「あなたは基本的公案をどのように受け止めているか」の質疑応答記録第三回目

江尻 祥晃
風信46号 2002年7月(ウエブでの読みやすさを考慮し、原文の段落区切りを変更しています。)
          
二○○一年四月一四日(土) 相国寺山内林光院にて
出席者―OC, OY, SH, MA, YA, HA, EJ


EJ「それでは発題発表をさせていただきます。今、OYさんからご紹介がありましたように、昨年の七月に一度(第一回)、十月に一度(第二回)、そして今回で三回目になるんですが、〈あなたは基本的公案をどのように受け止めているか〉というテーマで続けているわけです。初回に六つの質問というか、問いを提出したわけですけれども、今日はその中の第三番目、〈基本的公案はあなたの日々の生活の中で活きて働いていると思いますか?それはどんな時に感じられますか〉という問いについてご一緒に相互参究していければと思っています。…まず、SHさんであれば、この問いに何とお答えになりますか。」

SH「非常に困難な時に、また、非常におめでたい、うれしい時に感じざるを得ません。しかし、毎日の日常生活の中では薄くなってきたりすることがあります。」
EJ「日々の生活の中で薄くなることはあるけれども、基本的公案は活きて働いているということですね。OCさんはいかがでしょう。」

OC「これを買おうか買うまいか、買ってもいけないし、買わなくてもいけないし、どうしようかとかね、行こうか行くまいか、言おうか言うまいか、まあ、そんなところから、息が詰まりそうなどうしてもいけなければどうするか、それしかないというようなね、ひと月に一回ぐらいは息が詰まりそうな時がありますなあ。」

EJ「OCさんは前回、仕事をしておられた時、仕事上でどうしてもいけないというようなことは度々あったと言っておられましたね。」

OC「私は訓練を担当していましたからね。企業から職業訓練をやってくれと頼まれて、できるだけデーターを集めてプランニングするんだけれども、どうしても実際のニーズがつかめない。どうしてもまとまらない。自信のあるものができない。そうかといって断るわけにはいかないですよね、生活がかかってますから。とうとう日にちが来てしまいます。『いいも悪いもあるかあ』と、もういいかっこうできないから、『あなた達が何を求めているのか分かりません』とバーンと出したら、向こうがやっと本音を言い出す。そこで本当の訓練が始まる。そうでなかったらきれいごとになってしまう。そんな感じでした。」

EJ「そういう仕事上、その他、日々のいろんな出来事の中で、どうしてもいけないというような問題が出てきた時に、基本的公案が今活きて働いているんだという思いをされるということですか。」

OC「そうですね。終わり頃はそういう感じでした。後から振り返ってみると、ああそうだったと、あれは基本的公案だったということは、これは全部そうです。若い頃からのこと全部そうだということになりますね。」

EJ「以前から日々の生活の中で基本的公案というのは活きて働いていたんだと、過去を振り返ってみてもそう思える。」

OC「子供の時からそうだったんだ。」

EJ「ありがとうございました。HAさんはいかがでしょうか。」

HA「基本的公案を日常の中で自分はどう考え、どう活かしているかということで、先般もいろいろと議論された。その中で、日常生活ということになるとどうしても相対的になる。具体的に言うと、僕は売って喜び買って喜ぶ関係ですね、その心境になるためには、売りと買いというものが、共によかったと思わないといけない。だから、相手の好むものを適正な価格でお売り申し上げる。絶えず相手というもの、ニーズを踏まえて提供する。無理押しとかはいけない。だから、商売というのは断られた時にはじめて向こうの気持ちが分かるんで、そういうあり方で問題を処理する。例えば家におっても、家内と意見が違うとか、友達と意見が違うとなった場合に、今までの僕のタイプからすると自己主張しやすい。僕のタイプは積極的、強引なんですね。しかし、この基本的公案を勉強しだしていろいろ話をしているうちに、そういうものをも超えた、貧とか、富とか、いろんなギャップを超えたところで相手のことを踏まえながら自己主張をすると、そこに二元的なものを一元化するということがある。……どうしてもいけないということは下から突き上げてくる根源的な問題ではあるけれども、しかし、日常生活の中でどう思うかという今の問いかけですから、僕はどうしても相対的になってくると思うんですね。絶対に近い状態は自分が病気した時だ。そういう機縁に触れた時に医者に任すと、もう医者の言うことを信じると、そこに割り切る、思い切る世界がある。しかしそれはあくまでも自分の主体性を持ち込んだ上で動くということですよ。」

EJ「今言われた大きな病気をした時にはじめて、どうしてもいけないということが本当にクローズアップしてくるというか、はっきりと見えてくる。その時は間違いなく基本的公案は活きて働いていると言えるけれども、日々の平凡な生活の中では相対的でしかないと言われるわけですね。」

