ポスト・モダン論をめぐって

山田 慎二
風信47号 2002年12月(ウエブでの読みやすさを考慮し、原文の段落区切りを変更しています。)
          
はじめに
わたしたちの生きる社会は、なんと情ないありさまになってしまったことだろう。経済の繁栄とひきかえに、もっとも大切な道徳的な価値を見失った。その経済さえ破綻した。痛切な失望感のうちに前世紀は幕を閉じ、新世紀を迎えても、いっこうに未来の展望はひらけない。
ひるがえってみると、行き詰まっているのは、日本だけではない。重苦しい閉塞感が地球規模に広がっている。千年に一度の節目にあたる新世紀は、衝撃的な国際テロ事件とともに幕をあけた。人類の歴史そのものが、破滅へのシナリオに踏み込んだかのようである。文明の危機といえよう。

強い危機感とともに、いま私が想い起こすのは、久松真一博士の提起した〈ポスト・モダン〉思想である。博士は、とくに最晩年のほぼ一○年間にわたり「人類はこのままでよいのか」と切迫感をもって論じられた。あの情熱あふれる探究精神こそ、私たちは受け継ぎたい。
ただ、久松先生によって真理が語られているからといって、それをその形のまま受け売りするだけですむのか、といえば、私はそうは思わない。私たちは博士と同じテーマを絶えず自分自身の問題として、みずからとらえ直す試みをかさねる必要があると思う。
久松思想の提起以降に世界で何が起きたのか。われわれは歴史に何を学んだのか。ポスト・モダン論の立場から、どのような意味を読みとるのか。いま、私はあらためて問い直しをはじめたい。


その一

まず最初に確認しておきたい。久松思想は、世界のなかで決して孤立していない。二○世紀後半においてグローバルな同時代性をそなえていた。しかも、欧米の潮流より一歩早く、先駆的でさえあった。

ここに、一つの証言がある。キリスト教神学者の小田垣雅也は著書『現代のキリスト教』(講談社学術文庫)のなかで、ポスト・モダンと東洋的無の思想の関係を論じて、こう述べた。「私がポスト・モダンという言葉そのものにはじめて出会ったのは、久松真一博士の論文『悟り―後近代的(ポスト・モダン)人間像』を読んだときであった。フランスの現代哲学を読んだときではない」
この久松論文は、一九六七年に筑摩書房刊行の講座『禅』第一巻に発表された。これは、たとえば、フランスの哲学者、ジャン・フランソワ・リオタールの有名な『ポスト・モダンの条件』(一九七九年)よりも一○年以上も早いのである。

「久松論文を読んで、私はポスト・モダンという言葉の含意を直ちに理解した」
小田垣が語るように、それは近代合理主義的な思考の仮構性ないし虚構性を見きわめ、その思想としての限界をズバリ端的に指摘したものであった。それ故に、小田垣は久松思想に対して深い共鳴を示した。
「ヨーロッパ側で登場した様々なポスト・モダン論は、久松博士がいう悟りのあり方と通底し、それを煩瑣な手続で説明しただけのように私には見えた」

説明するまでもなく、久松博士は、ここで明快に人間像の四つの類型を提示している。近代合理主義的な人間像。それが崩壊したニヒリスティックな人間像。そこから他律的な救済を願う有神論的な人間像。そして、これらを脱却して絶対的に自律的な悟りに覚めるのが、ポスト・モダンの人間像とされた。
このあと久松博士は、一九七一年に「ポスト・モダニスト宣言」を発し、さらに七六年に論文「近代の没落とポスト・モダニスト世界の構想」を執筆した。いわば、ポスト・モダンの人間像から世界像へ。即ち(F・A・S)の(F)の立場から(A・S)の立場へ発展させた。
ポスト・モダニストの世界像において、とくに注目すべきは近代国家に対する手きびしい批判である。いいかえれば、近代批判のマトを国家否定の一点に集中させたといってもよい。
「国家エゴイズムによって、政治面では和平が妨げられ、経済面では精神・物質的資材の融通がはばまれ、倫理面では普遍性が喪われ、最も自由で普遍的であるべき哲学も宗教も国家的偏向に堕し…」

六○年代後半から七○年代前半にかけて世界は激動していた。東西陣営の対立はいつ果てるとも知れず、核戦争の悪夢に世界はおびえ続けた。ベトナム戦争は泥沼と化し、世界中の学生、若者は反乱の様相を露わにした。
この状況において、久松博士は社会主義とか自由主義といったイデオロギーの次元ではなく、禅思想の深い自覚の次元から近代文明そのものを根底から問う姿勢を貫いたのである。
この当時、久松博士と似た問題意識を示したのは、アーノルド・トインビーといえるかも知れない。この二○世紀を代表する歴史家は、六○年代半ばに著書『現代が受けている挑戦』(新潮社)のなかで国家主義を超える理念として世界主義を打ち出している。
「世界主義が表現を見出した二つの歴史的な制度が、世界国家と世界宗教である」
歴史家、トインビーのこうした構想は、当時において、あまりにも予定調和的な楽観論とみなされたであろう。しかし、いまや再び文明の危機の時代に直面して、世紀を超えてなお色あせぬ高貴な理念であり続けている。


