久松先生の慧眼―七齧りの茶碗を媒にして―

橋本
風信47号 2002年12月(ウエブでの読みやすさを考慮し、原文の段落区切りを変更しています。)
          
高度に品格の高い美術品は、人の論評を超えて、直接に人の心に、そのものの美しさを焼き付け、離れない像を残すものである。その場合「美」とは何かという言詮を要しない。もっとも、「美」を感知する眼を持っているか否か、それより更に「美」を感知する眼などというものがそもそもあるのか否かと言う人もあるであろうが私はあると思う。良き物を数多く見ることによって養われる。「美」を心中に映し取り、受け止めることは、極めて主観的なものである一面を持っていることは確かなことである。しかし、「美」は客観性を持っていなければ「美」とも言い得ないのであるから、主客を越えて「美」は在るものである。したがって「美をもつもの」から「美」を見つけ出す力は単なる主観ではない。美を感知するのが単に一人よがりのものであっては、そのもの以外の人の認めるところとならないばかりか、「美」がまさに其所にあると言うこともできない。「美」とは「其所にある」ものであることによって始めて「美」であり、その意味で客観的な「美」と言えるのである。主観が客観の美と一致するように働き、又客観が主観の眼を通してその美を開示されると言う二重の構造によって「美」は明らかになるのである。

そして主観と客観とが一致するような審美の眼力の持主にして「美しいもの」を他の多くのものの中から剔抉することができる。この眼力は生得の素養もあるのであろうがそればかりではない。飽くなきまでに徹底して美しい良きもの、つまり「美」を鑑賞することによって養われ磨きがかけられるものであって、生得の素養は幾層倍にも育まれるものである。眼力の深まりは留まる所がないであろう。とは言っても眼力弱き者も突然立派な美しい良きものを目にして、驚異と共に感嘆の経験をすることもある。つまり、眼力の向上には素養と経験とが相即不離の関係にある。「美」をそのものの中で「美」たらしめる美術品には、分析的説明は、「あるに越したことはない」という程度のものであって、ほぼ用を為さないものであるかも知れない。主客合一の所に「ある美」の直観と言い得るものがあるのであろう。京都大学の美学の教授であられた植田寿蔵先生(故人で若し御存命ならば百十歳は超えておられる)が美学の講義において絵画―勿論スライドの絵画である―を学生に見せながら、何等の解説もせずに、「これはいいね」と言われるのみで、暫らくの間学生も何も尋ねもせず、先生も一言の声も出さずに鑑賞していて、そのまま次に移られたということを聞いている。まさに絶品になると何等の説明も言詮も不用なのであろう。美術品の鑑賞に鋭い眼力は、雑物の中から絶品を立ち所に見分け弁別する力を持っているのであろう。

何時の時であったか、別時学道の接了の日であったか、道人四・五人で何か相談の会に抱石庵にお邪魔した時であったか失念したが、四・五人の道人が先生の御茶の接待に与かったことがあった。先生のお点て下さった一杯のお濃茶を順次に頂いた。お濃茶の点てられた茶碗は、殆ど黒に近い濃いこげ茶色の古薩摩の大ぶりの茶碗であった。茶碗の上の縁に何ヶ所か欠け傷があり、その傷が金で元の姿に修復されていた。実に落ち着いた感じの立派な茶碗であった。
お濃茶を飲み廻している間に、久松先生がその茶碗を手に入れられた由来を話して下さった。先生の語り口は心持喜びを含まれた坦々としたものであった。

先生が京都美術大学の教授を為されていた頃のことである。美術大学は東山区の月ノ輪(東山通の泉涌寺の南にある)の方にあって、まだ京都の音楽学校と合併しておらず、京都芸術大学となる前であった。週に何日か大学に行かれた。妙心寺北門前の市バスの停留場から市バスに乗られて京阪三条に出られ、そこから京阪電車で東福寺の近くまでお通いになっておられた。