HA「生死の根源的な、自分の肉体が生きるか死ぬかという状態におかれた時にはじめて、どうしてもいけないということが言えるんじゃないか。」

EJ「そこで基本的公案は働いていますよね。そうお思いになるわけですね。それでは、日々の生活の中で基本的公案が働くということについてはどうなんでしょうか。」

HA「この頃僕はバランス、やじろべえじゃないけどね、バランス感覚というもの、それは中庸というか、左と右の、生と死の、こういう緊張の中で人間は生きている。必ずアンバランスになるから、動く。今、どうしてもいけないという問題をそういうところにもっていかないと自分のものにならないというように思っているわけです。だから、売り買いとか、意見の差とか、いろんな状態におけるバランス感覚、それは緊張関係。儒教でいう中庸のところに立っているというのは、これは立っているといっても必ずどこかへよっているはずですから。今、自分自身の過去における理念とかイズム、主義の遍歴とか、そういう中にあっても、左へ行ったり右へ行ったりしているわけですから、大きく歴史的な流れの中にあって、そういうものは日常の中でも頭の中で葛藤しているわけです。現在の経済社会とか政治の世界においても、自分はそれに対してどう思うか、その時に今言ってもらっているどうしてもいけないという問題意識が、そこに主体道があるから、いろんな意見が読み解ける。日常の生活の場もそうだけれども、いろんな政治、経済、社会の動きの中における問題をどう自分として考えるかというふうな場所においても僕は生かしてもらっている。」

EJ「MAさんはいかがですか。」

MA「自分の生命というのを考えた時に、どこから来たのか。自分の生命は親を通して、生き物の意志によって尊い生命を与えられた。本当にそれを思った時に、自分は親の子である以前に天の子であるということをはっきり分かっています。そして、いかにこの尊い生命をたった一度の世渡りで、二度と同じ自分には生まれてこない尊いこの生命をいただいたことが有り難い喜びであるか、それが心の底から分かった時に、生きること一切は喜びで、喜びは心の底から自ずと湧いて来るんです。いろんなことに出くわしても、じっと思索し瞑想に耽って、自分の生きる道は法に従うということは、脳裏を通して自分の心に、心の奥底から響いてくる。それが分かったら、どんな立場においても信心に従って最善の道を生きることができる。私はじっと静かに考えることが若い頃から好きでして、人にどう言われようとどうされようと、自分は本当に天の使命に従って生きている。そこに喜びが湧いてきますから。私は交通事故にも度々あったり、いろいろしましたが、それを切り抜けて、それが自分の生涯になるんだ、生きるということは本当に尊い生命をいただいて有り難いという心に満たされる。それでいっぱいです。お釈迦様がおっしゃったように現実はなかなか自分の思う通りにはならない。一羽のカラスが青虫をついばむのを見て、お釈迦様は無常の涙を流されたということを若い時に聞いた時に、本当に世の中は強い者弱い者、弱肉強食の世の中のように表面は見えますけれども、その奥の奥の奥は宇宙の意志によって統一が保たれているんです。自己をじっと考えた時に、自分は、人間はみんな天の子であるべきであって、なのに煩悩の雲に覆われている。仏性という種を生まれながらに植え付けられているのです。仏性の種をみんなもっているんですけれども、煩悩の雲に覆われて業の蓄積の下にあえいでいるのが現実です。しかし、仏としての自己がまことの自己であって、仏性である。それを本当に見出して、宇宙と合一して宇宙我というところにまで、自己の根源に徹したら、絶対極楽。それを知って悟りの道、天の使命に生きること…」

EJ「MAさん、今いろんなことを言われましたけれど、私の問いですね、基本的公案がMAさんの日々の生活の中で活きて働いていますかという、その問いに対しては、一言でいうとどういうふうに答えられますか。」