その二

国際的に〈ポスト・モダン〉という用語がはじめて使われたのは、建築史の分野であった。ひたすら合理性と機能性のみを追求してきたモダン建築を批判して、歴史的様式の装飾などを取り入れる現代建築の新手法をポスト・モダンと呼んだのである。
建築評論家、飯島洋一の解説によると、一九七七年にイギリスの批評家、チャールス・ジェンクスが『ポスト・モダン建築の言語』を著し、先鞭をつけた。しかも、ごていねいにもモダン建築の “死亡診断書 ”までつけた。
「モダン建築は、正確には一九七二年七月一五日午後三時三二分に米ミズーリ州セントルイスで死亡した」
これは評判の悪かった住宅団地が、当局の手によってダイナマイト爆破された事実を指している。この団地を設計したのは、日系アメリカ人の建築家、ミノル・ヤマサキであった。
それから三○年後、ニューヨーク・マンハッタンにそびえる高四○○メートルのツインタワーの世界貿易センタービルが、いわゆる「九・一一テロ」によって崩れ落ちた。この超高層ビルもまたヤマサキの設計で知られていた。
より高く、より機能的に極限まで追求し、いっさいの装飾を排除した無愛想な箱形建築は、モダニズムの典型といわれた。モダン建築は、奇しくも “二度死ぬ ”運命を演じたかのようである。

一方、ポスト・モダン建築の実物を身近にさがすならば、大阪・道頓堀川に架る戎橋の北詰に建つキリンプラザをあげることができよう。京大教授の建築家、高松伸の作品である。巨大なぼんぼりを空へ突き立てたようなユニークな姿をみせ、日本建築学会賞を受賞した。
ハリウッド映画『ブラック・レイン』が大阪でロケしたとき、名匠リドリー・スコット監督は、さすがにこの建物に目をつけ、トップ・シーンに登場させた。夜空に浮かぶ光りのデザインは、妖しいまでの美しさを放った。
ともあれ、ポスト・モダンという言葉は建築にとどまらず、音楽・美術・文学・ファッションなど文化現象のあらゆるジャンルにわたって使われるようになった。
アメリカ、ヨーロッパなど高度資本主義社会では、一九七○年前後を境にして文化現象にかなり特徴的な変容がみられるようになった。音楽でいえばロックが台頭し、美術ではポップアート、文学ではミステリー、ファンタジー、ホラー、SFといったエンタテイメント小説によって席捲された。

大まかにいえば、七○年代以降の文化現象を特徴づける呼び方として、ポスト・モダンが通用した。いわば社会学的文化論の性格を帯びていた。久松博士のポスト・モダン論が宗教哲学的文明論の性格を持つのに対し、次元の違いを指摘できる。欧米流は水平方向に文化現象の表層を横滑りし、久松流は垂直方向に文明の深層を掘り下げた。

ここで問題を複雑にしているのは、とくに日本の場合である。流行語として「ポスト・モダン」と「ポストモダニズム」という二つの言葉が混同して使われ、いわば言葉のバブル現象をひき起こした。
ポスト・モダンは、社会の大きな変化を意味するのに対して、ポストモダニズムはその時代の中で生まれた特定の主義・主張(イズム)を指すにすぎない。日本の場合、八○年代を中心にニューアカデミズムと呼ばれる言説がブームのように大流行した。これらの論者たちは、十把ひとからげにポストモダニストと呼ばれたりした。
その時期がちょうど日本経済の異常なバブル期とかさなっていたのは、皮肉にも象徴的であった。二○世紀末を前にしてバブル経済の崩壊とともに、これらの軽薄なポストモダニズムは、まさに泡のごとく雲散霧消した。
「ニューアカデミズムに象徴された八○年代の日本のポストモダニズムは、むしろモダニズム(近代主義)のちょっとシニカルな変種にすぎなかった」
いまでは、こんな判定をくだされている。その騒々しい混乱の時期にあっては、久松博士のポスト・モダン論が語られることは、ほとんどなかった。


