「感性の大切さ」

菅原義
風信48号 2003年7月(ウエブでの読みやすさを考慮し、原文の段落区切りを変更しています。)
          


 

                
 私は病院で薬剤師をしています。病院薬剤師の業務も以前と異なり、患者さんに薬の説明をしたり、医師に薬の情報を提供したり、患者さんの訴えを仲介し症状緩和の薬を医師に勧めたりする仕事も増えました。
  現在、私は外科病棟で主に癌の患者さんを受け持っています。癌の患者さんの訴えは、癌の進行や抗癌剤投与による全身倦怠感や吐き気、その他なかなか有効な薬がないものが多くあります。このような患者さんの訴えに耳を傾け、薬の副作用に注意し、気分的にも身体的にも楽にしていただけるようにと思い仕事をしていますが、薬が効かなくなった末期の患者さんへの対応に苦慮しています。
 そこで大薮さんから、お聞きした傾聴ボランティアを主催されている村田久行先生の「ケアの思想と対人援助」(川島書店)を読んでみました。この本の主題とは離れるのですが、この本には現代人の思考方法はデカルトの思考方法であるが、この思考方法には隠された前提がある。そしてこの思考方法では、患者の受容と共感は得られないことが述べられています。
 ここで私は、疑問・1として、私達は当然ように思考しているがこの私達の思考方法はどのようなものかということと、疑問・2として、この思考方法を揺るがすもの、または思考方法の幅を拡げるものは何かということが、問題意識として上がってきました。
  現代の私達の思考方法がどのようなものか私にはわかりませんが、以前の私は、現実の世界は物理化学的に解明できる世界と考えていました。しかし最近は、昨日はどこへいったのだろう? 明日はどこからくるのだろう? 私達の現実の世界は、なんて不思議な世界なのだろう! と感じられるようになりました。
  中世の学僧の言葉に「すべての感覚の中になかったものは、悟性の中にない。」という言葉がありますが、この思考方法を揺るがすものは、感性ではないかと思うのです。
 大脳生理学では、古脳が本能的欲望を、旧脳が感情を、新脳(大脳皮質)が理性を司っており、古脳―旧脳―新脳(大脳皮質)と発達してきたため、感情は理性より下位の意識に位置付けられる傾向にありますが、その人が感じたことから考えられた考えがその人自身であると考えています。

  このような内容の話題提供をしましたところ、出席された方々から、ご意見や質問がありました。


【江尻】
 思考方法の幅を拡げるものを他に求めるのではなく、今の菅原さんは、患者と医師の中間という意味深いところに位置しておられるので、この仕事を進めていかれては…。
――このご意見は、外に求めるのではなく、あなたの中に菩提心があるではないですかと言われたように思います。


【川崎】
 ここにおけるデカルトの考えは、学問の世界におけるもので、日常生活世界におけるものとは違います。また、思考方法の幅を拡げるには、ある人が何故そのように考えるのかを考えることです。
――このご意見で、私には学問を見る眼と日常を見る眼が分かれていなかったことに気付かされました。
    私達にとって日常とは何か。また私には多くの人の考えからは、その人が日常の現実世界に溺れているように思え、現実に飛び込みつつ、現実に溺れないことはできないのだろうかと思いました。


【越智】
「不思議だなぁ。」と思う時はどんな感じですか。主客は二分しているのですか。
――「不思議だなぁ。」と思う時、主客は二分しているような、未分のような感じがして、このご質問で、主客未分とはどのようなものかを教えられた気がします。
  発題を終え、私を生かしている大きなものを感じることができ、私にとっては意義深いものとなりました。



『ケアの思想と対人援助』

(村田久行著)より
〔デカルトの思考方法〕
※明晰・判明
 私が明証的に真であると認めたうえでなくては、いかなるものをも真として受け入れないこと。いいかえれば、注意深く速断と偏見を避けること。そして、私がそれを疑ういかなる理由も持たないほど、明晰かつ判明に、私の精神に現れるもの以外の何ものをも、私の判断のうちにとり入れないこと。
※問題の分割
 私が吟味する問題の各々を、できるかぎり多くの、しかもその問題を最もよく解くために必要なだけの、小部分に分かつこと。
 この方法によって、我々は考察の対象を焦点を絞って、より明確に限定することができる。
※単純から複雑へ
 私の思想を順序に従って導くこと。最も単純で最も認識しやすいものからはじめて、少しずつ、いわば階段を踏んで、最も複雑なものの認識にまでのぼってゆき、かつ自然のままでは前後の順序をもたぬものの間にさえも順序を想定して進むこと。
※全体の通覧
 最後に、何ものも見落とすことがなかったと確信しうるほどに、完全な枚挙と、全体にわたる通覧とを、あらゆる場合に行うこと。

〔デカルトの思考方法に隠された前提〕
※明晰・判明の前提
 あいまいなもの、明確な証拠に基づかないものの存在を受け入れないことを前提としている。
 例:患者の示す漠然とした不安や恐れ、種々の検査に現れない痛み、不快感や懊悩などは最初から問題にされないということ。
※問題の分割の前提
 問題を小部分に分割することは、その全体の構造が理解可能であり、把握可能であると言うことが前提とされている。しかし、問題を分割し限定することにより、どうしても小部分の心理、部分的思考が求められ、それでもってよしとされる傾向が生じる。つまり全体を見失う傾向が生じる。
 例:医療者が人間としての患者全体を見ないで注意を病気に集中し、患部、病変部組織にのみ関心が向かっていくとき、医療者は無意識のうちに細分化の方向に向かっている。
※単純から複雑への前提
 自然のままでは前後の順序をもたぬものの間にさえも順序を想定して進むことは、分割した小部分を「自然の秩序にしたがって」ではなく、「人間の秩
序にしたがって」構成するという人間の意思・欲求がはっきりと挿入されている。
※全体の通覧の前提(以下の文章は他の書籍から、私が予想して挿入)
 全体を通覧することにより、これで全てだと思ってしまう。ところが、全体はより大きな全体の一部であり、全体を超えたものが必ずある。全体を通覧することは、この全体を超えたものがあることを見失う傾向にある。
(2003.3.8の発題内容を加筆訂正し、また出席者のご意見を併記しました。)