいるわけですね。それは、そうなるためには、お互い一人一人が真剣に自分自身に向かって努力することも必要だけれども、本来の自分に覚めようとする者同士がお互いに肩寄せ合ってというか、同じ場所に存在するという、そこから何か生まれてくるものもあるんじゃないかという、可能性があると思うんですね。お互いが車座になって真剣に坐禅の姿勢をとりながら参究しあうということの中に、それで何も生まれないかも知れないけれども、そこからいつ生まれてくるかも分からないという、いつもそういう可能性を孕んでいると思うんです。そういう意味からも、車座の相互参究は非常に大事なことではないかと思うわけです。」

 

大藪「それはいいんですよ。それでいいんだと思うんですけれども、その時に、具体的に車座になってやるということを、あなたが今言われる基本を押さえておいてね、その上で具体的にやるためにはどうしたらいいかという問題でしょう。あなたがやりたがっていることを一応何人かの人は合意しましたよね。あなたが考えておられることがあって、その上で具体的にはどうしたらいいかということは次の段階の話じゃないですか。そのことはみんなでもっと詰めなければいかんでしょう。」

 

山田「いいですか。僕は今日聞いていてね、江尻さんが本当に言いたいことは、相互参究とかなんとかということじゃなくてね、今のFAS平常道場の運営の仕方はこれでいいのかということを言いたいんじゃないですか。何か僕はそう言っているように聞こえた。これは一種の論究と実究の統合ですよね、この案は。そういう改革案というのかな、それを提示したかったのかなという印象を持ちましたけれどね。」

 

越智「非常に面白い工夫だと思います。しかしね、もっと大事なことがあるんじゃないかなと思うんです。江尻さんの発題というかね、自分のギリギリのところをここへ出すというのは、月一回だけれども、やっているわけでしょう。ここで今本当にギリギリのところを出したら反応があるはずですよ。他の人がギリギリのところを出していなければ、江尻さんが出てきてそこを突けばいいしね、今までにやってきたテーマのことも、そこに触れるような論究をあなたがここでぶつけていくと、そういうことの方がより足元からの、より確実な方法じゃないですか。あなたが今回提示されたものは一つの事柄みたいなものだ。それより今やっていることから、足元から、一歩一歩自分をぶつけていくと、そこに自然と形が変わっていくというのが本当のところじゃないですか。あなたが平常道場の在り方に問題を感じるのであったら、毎回出てきてほしいですよ。何か人を操作しようとしている、そんな感じがする。それよりももっとほかにやることがあるはずだ。実際このようにやっても、恐らくうまくできないと思います。」

 

大藪「まあね、一つのとっかかりにしたらいいと思います。少なくともまた発題やって下さいよ。」

 

越智「本当に一回これを試みられたらどうですか。簡単に主旨を話して、やろうと思えばやれるじゃないですか。」

 

原田「今日の運営の仕方を見ても、これに近い運営でね、皆さんの意見を聞いて、論究しやすいような雰囲気でやっておられるからね。」

 

越智「だからこの中で一番大事なことは何なのか。江尻さんね、やろうと思えばいつでもできるじゃないですか。やられてはどうですか。一度考えてみて下さい。」

 

常盤「こういう相互参究の形式ということではなくて、江尻さんが相互参究ということを本当にやりたいと思っておられるんであったら、江尻さんが御自分の問題を出されて、具体的な問題を捉えてね、それをみんなで論じ合うと、それをされたらいいんじゃないでしょうか。江尻さんの考えの方へ人を引っ張り入れるんじゃなしに、人を御自分の考えにしたがって動かすというのじゃなくて、自分が率直に問題を出して、今までやってこられたようにですね、一緒になって考えていくというようにされたらいいんじゃないですか。キリスト教ではクエーカーというのがありまして、会員がお互いに瞑想して、インスピレーションが湧いたら自分の思いを発表するということがある。それぞれお互いのうちに光が、インナーライトがあるんだと言うんです。それをお互いに出し合うと、それはもう、司会がいてということじゃなくて、自然に出していく。誰も言うことがなければそのままでいいし、自然な状況なんですね。こういうのがあるんですよ。そういう人達は非常に禅に関心が深い。キリスト教の中で一番禅に関心が深いんです。こういう人達は現実の働きと宗教的な働きとが一つになっているんですね。非常にユニークなもので、彼等は禅に深い関心を持っています。今江尻さんが考えておられることも非常にいい発想だと思うんですけれども、下手をすると他の者がみんな江尻さんのお考えの役割を演じさせられるようなことになってしまう。そういう点、何か引っかかるところがあるんですよ。そうじゃなくて、率直に御自分の問題を出して、問いかけていく。お互いに問いかけていく。実際にみんなそういう気持ちでいるわけですから、一つそんなことで、普段の論究というものが、そういう方向になっていくように考えていったらいいと思うんですけれどもね。」

 

全員「どうもありがとうございました。」