その三

新世紀を待たずに歴史は動いた。一九八九年にベルリンの壁が破れて東西冷戦に終止符が打たれたとき、それは世界史上きわめて象徴的な出来事と思われた。つまり、一七八九年のフランス革命から数えてちょうど二○○年にあたる。この二世紀間こそ、まさしく「近代」と呼ばれてきた。
まるで絵に描いたような「近代の終わり」そのものが実現したかに見えた。ところが、すかさずアメリカの日系政治学者、フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』という論文を発表した。これは評判が悪かった。
「何をいうか。歴史は続いている。それどころか、むしろダイナミックに歴史が動き出したではないか」
しかし、フクヤマが言っているのは、そういう意味ではない。人類は自由民主主義や資本主義を特長とする近代化の歩みを続けてきた。共産主義が敗退した時点で、もはや、この近代化路線のほかに選択の道はなくなった。そういう歴史観である。しかも、これはフクヤマ独自の思想とはいえない。
たとえば、ヘーゲルは一八○六年にイエナの戦いでナポレオンが勝利したとき「歴史は終わった」と語った。つまり、西欧型の近代社会の到来をもって「歴史の完結」とみなす西洋中心主義の発想にほかならない。

これに対して鮮明に反対の立場をとったのが、かってフクヤマの恩師であったサミュエル・ハンチントン教授である。彼によると、世界は地球規模で単一のシステムへ向って進んでいるというよりも、むしろ「文明の衝突」という泥沼にはまり込んでいる。世界は六つか七つの大きな文明グループに分かれて併存し、地球上の各地で絶えず紛争を繰り返すであろう。

こうした二つの文明史観が対立したまま二一世紀を迎えた。そこで、いきなり「九・一一テロ」が起きた。グローバルな資本主義の中枢に攻撃を加えたのは、西欧キリスト教文明そのものに敵意を抱くイスラム教過激派であった。ある意味でハンチントン教授の予言が的中したように見えるけれど、フクヤマはテロのあとでもなお「私のほうが正しい」と主張している。
フクヤマによると、近代化は「極めて強力な貨物列車」のようなものである。途中でいろんな悲しい出来事があったとしても「線路から脱線することはない」というのだ。一連のテロについては、止めようのない近代化に対する “最後の抵抗 ”にすぎないと斬り捨てた。
「歴史は終った。しかし、近代化はまだまだ続く」
一見、奇妙な結論が出る。これが、露骨な西欧中心主義にもとづく近代化主義の立場である。近代主義者は、決っして反省しないのである。

それでは、近代主義のもう一方の柱である近代主権国家をめぐる歴史的な変化については、どう評価すべきであろう。この点について私は、近代国家という存在がかなり揺ぎはじめている傾向をもはや否定しにくいと思う。
この動向は、二つの面から指摘できる。まず一つは、経済がグローバル化して国家を超えてしまった。もともと近代主権国家は政治と経済の両面に責任をもって運営してきた。それが国家主権の証しであった。ところが、地球規模に拡大した市場経済は、もはや国家のコントロールが効かない。

二つ目には、国家を超える全人類的な理念が明確に登場した。たとえば、人権思想である。とくに冷戦後に大きくクローズアップされてきた。かっては、どこかの国が自国民をいかに抑圧しても、あくまでも内政問題とみなされた。しかし、そのような国家主権主義は、いまでは国際的に許されなくなってきた。
場合によっては、いやいやながらでも人権尊重の国際世論に従わざるをえない。いかに偽善的に見えようとも、国家主権を超える原理が現実に作用したことになる。これは、やはり国家をめぐる新しい事態のはじまりであろう。
その意味では、近代国民国家というものが、人類共通の理念によって乗り越えられつつある。久松博士が提唱されたポスト・モダニスト世界構想のうちの一項目である「最高主権在人類」の理念が、わずかながら現実化への芽生えをみせはじめているといえないであろうか。それとも、この見方はあまりにも楽観的すぎるのであろうか。


