常盤義伸
(一)北原氏「前書き」は、久松先生が黄檗希運の語録『伝心法要』と臨濟義玄の語録との間の表裏一体の密接な関係をいかに高く評価しておられたかを直接先生からお聞きしたこと、『臨濟録』を本当に理解すれば他はなにも学ぶ必要はないと信じるという北原氏の言葉に先生が眉をひそめられたこと、を述べる。実は、提綱の第4章後半から第5章にかけて臨濟が師の黄檗を安居の途中に訪ねて、師が經文を読む姿に反発し、じかに非難するが、黄檗はこれを許さなかった、ということを先生は取り上げておられる。
臨濟の宗教活動を支持した、土地の地方長官、王常侍と呼ばれた人物が臨濟院に集まっている僧侶たちについて臨濟に、かれらは看経しているのだろうね、と尋ねて、看経していない、という返事にであい、それではかれらは禅を学んでいるのでしょうね、と尋ね、これにも、禅を学んではいないと答えられ、それでは何をしておいでか、と尋ね、臨濟から、皆に仏になってもらい祖になってもらうのだという返事をもらったことを、久松先生は高く評価しておられる。この問答は、このあと、王常侍が、金の屑は貴重だが眼に入ると視力を奪うものとなると評し、これを受けて臨濟が、俗人に過ぎないと思っていたが見直しましたと、応じている。ふつう、これは臨濟の負け惜しみの言葉だと理解されているようだが、私は、本当の成仏成祖は殺仏殺祖だと説く臨濟がここでは自分をやりこめようとする相手を軽くいなしているだけだと見る。久松先生はこの最後の応酬を、ここでは切り離して問題にされない。もちろん先生が金屑云々の批判を理解されないはずはないが、人々がここに集まってきたのは仏となり祖となるためだという臨濟の言葉に、臨濟が「いかに真の自己に直下に徹することを重んじていたかがわかる」とされるところは、重要である。「真の自己に徹すること」を金の屑に例えて済ます発想では、王常侍が臨濟の活動を支持する理由自体が成り立たない。そうだとすれば、看経せず禅を学ばない仕方でこそ真に看経し禅を学ぶことができるのだという意味がなければならない。
久松先生は、臨濟が看経する黄檗をなじったことについて、臨濟の本当の見処を呈しており、間違ってはいなかったとされながら、黄檗が臨濟のこの考えを許さなかったことを問題にして、「大悟した人」つまり臨濟の「どこに黄檗の批判するところがあるか、それが此処のところの大事な問題」だとして、次回は「それについて提綱することにいたします」と第4章を結ばれる。第5章では、上に触れた王常侍と臨濟との金屑問答の最後の応酬を除いたやり取りを論じたあと、看経している黄檗の境涯を臨濟は甘くみてとったのか、「ただ不看経の一方で見て行った」のではないか、と疑問を呈される。「ただ不看経の一方で見て行く」とは、看経に囚われることも問題だが、不看経に囚われることもいけない、という判断のことである。看経に囚われることが問題だとは、例えば第15章「三乘十二分教」で、経典は仏性を明らかにするものであり、教えを説いた仏陀が人を騙すはずがないと主張する座主に対して、経典を読んで煩悩の雑草が抜かれたためしはなく、経典のなかで仏陀にであうことはない、真実は言葉を離れていると、臨濟が答えたとされる箇所を引いて久松先生が、禅は経典の教えの出てくる根源を「不立文字、教外別傳、直指人心、見性成仏」という標語で言い表し、それを直下に悟ることだ、とされる。この立場から臨濟は、看経する黄檗を文字に囚われるものとして非難したわけだが、黄檗は、これを許さずそこに問題があると見る。臨濟は、このばあい、単に看経を非難するだけでなく、安居の途中に師を訪ねてちょっと挨拶したあと安居の終わる前に去ろうとしたことも、黄檗の気に入らなかったようである。黄檗は臨濟を棒で打った。臨濟は、一旦外へ出た後、黄檗の対応の仕方に意味があると考えて戻り、安居の終わりまでを師とともに過ごしたとされる。しかし看経について臨濟は、黄檗とは一線を画して、経典にも依らないという基本姿勢を示したと見るべきではないか。