MA「それをこれから勉強させていただこうと思っています。」

EJ「YAさんはいかがでしょうか。」

YA「私は皆さんと違って基本的公案に長年取り組んだ経験がなくて、ごく最近こちらにお邪魔しました。従ってとてもじゃないけれども基本的公案が活きて働いているなんてことは口が裂けても言えることじゃないですよね。基本的公案と私はファーストコンタクトの段階というかな、第一種接近遭遇ぐらいなものでありまして、率直に肯定の答えはできない。ただそれだけじゃあまりにも答えとしてなんですから、じゃあお前は基本的公案について何か考えているかということをちょっと話していいですか。私はこちらにお邪魔するようになってから、基本的公案の存在を知ったんですね。それ以前は、世の中に公案というものがあるということぐらいは知識としてありました。これはまことにややこしくて、何か訳の分からないことを言っているというイメージですよ。薄々感じたことは合理的判断だと絶対に解けないような問いを投げかけることによって、その人の持っている一種常識的、合理的な価値観が崩れるということをねらっている知的仕掛けじゃないかなあというイメージなんですよ。それで久松先生の本なんか読ませていただくと、特に臨済宗の世界では公案が何千何百とあると、それを一つ一つ解いていく修行をしているらしいけれども、そういうのはおかしいんじゃないかと久松先生は考えたわけですね。そこでそういう一つ一つの公案に関わるんじゃなくて、公案の中の公案というのかな、つまりこれが根本だというような、そういうものを提示して、それと格闘してそれに何らかの答えができれば修行なんだというものを提示された。だからこそ基本的と言っておられるんじゃないかと思うんです。そういうことを久松先生の本などを読んだりした知識で見ると余計大変なんですよね。これこそ正念場だという感じになるんです。私は昨年の暮れあたりから参加しまして、どう考えても言葉の上では自己矛盾ですね。これを文章として解こうなんてことはとうていできない。だから皆さんがどうされているのかは分からないんだけれども、これは人間が生きている場面に引きつけて、自分としてどういう実感ができるかという、そういうことぐらいしかできないんじゃないかと思うんです。いくらこの文章を分析しても解けないようにできているわけですよ。じゃあ自分の生きている生活の場面でどうしてもいけなければどうするかと問われたときに、それはある種の実感をもって何か言えそうなんですね。しかしそれにはいろんな場面があると思

EJ「ありがとうございます。今のお話を聞いていると、非常に今のYAさんにとって基本的公案というのは活きて働いていると言えますね。つまり、問題としてそれをもう離すことはできないでしょう。」

YA「先に言ったように、肯定を前提に考えていたくせにね、なぜ今否定を前提にする公案に関わるのかということになるでしょう。それはやはり僕の内部で変化があったんだと思うんですよ。それはそこに自分は自覚していないんだけれども、無意識の転換があったんじゃないかなあと思う。急激にじゃないけれども数年間かけて緩やかな転換があったんじゃないかという気がしています。現役サラリーマン時代にはそういう自分を否定して否定して追い込んでいくという、そちらの発想は弱かったというのは認めざるを得ない。」

EJ「OYさんは私のアンケートに回答してくださる中で一応答えてくださっているんですけれども、今ここでもう一度この問いに答えていただくとしたらどうですか。」

OY「皆さんの話は非常によく分かるんですね。私がEJさんに答えたのは、働いているもいないもないと、働いているとか、働いてないとか、感じるとか、感じないとか、言った時は既に違ったものになってしまっていると、そういうことを書いたと思うんですけれども、これは実はMAさんが言われた、どうしてもいけないというような人は尊い生命を生きさせられているんだということと同じことなんだと思うんです。私は先ほど地下鉄に乗って来ましたが雑踏の中を歩くとき、前から人が来たらお互いうまくよけあって何事もなくここへやってきたという事実。これもしロボットだったらよほどプログラムが巧妙に組んでないとバーンとぶつかったりするのは当然でしょう。けど、我々人間はお互い通通の中で現実にうまくやって生きている。それはもう言うならば、どうしようもないという事実の中に生かされている全くそのことだと思う。だから、どうしてもいけないとか尊い生命というと、何かこの現実と全然違ったところにまた素晴らしい世界があるように思うけれども、実はもうそういう中に、少なくても考えている以前にその中にいる。考え振り返ったときはむしろおかしい。それからまた、現実のその場に飛び込んでいく前にいろいろ考えて、考え尽くして、頭の中でごちゃごちゃといっぱい考えると全然離れたものでしょう。むしろ意見対立する現実の中に飛び込んだ時、確かに飛び込むときはハラハラドキドキだけれども、飛び込んだら実は何ともないと、全くそこでしか出てこない解決策がある。これを現場主義と言うんだと思いますけれども、その場で相手の顔を見ながら通通に行き合っている世界、そこはドロドロしたこともいっぱい出てくるが、そのことの方に事実はあるでしょう。だけど我々はそういう事実より以前に自分主体でものごとを考えている。結局はエゴの立場ですね。自分が何か組み立てたものでどうしても行ってしまうという、そういう生き方をさせられていますものね。そういう生き方をさせられている以前にどうしてもいけないというような、まあどうしてもいけないという言葉は非常にすぐれた言葉ですけれども、もっと抽象的に言えばMAさんの言われるような尊い生命というのかなあ、そんな中にしかいないという事実。もう既にその中にしかいないという事実をはっきりさせる公案でしょう。だからどうしてもいけないというと非常に限定されたことのようだけれども、どうしてもいけないという中にしかいないとい

