「黄檗仏法無多子」

 

常盤義伸
風信48号 2003年7月(ウエブでの読みやすさを考慮し、原文の段落区切りを変更しています。)
          


 

(『臨濟録』が臨済の言葉とする「黄檗仏法無多子」の意味について十二月二十二日午後林光院で私がお話ししたことを記して、『風信』47号の拙稿を補う)

 

(3―1)宋代の傑出した禅者・大慧宗杲(1089ー1163)が編集した公案集『正法眼藏』末尾の示衆で、大慧は臨済の悟りの言葉とされるこの表現を取り上げて賞賛し、同時に、この言葉を正当に理解するものが極めて少ないことに言及する。最近私はこの公案集の研究会でこれを読み大いに考える所があったので、その紹介を兼ねてこの言葉の意味する所を探ってみたい。実はクリスさんと私は上記の表現の英訳で禅文化研究所発行の次ぎの訳を依用した。

 "Ah, there isn't so much to Huang-po's Buddha-dharma!" (Ruth F. Sasaki, The Record of Lin-chi, Kyoto 1975)

 

この翻訳は、伝統的な理解を入矢義高先生が文献批判を踏まえて紹介されたものである。入矢先生は『禅語辞典』で「多子」を「仔細、あれこれ、ごたごたした事柄、たすと読む習わし。無多子という表現が普通。反対に少子という語も唐代にはあった」とされる。「無多子」の語を、「仔細がない」「あれこれ、ごたごたした事柄がない」と解されるわけである。これが今日一般に採用されている理解である。

 

久松先生は「無多子」を、「不思議な」「われわれのとうてい及ばないような難しい深奥な」ものではない、「何の不思議もない」「当り前のこと」「悟るの悟らぬのと区別の有るものじゃない」「当然のこと」、と説明される。私たちは英訳で当然これに従っている。

"When we awaken, we, too, realize there's nothing special or extraordinary about the awakened way of being of people like Huangbo." "we realize there's nothing mysterious involved."

 

私は、臨済の師・黄檗の思想を探って、臨済の言葉とされるこの表現の一般的な理解の仕方を訂正する必要があると痛感する。黄檗が臨済の思想形成に根本的な役割を果たしたことを無視すれば、大慧の批判にも答えられないと思うからである、これは久松先生が黄檗の『傳心法要』と『臨濟録』との一体性を強調されたことにも適うと考える。私の理解では、「多」は「少」または「一」と対応する。仏教者・黄檗の云う「多」は、これを日常の用法だけに限定して考えることは適切でない。私の理解は二種である。(1)「黄檗の仏法には多[法]はなく一[法]のみである」、(2)「黄檗の仏法には多[法]もなければ、一[法]もない」。これは、実に『傳心法要』に示される黄檗の根本の思想である。(1)は『法華經』の言葉を踏まえる。(2)は(1)を黄檗自身の言葉に直したものである。これを臨済の口から「黄檗の仏法」の根本性格として云わせたものが今日『臨済録』に伝えられる表現だと解すべきである。『祖堂集』にこの表現は見られないので、これが実際に臨済の言葉かどうかは決めようがないが、思想上の系譜としてはこれは根拠のあることである。少なくともそのように理解されて始めて、この表現は意味をもつ。黄檗のこれに関連する言葉を幾つか紹介する。

 

『黄檗山断際禅師傳心法要』(四家語録巻四)から訓読引用。

「世人は、諸仏皆心法を伝うと道うを聞いて将に謂えり、心上に別に一法有りて証すべく取るべき有りと、遂に心を将って心を求む。千万劫を歴るも終に得る日なし。如(し)かず、当下に無心ならんには。便わち是れ本法なり。」

 

「決定して、一切の法は本、所有無く亦、所得無く、住無く依無く能無く所無しと知らば、妄念を動ぜず、便わち菩提を証す。道を証する時に及んで只、本心仏を証するのみ。歴劫の功用、並びに是れ虚修なり。」

 

「唯だ直下に頓に、自心本来是れ仏なることを了して一法の得べき無く一行の修すべき無き、此れは是れ無上道、此れは是れ真如仏なり。学道の人、祇だ怕るらくは、一念有とならば即ち道と隔たる。念念無相、念念無爲なる、即ち是れ仏なり。学道の人、若し成仏を得んと欲せば、一切の仏法は総に学ぶことを用いざれ。唯だ無求・無著を学べ。求むること無くんば即ち心生ぜず。著すること無ければ即ち心滅せず。生ぜず滅せざる、即ち是れ仏なり。」

 

「学道の人は直下に無心にして默契するのみ。心を擬すれば即ち差う。」

 

「祖師云う、仏一切の法を説くは一切の心を除かんが為なり、我に一切の心無し、何ぞ一切の法を用いんや、と。本源清淨仏の上に更に一物を著(お)かず。」

 

「達磨大師、中国に到って唯だ一心を説き唯だ一法を伝う。、、、法は即ち不可説の法、仏は即ち不可取の仏なり。すなわち是れ本源清淨の心なり。唯だこの一事のみ実なり、余の二は則ち真に非ず。」(下線部は『法華経』の句。巻二、方便品第54、55偈は次ぎの通り)

 