柳田氏は、本訳書に寄せられた「解説」のなかで、中国禅宗史への深い造詣に基づいて、『伝心法要』が、従来の理解とは逆に、『臨濟録』よりも後にその注釈の役割をになうものとして作成されたのではないか、という疑問を呈しておられる。私には十分な資料上の根拠をもって議論することは不可能だが、『伝心法要』は、引用する資料の性質からみても『馬祖語録』や『百丈廣録』などの流れを受けるもので、『臨濟録』の口語体とは全く異なり、後者の後の成立とはとても思えない。看経に対する黄檗と臨濟との姿勢の違いも、当然のことと思われる。黄檗では、「この心(すなわち私)は無心の心(私のない私)」で、「一切の相(特徴)を離れ[た私であり]」、ここにおいて「衆生と諸仏とはさらに差別なし」と云われる。これは『楞伽経』など経典の言葉をもってきて実相を説明するものである。「道を学ぶ人が直下に無心という心の本来の在り方に黙して契うだけだ、何かになろうと心を向ければもう背いているのだ」と云う。これに対して臨濟は、「心法(心すなわち私の本来の在り方)は形がなく、十方に通貫し目前に現用しているが、人は信が及ばず、そのために名前や言葉を実体のあるものとして捉え、悟りの真理を意識で捉えようとして、天と地との隔たりを起している」と、「目前に現に今聴法する人」に呼びかける。呼びかける方も呼ばれる方も「一無位の真人」だ、という。これは臨濟が人々に、「看経」という仏教の枠組みから踏み出して久松先生のいわゆる「相互參究」という無辺の世界に入ることを促したものと見てよい。
初めに言及したように北原氏によると、久松先生は黄檗の『伝心法要』と臨濟の語録とは表裏一体のものと見るべきで、『臨濟録』を見れば他の書物は見なくてよいとする考えを偏狭として斥けられたとのことである。これは、いわば看経に囚われることも不可、不看経に囚われることも不可、とするお立場に由来するものと思われる。私はこれを重要な指摘と受け止めたい。本当の相互參究は、現在においてだけでなく、現在と過去との間にもあって然るべきものである。
(二)久松先生が提綱第3章で取り上げられる黄檗の「仏法、多子なし」は、臨濟の悟りの境界を表明する言葉として『臨濟録』でも恐らくもっとも重要なテーマとされていると云ってよい。黄檗の会下で行業純一の三年を経た臨濟が首座に勧められて黄檗に、仏法の真実をずばり云ってほしいと三度問うて三度打たれ、訳が分からず、再び首座の仲介で黄檗の教えを請い、黄檗から大愚を訪ねることを勧められ、大愚のもとで黄檗の三打が親切そのものであったと云われて大悟した臨濟が上の言葉を吐いた、とされる。久松先生は、これはどうしてもそれに徹しなければいけない一打、一打であって一切の否定を含み、したがって一切の否定においてこれを一切の肯定に転じさせる打だとされる。行録でこの話しが取り上げられるだけでなく、上堂の初め、王常侍に請われて上堂したときに質問者から自分の家曲、宗風を問われ、自分が黄檗のもとにいたとき三度問いを発して三度打たれたことを述べ、何か云おうとした相手を臨濟がどなって棒で打つ箇所がある。しかるに、臨濟についてもっとも信頼すべき資料としての『祖堂集』巻十九では、臨濟が悟りをえる契機となる一打を提供したのは大愚になっていて、黄檗の三打への言及はまったくない。有名な黄檗の「仏法多子なし」の話は、資料的には虚構であるが、従来この虚構が虚構としてではなく事実として、臨濟宗の修行にとっては必要不可欠なものとされてきたことも、事実である。
『祖堂集』の臨濟の項(柳田氏の現代語訳は中央公論社「世界の名著」続3、禅語録、1974、で紹介されている)によると、臨濟が大愚を訪れるのは黄檗に個人的に勧められたからではない。大衆の前で黄檗がともに参禅したときの道友で、独り世間を離れて住みながら熱心な求道者の出現を期待する大愚という人物の話しをするのを聞いて、自分で勝手に訪ねたことになっている。