EJ「ありがとうございます。今、参加していただいている方々にこの問いについて答えていただきました。それぞれにやはり基本的公案というのは活きて働いているんだということは、多くの方々がそう思っておられると思うんです。しかしここで活きて働いているという場合に、まず基本的公案って何なんだということがあると思うんですね。それぞれに自分の基本的公案観というものがあって、それが自分の中で働いているとか、働いてないとか、私は基本的公案なんて関係ないとかですね、いろんなことが言われてくるわけなんですけれども、ここで一番大事なことは、各人の基本的公案観というものが一体何なのか、本当に同じものなのかということ、そこがまず問われなくてはならない。その上ではじめて活きて働いているとか働いてないとかいうことが共通認識として起きてくるわけですから、基本的公案とは何かということが一番基本的な問題ですね。一番大切なのはそこだと思うんです。七月段階でアンケートをとりまして何人かの方々に回答をいただいたわけなんです。今回、M・Aさん(以後Aさん)、M・Sさん(以後Sさん)、OYさん、このお三方の回答を資料として取り上げたわけなんですけれども、今日皆さんが答えてくださったように、基本的公案は活きて働いていると答えてくださったのはAさんとSさんでした。Aさんは[自分自身、矛盾を感じて悩んでいること、何だか分からないがどうしても悩んでしまうこと、そのことが基本的公案が活きて働いているということなんだ]と答えてくださいました。Sさんは[仕事柄いろいろなレベルがあるが、多くの判断を求められる。大きな問題が自分自身に起きてきたときに、これでいいのかと絶えず反芻を迫られる。これが基本的公案が活きて働いているところだなと実感する]と言っておられます。OYさんは先程言われたように、[活きて働いているもいないもない。感じる感じないと言った時にそれはもう違ったものになってしまうんじゃないか]と言っておられます。それでこのお三方の回答をもとにこれから皆さんと考えていきたいと思うんですけれども、まずAさんの事前アンケートの回答(ほぼ全文)をここにあげます。『我々は自我があるからこそ毎日さまざまな矛盾の中で生活している。実際生きている上で矛盾を感じることはよくある。自分自身の日常を考えても、仕事上でも【どうしてもいけない!】というようなことはよくある。仕事上で判断を求められた場合、自

OC「とにかく面白いですわ。EJさんの資料、本当に貴重だと思いますね。」

HA「エゴ的自己と、有相と無相ね、この考えを反対概念として我々の日常の中に取り入れていく。無相と有相がないまぜに動くわけですね。そこで僕は長年の経験からいって、俺というのを出したら、エゴを出したら問題は紛糾すると思う。だから本来のあり方は、もう何も考えず三昧になって、Aさんが言われるような状態で問題解決に入っているわけですね。あるいは割り切って行くわけです。ただいろいろな働き、具体的にはMPOとかね、そういう自分達のグループの中においてもそこに没入していく。そういうあり方にその人の人間性が、ありようが出てくると思うんです。だから人さまざまだと思いますよ。EJさんは根源的なものを更に突っ込んでいると思います。こういう発言をするのはそういうあり方をしているからだと思う。それは全人格的なものだと思う。その人の育ちとか環境とかね。だから現実の我々の動きということでどうしても僕は考えるわけです。自分の生活の中、あるいは問題が出たときの解決の仕方とかね。」

EJ「だから僕も現実の問題を言っているわけですよ。」

HA「その時に、根源的に見ていくという行き方と、行動に移す場合はどこかで到達して現成していかなきゃいかん。よく見透かしてよく落ち着いて考えて自分の取るべき態度を決めるわけです。そこのところはどうかと分析して統括して現成に入る。道元さんの統括。いろいろと分析して一つにまとめる。そうじゃないと行動は出てきません。アクションが弱いと思う。今のいわゆる不良債権の問題も全部先延ばしにしちゃうわけ。それじゃ問題の根源的な解決にならない。最後まで残すものだから今の現状なんかで十年間苦しんでいるじゃないか。みんな責任者が泥かぶりしないんです。それは大きくても小さくても問題の処理に当たってのあり方というものを僕は問題にしているわけです。僕はどうしても行動、問題を解決するんだという、当事者としてどうするんだとした時に、やはり間違った判断があるわけです。いい結果が出ない場合がある。これは反省で本当に生きてくるわけです。だから人間というのはどうしても過ちを起こすと、しかし失敗は成功のもとだと、そういうことです。今の政治家とか企業のトップはそういう状態に追い込まれている。それは絶えず問題は発生しているんですよ。もっと早く処理しなければ、小さいときに処理していたらできたんですよ。」