その四

つまるところ、近代とは、いったい何であろう。多くの場合、その定義をあいまいなままに論議をエスカレートさせるきらいがある。あらためて、この点について哲学者の中村雄二郎は著書『二一世紀問題群―人類はどこへ行くのか』(岩波書店)のなかで、明快に指摘した。
「西欧近代を成り立たせた原理の中核は、近代科学である。これなくしては、近代原理の貫徹も世界化もとうていありえなかった。」
この根本原理のうえに立って、さらに同時代に成立した宗教改革(プロテスタンティズム)と資本主義が緊密に結びついた。この三位一体的な結合が近代原理を形づくっている。そのもっともパワフルな結合体が、現代アメリカ文明であることは、いまさら、いうまでもない。
科学がどこまでも強力なのは、その方法論に特徴がある。全体を分けて要素に還元する。どんどん分析して細分化して行く。この方法論は、物理とか化学の分野でめざましい成果をあげてきた。
いま問題になるのは、生命論の分野である。二○世紀末から二一世紀初頭にかけて国際的に「ヒトゲノム・プロジェクト」が大きく進展した。近代科学の分析的手法は、ついに生命現象についても着々と及んでいる。地球上で約四○億年の時間をかけて進化してきた生命の流れを勝手に変える技術を人類は手に入れてしまったのである。
これに関連して私がさいきん注目したのは、あの「歴史の終わり」を主張した近代主義者、フランシス・フクヤマの新しい著書である。二○○二年になって発表した著書『人間の終わり』(日本語訳・ダイヤモンド社)のなかで、フクヤマは現在の生命科学の進展が人類社会に与えるインパクトを検証して、強い警鐘を鳴らしている。
「われわれはポスト・ヒューマン(人間後)の未来に入り込み、その未来が仕掛ける道徳の罠にはまってしまうのか、それとも人間性に基づく世界に踏みとどまるか、二つに一つである」
ポスト・モダンどころかポスト・ヒューマンという究極的な形容をキーワードにして、科学のあり方を根底から問い直した。政治や経済については近代主義を疑おうとしないフクヤマでさえ、こと科学技術に関しては深い疑念を抱かざるをえないのである。ここに私は、近代主義の限界の一つを読みとることができると思う。
生命そのものは、本来、細分化できない。全体性である。医学において生命倫理が問われるのは、その点であろう。科学のあり方を人間的な方向へ引き寄せることができるか、どうか。その決定的な岐路に生命論が位置している。宗教や哲学が真正面から科学と向き合うとすれば、生命論こそ対話の場となるであろう。

つぎに資本主義について触れるならば、私たちは前世紀末に一種のとまどいを経験した。「資本主義を克服する」と標榜していた社会主義があっけなく崩壊した以上、もはや資本主義に代る社会経済システムはありえないように思われた。
たしかに、資本主義は社会主義にくらべると、社会システムとしてかなりすぐれている。それは歴史的に実証された。けれども、だからといって人類にとって資本主義が万全のシステムかといえば、そうは言い切れない。自由競争の名のもとに競争に勝った者だけが優遇され、敗者は冷遇される社会が、はたして本当の意味で自由な社会といえるであろうか。
さらに西欧近代を成立させた三つ目の柱であるプロテスタンティズムについていえば、私たちはいま深刻な懸念を抱かざるをえない。キリスト教であれ、ユダヤ教であれ、イスラム教であれ、いわゆる一神教の系譜において顕著な「排除の論理」について、私たち一神教圏外に生きる人間は、深い憂慮を禁じえない。
はたして人類の未来に希望はあるのか。二一世紀初頭の世界は、こんな危機感におおわれた。この状況のもとで、世界宗教と呼ばれる存在は、いったい、どのような “処方箋 ”を用意するのであろう。


おわりに

「九・一一」の直後、ニューヨークで人びとの生活態度がすこし変化したといわれた。人びとは、贅沢をひかえ、静かに家路を急いだ。いつの間にか謙虚になり、情感が豊かになった。
それは、私たちの身近なところで、あの阪神大震災のときに現出した光景によく似ている。自分たちの信じていた文明が、いかにもろいものであるかを思い知った。なによりも、自分たちの生命がどんなにはかないものか。それだけに、どれだけかけがいないものか。そんな痛切な思いをひしと抱きしめた。
危機が深いほど、ものごとの本質がみえてくる。科学も経済も国家も文明も、余分のものをはぎ取って本当に必要なものとしてだけの本質を見つめ直す場面に、私たちは立っている。近代に対するポスト・モダンの立場は、そうした危機の生き方にほかならない。
ただ、ここで一点、気になることがある。それはポスト・モダン(後・近代)という言い方が、時間的な前後関係をイメージさせやすいことである。問題は時間的前後ではなく、価値観の当否である。その自覚を身心一如に体現して直ちに生きることである。
私たちは現在にしか生きていない。近代という時代が終って、そのあとに来る時代を待って生きるのではない。ポスト・モダンの立場とは、いいかえるならば「近代を超えながら現代を生きる」ことである。そうしたニュアンスを勘案すると、むしろ「トランス・モダン」と呼ぶほうが適切ではないかという気がしないでもない。

私は、いまFAS協会に参加して久松博士が提唱された大衆禅の修行に努めている。禅の立場とは「自我を空じて本当の自己に覚める」ことと受けとめている。
人類にとって近代文明とは、極限にまで肥大化した “自我 ”であろう。この文明を変革するには、その意識されない深層部から立て直すほかに方法はない。同時に私たち自身の自己変革ができなければ、文明の変革もできないのである。

(二○○二年五月一一日・平常道場での発題をもとにまとめた)