ある日の帰途、市バスが混んでいて、先生はバスの中でお立ちになられていた。帰り途、三条河原町の停留場を発車して北上したバスは二条河原町で左折し、寺町に出て右折し、寺町を北上して丸太町に出て、丸太町を千本通まで直進する。
その日バスが寺町を通る時に、何気なく窓外に目をやっておられた由である。寺町は丸太町から三条までの間、昭和の始めから、いやそれよりずっと以前から古書籍店と古美術店・古道具屋が多い街筋であった。
市バスの窓から外を流れるように過ぎてゆく店々を見ておられた先生の眼に、一軒の古美術の店に古い桐函と共に置かれた黒く燻んだ色合いの抹茶茶碗の姿が飛び込んで来たとのことである。一瞬「これは」と思われた先生は次の停留場で市バスを降りられて、大急ぎでその抹茶茶碗が硝子戸棚の中に並べられていた古美術店に引き返された。

高級の古美術店はなかなか素人には入り難いものである。従って中のものを見せて貰いたくとも敷居が高い。そのためかどうかは置くとして、客は割合少ないものであり、客のない時は店を守る人は奥に引っ込んでいる。客が戸を開けて入ると、奥からわざとらしい格好で店に出て来る。これが又客足を遠退ける原因をなしているのかも知れない。
先生は何の戸惑いもなくすらりと店の中に入られた。廻りくどいことまで書いたのは、言わずもがなのことながら久松先生の気品が如何に高く、又どの人にも直ちに受け入れられる底のお人柄であったことの一つの例を示すものと思うからである。
先生はその古美術店に行かれて、件の抹茶茶碗を見せてもらって、御自分がチラリとバスの中から見た眼に間違いがなかったことを確認すると共に、その茶碗の立派さに打たれた御様子である。そしてその抹茶茶碗の簡単な由来を店主の人から聞かれた。その抹茶茶碗には江戸期からの大豪農・大富豪であった本間家に所有されていた時に作られた極書―鑑定書―が附いていて、秀吉遺愛の茶碗だということであった。

先生は直ぐにも手に入れられたく思われて、店の主人と言葉を交わされた。
「この茶碗を頂きたいのですが、お値段は如何程でしょうか。」
店の主人は答えたのであろうが、先生は我々には話されない。我々の想像を越えている。先生が高いと思われたか、頃合と思われたかは言われなかった。しかし値段の如何に拘わらず手に入れたいと思われた御様子である。余程先生の御眼に叶ったのであろう。それで先生は、
「それならば、このお茶碗是非にも頂きたいと思います。ところで今持ち合わせがないので、明日必ず参りますので、この茶碗は予約ということにして頂いて、明日まで取っておいていただきたいのですが」と言われた。
「それも結構でございますが、それ程お気に召されたのなら、どうぞ今日お持ち帰りいただいて結構でございます」と店の主人が言った。
「そうおっしゃられて、私を御信用下さるのは大変有難うございますが、これ程のものを直ぐお代を払わずに持ち帰るのも心苦しく思いますので、明日頂きに参ることに致しましょう」
先生は御自分の身分を話された。それでもまだ店主の人の「持ち帰って下さい」という言葉を遠慮して拒んでおられた。店の主人は、
「お客様には始めてお目に掛かりましたが、御人柄は始めから御信用申し上げておりました。一目お姿を拝見した時から一点のお疑いも致しませんでした。お代は明日と言わず、近々ということでも結構ですから、是非今日お持ち帰り下さい。その方が私も気持ちがようございますし、この茶碗も喜ぶのではないかと存じます」
「そこまでおっしゃられるなら御言葉のままにさせて頂きましょう。誠に有難いことです。お代は明日お届けいたします」と答えられた。