EJ「HAさんがよく出される話で、相対矛盾と絶対矛盾ということを言われて、絶対矛盾が解決していれば相対矛盾は何でもないと言っておられますね。絶対矛盾を本当に解決していればいろんなこの現実の相対矛盾なんかへっちゃらなんだ、解決などすぐできるんだと。」

HA「無私の状態ですね。さっきの三昧。そこにはエゴの発生は非常に少ない。」

EJ「しかし僕が今問題にしているのは、例えば三昧の問題で言えば、Aさんは、ご自分の仕事上、いろんな問題が出てきたときに、何とかしなければならないと必死になると、その時は三昧になっているわけですよ。三昧になって取り組んでいた。そして問題は解決するわけなんですね。しかしその問題は解決してもAさんはそれで満足できないわけです。ここでこういうことを言われるわけです。問題は解決した。解決に当たっては三昧になっていた。実際に無私で取り組んでいた。そういう働きをして問題を解決できた。しかしそんなことを何度繰り返しても何にもならない、と。この発言は重要です。」

HA「そこが僕の視点と違うんです。僕は失敗は成功のもとになると言っている。それとね、その時々の考えでやっていますから、後で問題が出てくるわけです。政策的な失敗ということもあるわけです。」

EJ「今ちょっと話を戻しますけれども、Aさんは結局、問題が起きたときにその問題に三昧になって問題解決したとしても、問題解決後、再び元の木阿弥になってしまうんだということを言われているわけです。HAさんの場合はこんなことにならないわけでしょうか。Aさんはとても正直な述懐をしておられると思うんですよね。問題解決に向けてその時は三昧になってやっていたけれども、問題が解決してしまったらまたどうしようもない私にもどってしまっているという、正直な心の吐露だと思うんです。それに対してHAさんはちょっと違うんだと言われる。そこのところをもう少しお話しいただけませんか。」

HA「だから仮に後になって政策が間違っていたという場合は、その失敗コストは、それは失敗は成功のもとだから、次にまた新しいものが出てくるわけでしょう、その取り組みが。だから失敗は成功のもと、逆に思うわけです。僕の考えは全部逆対応です。」

EJ「僕は今ここで言いましたよね。結局、生起する問題、それに対する解決、それは当然人間としてしないといけないわけです。いろんな問題が自分自身のまわりに起きてくるし、その問題は解決しないといけない。確かにそうなんだけれども、ここで言っているのは、その問題が起きてくるそのもとの問題があるわけですね。HAさんの言い方で言ったら絶対矛盾という問題が根底にあるわけです。ここを解決しないことにはこの相対的な矛盾は解決できないわけです。」

HA「しかしその境地に立ってそれから相対矛盾の解決に行くわけですから、絶対矛盾の立場から見ると相対的な矛盾に対しての解決の仕方が二つに分かれた状態じゃなしにそれを乗り越えて行くという努力の智慧が出てくる。現実の問題解決の上で今ここで話し合っている基本的な公式、公案というのが生きてくると思うんです。だからいろんな問題をまとめて抽象化して一つの公式というか天下の公案にして現実の問題をどう解くかという問題が定理、公理だと思う。原理原則です。誰が考えてもそういうことだと。不良債権の処理でもいろんな問題が出てくる。人をどうするか、損が出たらどうするか、その時にこの考えが生きなきゃだめだ。僕はそのためにこの問題をEJさんが出してくれたと思っている。個人的な問題の場合は生か死かの時の根性ですよ。僕はそう思う。後はもう相対的な日常にある問題をさばいていかなければならない。今困っている企業なり政府の問題が大なり小なり自分達の中にもある。だから決して他人事ではない。僕は自分の問題としてどうするかなあと見ている。そういうことでEJさんがやってくれていることは、僕はそういう面で生かしてもらってますよということなんです。AさんにしてもSさんにしても、それぞれの捉え方はみんな違っていいと思う。しかし本当に正しいのはここですよと、そこへ最後はまとめていって、それがどうしてもいけないと言う意味の、基本的公案のあり方だと思うな。だからそういう意味でEJさんに三回やってもらって、僕は自分の生き方というものについても、必ずそれは僕の奥底から突き上げているというか、問題になっていると思いますね。特に我々はインフレでこう来たでしょう。デフレの経験なんてないわけですよ。一九二九年(昭和四年)の不況の時はまだ四歳ぐらいですからね。会社に入っても、その当時に入っている者はみんな優秀ですよ、一番悪いときに入っているから。うちのじいさんなんかそれを知っているから僕らに対してもいろいろ忠告しましたよ。やはりそういう意味でも経験というかなあ、必要だと思う。」