 (2、54)「十方仏土中、唯だ一乗法有るのみ、二無く亦三無し。仏の方便して

 説き、但だ假名字を以て衆生を引導するを除く。」(下線部梵文は「種々の乗」)

 

 (2、55)「仏の智慧を説くが故に諸仏、世に出づ。唯だこの一事のみ実なり。

 余の二は則ち真に非ず。終に小乘を以てせず、衆生を濟度するに。」

 

「故に、万法唯心、心も亦不可得なり、復た何をか求めんや。般若(空智)を学ぶ人は一法の得べきを見ず、意を三乘に絶して唯だ一真実にして、証得すべからず。我れ能く証し能く得ると謂うは皆増上慢の人なり。法華会上、衣を払って去れる者は皆この徒なり。故に仏の言わく、我れは菩提に於いて実に所得無し、默契するのみ、と。」

「古人は心利にて、纔に一言を聞いて便乃わち絶学す。所以に喚んで絶学無爲の閑道人となす。今時の人は只多知多解を得んと欲して広く文義を求むるを喚んで修行となす、多知多解は翻って壅塞(ようそく)となるを知らず、唯だ多く児に酥乳を与えて喫せしむるを知って、消[化]と不消とを都(す)べて総に知らず。三乘学道の人皆、是れ此の様に尽く食不消の者と名づく。所謂、知解不消は皆、毒薬となる。尽く生滅の中に向かって取る。真如の中に都べて此の事無し。故に云う、、、我れ燃灯仏の所に於いて少法の得べき無しと。此の語只、汝の情解知量を空ぜんが為なり。」

 

「汝、但だ凡情と聖境とを除却せば心外に更に別仏無し。祖師西來して一切の人全体是れ仏なりと直指す。汝今識らずして凡を執し聖を執して外に向かって馳へいして還って自ら心に迷う。所以に汝に向かって道う、即心是仏と。一念も情生ぜば即ち異趣に堕す。」

 

「一法を得ざるを名づけて伝心となす。若し此の心を了せば即ち是れ心も無く法も無し。」

 

「百種の多知は無求最第一なるには如かず。道人は是れ無事の人。実に許多般の心無し。無事も亦、無し。」

 

「故に経に云う、実に少法の得べき無きを名づけて阿耨菩提となすと。若しまた此の意を会得せば方に知る、仏道と魔道と倶に錯まりなることを。本来清淨皎皎地にして方円なく大小無く長短等の相無く無漏・無爲にして迷い無く悟り無し、了了として、見るに一物も無し、亦人無く亦仏も無し。」

以上、「黄檗の仏法に多子無し」は「黄檗の仏法に少法の得べき無し」を意味し、その真髄を伝える言葉であることが分かる。

 

(3―2)次ぎに、大慧の示衆から引用する。

「見ずや、臨濟三度黄檗に仏法的的の大意を問うて三度打たれ、後に大愚の點破を得て忽然大悟し覚えず失声して云う、ああ元來黄檗の仏法に多子無しと。愚云う、汝適來、過有りや過無きやをもとめて、しかも今却って言う、黄檗の仏法に多子無しと。汝、箇のなにを見て便わち恁麼に道うやと。臨濟、大愚の肋下をつくこと両祝す。愚、遂に托開して云う、汝は黄檗を師とす、吾が事に干わらずと。汝諸人、参禅して還って恁麼を得たりや。雲庵[真浄]和尚(1025〜1102、黄龍慧南の法嗣)頌して云う、

資糧更に些些を著けず、岐路年深く転たたはるかなるを恐れて、

直下に痛く施さる三頓の棒、夜来、旧に依って宿る蘆花。

又、[大愚の所に来て悟った]臨濟の悟りの旨を頌して云う、

便わち言う、黄檗に多法無しと。大丈夫児、豈自ら乖かんや。

脇下の両拳、信有るを明かす。黄檗従り付し将ち来らず。

又、[白雲守]端和尚(1025〜72、五祖法演の師)頌して云う、

[臨濟は]一拳に拳倒す黄鶴楼、一てきにてき翻す鸚鵡洲。

意気有る時に意気を添ゆ。風流ならざる処、また風流。

この両箇の老漢の頌に拠らば、便わち[真浄と守端とを]臨濟を承け嗣いで他の兒孫となすべく、真に忝竊(てんせつ、分に過ぎたこと)ならず。古来幸いに恁麼の体格有り。如何ぞ略些かの眼脳を著けて、是れは箇の甚麼(なん)の道理なると看ざる。此の事、青天白日の如し、甚麼の遮障か有らん。諸方に奇特の差別なす海蠡児(かいれいじ・巻貝)の禅の曲曲折折なる有り。」

 

大慧は、臨済が思わず発したとされる「黄檗仏法無多子」の語を日頃の見解に死に切って生き返ったものの表現と見ずにねじ曲げて解釈分類するものを、徹底的に批判する。我々が当然と思う理解も、大慧の批判に曝されるのである。たとい虚構の語であっても、それが禅の真理に根拠をもてばこそ、これだけの真剣な迫り方が禅者の間に見られたのである。禅の文献を読むものも、一般の禅者も、安易な理解に追随することは許されない。

(Linji: "With Huangpo there aren't many Buddha-dharmas to offer[, not even a few].")