先生はその品物を抱くようにして店をお出になったことであろう。そして降りたバスの停留場に戻られて、いつものようにご帰宅なさった。ただ御自分の眼で確かめた最上級の抹茶茶碗を手にし、しかも店の主人の心温まる対応に接して、物事に動ずることのない心の内にも、得も言えぬ微笑の御気持ちでお帰りになられたことであろう。
その抹茶茶碗、銘を「蛤の茶碗」と言い、又俗に「七齧りの茶碗」と言うとの先生の説明であった。秀吉遺愛の茶碗と言うことであるが、その後どのような所有者の変遷を経て今日に至ったのか、逐一のはっきりしたことは判然とはしていない。しかし繰り返しになるが江戸期に本願寺の大檀家の一軒であった本間家の所有となった。その時に本間家が鑑定に出して「極書」を作り残した。今その極書が抹茶茶碗の函に添えられてあるのだということである。銘の「蛤」とは、茶碗の糸尻に釉薬が掛かっておらずに地の膚が見えている所が蛤の形をしているのに由来する由である。それはそれとして、「七齧りの茶碗」と言う俗名が面白いと言うか、誠に希(き)なのである。

天正十年秀吉が明智光秀を討って信長の仇を取り、信長の占有地の後の管理を、多くの武将との合議によって整えてから、一年の後の天正十一年に信長の第一の宿将であった柴田勝家と対決することになった。むしろそのように秀吉の方から仕向けたと言ってもよいのだが、それは今は関係のないことである。ただ勝家と雌雄を決するこの戦は後年秀吉が天下の権力を手中にする第一歩の大きな重要な戦であり、その戦の最後の決戦場になったのが賊ケ岳の戦である。
この対決は秀吉の駿足機敏な作戦と、手の者の武将の働きと、柴田方の一部の寝返りによって勝利を得、敗走した勝家は自刃して、秀吉の天下取りの第一歩となった。
この賤ケ岳の戦の当時はまだ秀吉の小姓上がりの若年の武将であったが、秀吉の側近にありながら戦勝に大きく寄与して、秀吉の覚えめでたく、生長するに及んで侍大将となり、豊臣政権の確立に功があった武将七人が世に喧伝されて、「賊ケ岳の七本槍」と称された。加藤清正・加藤嘉明・福島正則・脇坂安治・糟屋武則・平野長泰・片桐且元である。
後年秀吉は賤ケ岳の戦勝の因を為した武功を賞でて、その七人の武将を茶に招じた。

私達が目の前に見、手にしてお濃茶を頂いた茶碗はその時使われた茶碗であった。室町時代から興って来た「お茶の文化」は、信長・秀吉の頃にほぼ頂点に達し、珠光・紹鴎・利久を通して、お茶は文化の最高峰に至った。聞くところによると、戦国の世に論功行賞は当然のことであるが、茶の銘器が珍重されることは非常なもので、一つの大きな戦に於て同等の武功を挙げた武将に対して、一人には半国・一国の知行を与え、一人には茶の銘器を与えたということもあったという。つまり一国・半国の支配権と匹敵する程の価値を茶碗の銘器は与えられていたのである。

秀吉に茶の招待を受け、功をねぎらわれた武将が、その茶碗に惚れ込んで妬みを憶えたのか、部下が命を堵して戦をしているにも拘わらず、一見呑気らしく茶碗を賞でていることに対する或る種の反抗の思いのためか、或いは単なるその場での主従の和の中で、主の怒りを買うことあるまいとの甘えの座興としてであったのか。いづれにしても点て出されたお濃茶を廻し飲みするに当たって、一番始めに口を付けた正客が茶碗の縁を齧り欠いた。すると次々に七人が場所を変えて茶碗の縁を次々に齧り欠いて茶を喫し、茶碗を主に返したという。
返された主の秀吉は渋面を作るどころか、我が手の者の武将の心意気を賞でて、却って更にその茶碗を珍重した由である。
その齧り跡は傷の大小に拘わらず金で完全な形に補修されており、年月を経て金は金地なりに寂びてくすんだ色が、古薩摩の地色に溶け込んでいて、一体感を保っている。古陶を見る目を持たぬ我々にも、その色合いと形と年月の凝りとが一体となって、盤石の重みを感じさせるものがあった。一点に凝縮された美であり、それが又辺りを払う気品を持っていた。