EJ「他の方々にもご意見を伺いたいと思います。SHさんいかがですか。」

SH「やはり日常生活の中にどうしてもいけなければどうするか、本当に圧倒されてしまうようなというか、そういう時はあるんですね。しかし生きている中で何かに夢中になって、例えば仕事の場合でも夢中になってやっている時に、強く意識としてどうしてもいけなければどうするかということがあるかというと、やはり何かの、いわば相対的な問題に直面して、それを精一杯何とかしようとするにとどまってしまう。その時は基本的公案が薄いというか、薄いというよりもその場その時に出てくるどうしてもいけなければどうするかということとは違ってくるわけです。実際に形というか、それは別にそのことがいいとか悪いとかといっているのではありませんよ。その問題を解決することは実際に私たちが生きている限りはそうせざるを得ません。観念として例えば基本的な問題を解決したとしてもすべての相対的な問題が解決できたかどうか、それは別の問題ですね。それは同じ問題ではないんです。自分がたとえ根本的な問題を解決したとしても、ある意味では自分にとってはすべての問題は解決できたと言えることは言えると思いますが、もっと鋭く言うと、同時にそれは別の問題なんですね。それはやはり生きている限りどれほどの悟りを開いても、ある意味生きている限りは問題がないといけないんです。問題が一切ないということはその人はもう生きていないことだと思う。うまく表現できないけれども、基本的な問題と相対的な問題はただ別な問題ではない。しかし単純にこれを解決できたからすべてが解決できると考えることは非常に危険だということは言えると思います。」

EJ「今SHさんが言われていることはこういうふうに言えないですか。結局基本的公案という、基本的な私という問題、私がここで言っている【私という問題】を本当に解決して、そこに立った時にはじめて、いろんな世界のさまざまな問題に対して、つまり相対的などうしてもいけなければどうするかということに取り組める。つまり、この私という問題を解決したらその時に、この現実のさまざまな問題が同時に解決できるんじゃなくて、私という問題を本当に解決しなければこの現実の問題を、さあ解決しようというふうに一歩を踏み出すことができないと、現実の問題を解決できる地平は私という問題を解決したところにあると、ここに立ってこそはじめてできるということになるのではないか。だからHAさんが言われる現実のいろいろな問題、政治・経済・環境問題、いろんなことがあるけれども、それを本当にどうするかと問えるのは、そういう行動が起こせるのはここ(私という問題)が解決するということ、ここに立ってはじめてそういう行動を本当に始められるわけでしょう。私という問題を、基本的公案を解くということが、基本的公案が解けるということが、まず出発点だということですよ。現実の問題を解決するためにはまずここ。ここを解決したら現実的な問題が全部なくなるんじゃなくて、ここに立ってはじめて現実的な問題に立ち向かっていけるというか、本当のところから問題解決に向けて努力が始まるわけです。みんなここ(私という問題)を解決しないままに私に生起する問題の次元のみで、平和のためにどうしたらいいか、経済をどう立て直したらいいかと、ここからやろうとするわけでしょう。私たちがはじめにやらなければならないのは私という問題を解いた地平に立つということではないでしょうか。Aさんがその時は三昧になっていても、目の前の問題(生起する問題)が解決したら、それがなくなってしまったらまた元の黙阿弥になってしまうんだと嘆かれる、これは非常に正直な感慨だと思うんです。それがなぜ起こるかと言ったら、主体が転換していないんですよ。有相の自己が奥底からの声に従って自分を捨てるということが一瞬あるかも知れない。その時には三昧を体験するかも知れないけれども、その時だけでまた有相の自己が主体を取り戻してしまうから、どうしてもいけない=元の木阿弥ということになってしまう。本当を言ったら三昧になっている時の、自分を放棄しているところに立ちきらなければいけな

OC「無相の自己に立ちきれるんですか。」

EJ「無相の自己にみんな立ちきりなさいと、無相の自己はそう呼びかけているわけでしょう。無相の自己が突き上げているということは結局、OCさんが苦しみ、私(EJ)が苦しむということなんです。本来の自分がこの有相のお前ではダメだと突き上げてくるから苦しんでいるんじゃないですか。有相の私では立ちきれない。だからこそ苦しんでいるんでしょう。しかし、立ちきれるんですよ。立ちきることはできる。立ちきっているんですよ、本当は。それなのに私はここにいる(有相に留まっている)としか思えない。」

OC「そしたら元の木阿弥なんてどうして起きるんですか。」

EJ「元の木阿弥だというのは有相の自己を自分だと思っている私がいるからですよ。Aさんがこのエゴ的自己を自分だと思っているからでしょう。それはAさんだけじゃないですよ。私たち人間はすべてこの体を持った私を私としているわけですよ。」