臨濟は大愚に來由を告げ、自分が学んできた仏教の修行論を述べ、恐らく黄檗の教えについての自分の疑問も述べたであろう。夜があけるまで黙って聞いていた大愚が、「遠くから来たから泊めてやろうと思っていたがよくも夜通し糞をまきちらしたな」と云うや否や棒で数回打ち追い出して門を閉めた。このことを戻ってきた臨濟が黄檗に報告すると、黄檗は「さすが力量のある人物だ、炎が燃えるようだ。君が素晴しい人に出会って私は嬉しい。無駄足を踏んだなどというものでは全くないぞ」と云った。臨濟が再び大愚に会いにゆくと大愚は、「この前のことを恥じることもなく、今日またやってきたのはどう云う訳だ」と云うなり、棒で押し出した。再び黄檗のもとに戻った臨濟は、「和尚様に報告します、私はまた戻ってきましたが、今度は無駄足ではありませんでした」と云った。黄檗がその訳を聞くと臨濟が云った、「私は棒で一度打たれたとたんに仏の境界に入りました。たとえ百劫のあいだに私がこの世に受けた骨と身とを砕いて頭に載せ須彌山を無量回周ってもこの深いご恩に報いることはできますまい」と。黄檗の喜びようは普段見られないものだった。「しばらく休んでから好きなようにしなさい」と。臨濟は十日後に黄檗に別れて大愚のもとへきた。大愚は、いきなり棒で打とうとしたが、臨濟が棒を奪って大愚を抱きかかえて倒し背中を数回握り拳で打った。大愚はしきりに頷いて、後継者を得たことを喜んだ。このあと臨濟は大愚に仕えて十年あまりいて、大愚の死を見取った。大愚は死ぬ前に云った、「君はかねて口にしていた言葉に背かず私の生涯を見取ってくれた。これからは世の人々に人間の本当の在り方を伝える(「伝心」)ことになるが、何よりも黄檗のことを忘れてはならぬ」と。臨濟はこれ以後鎭州の町で教化を始めたが、黄檗の教えを受け継ぎながら常に大愚を称えた。教化には、くわー!とどなることと棒打とをよく用いた。
『祖堂集』のこの記述によると、臨濟は大愚の一打を自分の契悟の助けとして高く評価しつつ黄檗の「伝心」の働きを継承しかつそれを独自の方向に展開したことになる。しかし歴史的には、臨濟の契悟は黄檗の三打を契機としたとされ、臨濟禅の修行をされた久松先生も、その線で提綱をされた。先生のこの提綱は、北原氏の記録によれば1962年9月から64年12月までの間に行われた。ところで、黄檗が臨濟に用いたとされる棒打の意義に言及される久松先生が、これをそのまま協会会員の契悟の契機にと用いられた様子はない。先生の提綱の間我々に結跏趺坐を求められたのは、僧堂の師家の提唱の際の方式を適用されたものと思われるが、先生の提綱が行われなくなったあと、我々の間で結跏趺坐して話し、そして聞く、ということはなくなった。坐禅中の警策も、会員同士の間で用いているうちに警策を受けた人の肋骨にひびが入ったと疑われることがあって以来、警策の使用を一切停止した。我々は今、基本的公案を相互に參究する道を模索している。上の言葉で云えば、看経に囚われてもいけないが、不看経に囚われてもいけないという在り方を基本に据えて実究していると云ってよい。『臨濟録』の「仏法多子なし」の叙述とは違った、『祖堂集』の臨濟の契悟の話に出会うことができたことを喜ぶのは、そういう我々の今日の姿勢ともよく合致すると云ってよい。大愚の一打は、臨濟が黄檗から云われる前に自分で納得していたものである。『臨濟録』で黄檗による三打が、自分では納得できないで、大愚に云われて始めてそんなものかと受け入れられたのとは、大違いである。『祖堂集』の臨濟は、大愚に自分の誤りを指摘されたときには自分でもそのことを認めたのであり、それだからこそ黄檗の教えの核心と、そしてすべての人の立つべき立場とを、同時に会得したと思われる。『臨濟録』の臨濟は、看経を嫌った。彼はそのことによって独自の境地を展開した。現代世界では、我々はそのことを承知の上で、不看経にも囚われない立場をとる必要に迫られている。修行の上では、基本的公案を相互に參究するとはどういうことかを究明すること以外には道はない、と考えている。
(02年12月22日午後、京都、相国寺山内林光院で発表します)