OC「Aさんの場合、元の木阿弥というのは無相の自己に立ちきってないということなんですか。」

EJ「だから問題解決に向けて一生懸命自分を捨てて、エゴ的自己を投げ出して取り組んでいる時には、全面的に自分を捨てた時には三昧を感じるわけですよ。Aさん自身、三昧の中に自分は生きているなあ、生かされているなあという感じを持つわけですね。しかしそれは一時期のことであって、生起した問題が解決してしまったらまたエゴ的自己を自分として生きてしまうわけです。それが人間のどうしようもなさなんですよ。どうしても私たちはそこへ戻ってしまう。無相の自己はそういう私たちにどうしてもいけないと、そんなエゴ的自己は本当のお前じゃないんだと、絶えず突き上げてくるわけです。私たちがエゴ的自己を自分として生きている限り、そう生きれば生きるほど、それではいけないと、ダメだと私を苦しめるわけでしょう。実際苦しくありませんか。私が今現実に苦しんでいるということは無相の自己があるということですよ。この私が苦しむのは仏がいるからですよ。仏が私を苦しめていると言ってもいい。有相の私はこの有相の私を捨てたらいい。しかしなかなか捨てきれない。何とかして自分を守ろうとするんです。」

OC「捨てきれないと気がついた時はどうするんですか。」

EJ「誰がですか。この有相の私がですか。」

OC「誰でもですよ。ああ、元の木阿弥になってるなあと思った時はどうするんですか。」

EJ「どうもしませんよ。元の木阿弥だと、どうしてもいけないと、ただそこに身を任すだけでしょう。結局どうしようもないんですよ、この私は。」

OC「Aさんが元の木阿弥だと言われることと、あなたが本当に根本の所に立ったと言うのと、そこの違いですね、Aさんとあなたとの違いをもうちょっと分かるように話して下さい。」

EJ「Aさんと私の違いですか。何も違いはないと思います。無相の自己、それこそが私なんだということに気づくか気づかないか、Aさんはそれこそが私なんだということに気づいていないだけなんです。違いがあるとしたらその違いですよ。この形ある私を私として生きる、当然私もこの私を私だと思って生きていますけれども、しかしこの私が私だと思った時に苦しむということ、私が苦しむのは当然だという思いがあるわけです。エゴ的自己を私として生きれば必ず苦しむ。今まではそれが嫌で嫌でたまらなかったけれど、私が苦しむ、それでいい当然だという気持ちになった。しかし、やはり人間は苦しむのは嫌ですからね、何とかしたいと思ってしまう。それが人情ですけれども、その苦しみこそまさしく無相の自己の働きだということです。」

OC「まだ大事な問題が残っているんですけれども、そしたらね、この図を見て思うことは、HAさんは相対的な問題と絶対的な問題はあざなえる縄の如しだと、こういう言い方をした。それからあなたはこういう表現をされたわけですね。僕が思うのは、久松先生の波と水の譬えというのはやはり素晴らしいと思うんです。こういうふうに下と上とにわけて書いてしまうと、波は水なんだという、波と水の関係がはっきりしなくなってしまう恐れがある。」

HA「それはOCさん、いろいろとその人の考え方で、一つの表現の仕方として自分がどう納得するかという書き方の問題ですから、EJさんが問題にしている根源的な問題ということで、SHさんは根源と相対とは若干違うと言っておられたけれど、やはり根源を解決しないとさざ波さえも解決できないと思うんです。」

OC「根源が解決するとはどういうことなの。」

HA「絶対無私の姿勢です。無相の自己になることです。無相の自己になって事の処理に当たったら僕は解決の道はあると思います。エゴはあるんだけれどもエゴというものを殺して事に当たって、立場によって違うでしょうけれども、一国の宰相と企業の部長と違うと思いますけれども、やはりどんな問題でも根源的な問題になってくるほど無相の自己で、無私の世界で自分を殺していかないと話は解決しない。」

OC「あなた、自分が殺せない時どうするの。」

HA「いやいや、自分を殺して…」

OC「だから殺せない時にどうするか。」
HA「それを殺して行くわけです、問題解決のためにね。」

OC「殺せたらもう心配ないじゃないですか。殺せないからみんな苦しんでいる。」

HA「いやいや、エゴを殺すんですよ。」

OC「殺せるんですか、あなたは。」

HA「そういう考え方で事に当たるわけですよ。」

OC「ちょっと待って。考え方で事に当たると言うんですか。」

HA「無私という考え方でですよ。だからどうしてもいけなければどうするかということはOCさんが言うように手を放せという、この境地だと思いますね。無私の境地、大死一番。」












OC「手を放せますか。」

HA「その境地にならないと…」

OC「あなたはできますか。」

HA「それはその時になったら分かりません。今の状態ではできないだろう。しかし僕はその境地に置かれたらやっているかも知れない。人間というのはそういうものだと思います。そこがやはり人間の本然の仏心だと思いますね。そこが禅の一番好きなところです。そのために我々中学時代から、建国大学へ行ってからも禅の境地を習ったと思いますね。」

YA「いいですか。禅の悟りを開いたという偉い坊さん達がいますね。でも、しょっちゅう内紛したりしていますね。あれは悟りを開いていないのか、それとも悟りを開いてもエゴは捨てられないということなのか、あれは何ですか。」

EJ「僕は禅のお寺に入って修行したわけではありませんから。」

YA「悟りを一応前提にしているわけでしょう。」

EJ「悟りって何かということなんですよ。本当の悟りとは何か。この私が、例えば坐禅だったら、坐禅の修行を何年も重ねて、公案修行だったら、公案修行を一生懸命やって、この私が悟るんだと、何かパッと世界観が変わって生死が何でもないようになるとかですね、それを普通みんな悟りだと捉えていますね。禅の偉いお坊さんがそんなふうに捉えているかどうかは知りませんけれども、悟りというのは、久松先生も言われているように、本当の自己に覚めることであって、その本当の自己というのは共通の自己なんだと言われるわけですね。私一人が悟ったとか、そんなことを言っている人がもしいたとしたら、それは大きな間違いですよね。しかし多くは、悟りというのは一人一人が修行したら、どこかでパッと光り輝くような経験をして、その後はすごいことができるようになるというぐらいに思っている。そんなものは全然悟りじゃないんですね。本当に悟るということは、あなた(他者)が本当に仏なんだということを私が分かるということなんですよ。YAさんが悟るということは、自分自身の中に仏を見るのと同じように、相手の人の中にも仏を見るということなんです。」

YA「だからね、正しい意味の悟りというものを臨済宗や曹洞宗の高僧は会得しているわけでしょう。どうなんですか。」

EJ「僕はちょっとそれは分かりません。昔、本当の悟りとはということでちょっと書いたことがあるんですけれども、悟りというものには有相の悟り、つまり有相の自己の悟りというのと、無相の悟り、無相の自己の悟りというのがある。そう思っているんです。普通一般に言われている悟りということ、例えばお坊さんが俺が悟ったというような悟りは有相の自己の悟りでしかない。それはどういうことかと言ったら、さっきの話で言えば、エゴ的私が修行の延長線上で悟りの世界といったようなものを垣間見るでしょう。パーッと真実の世界みたいなものが見えるわけです。坐禅なんかでも一生懸命取り組んだら、根を詰めてやったら、誰でもパーッと目の前が開けるような時があるわけですよ。何か広くて素晴らしい世界が目の前に広がって、これで俺は悟ったんだという思いが湧くわけです。素晴らしい経験をして、これこそ悟りだと思うわけです。自分で思ってしまうわけです。しかしそれは、有相の自己の悟りと言われるものなんだと僕は勝手に言っているだけなんですけれども、まさしくそれは有相の自己を残したままで、つまり、エゴは依然として残っているわけです。エゴがそういう素晴らしい世界をたまたま見たというだけなんです。そのいい例が、白隠禅師という方が、十九才の時だったか、若い時に一度悟りますね。どこかで坐禅していて、お寺の鐘の音を聞いて悟ったと思う。そして五百年間、俺ほど悟った奴はいないと豪語するわけです。しかしそれは有相の悟りだったんじゃないでしょうか。そしてその後、飯山の正受老人のところへ行ってこてんぱんにやられて、そこで自分の間違いに気づいたとされている。しかし、本当の悟りに覚めたのはもっと後で、四十何歳かの時、自室で法華経を読んでいて涙が止まらなくなった時だと言われています。白隠自身が後で述懐して、若い時、俺は悟ったと思ったけれども、あんなものは悟りでも何でもなかったと、無相の悟りを悟ってはじめて自分の間違いに心底気がついたという話が残っていますね。本当の悟りというのは、この有相の自己が悟りの世界を見たということではなくて、有相の自己を手放して無相の自己に立ちきるということ、立ちきった時にそれを悟りというわけですね。その無相の自己に立ちきるということは、全人類の立場に立つことだと久松先生は言っておられますね。」

OC「だから無相の自己に立ちきれるんですか、あなたは。」

EJ「だからこの私は立ちきれないですよ。この私では立ちきれないということを分かるということですよ。僕はいつもOCさんの話を聞いて、立ちきれるのかと、この私が立ちきれるのかと言われるけれど、この私なんか立ちきれませんよ。この私ではどこまでいっても悟れないと、どこまでいってもどうしてもいけないということがはっきりするだけですよ。この私が修行を一生懸命して、無相の自己に立ちきれるなんて、この私がそこへ行けるなんて思っているからおかしくなるんです。」

OC「そういうふうに言っているように聞こえたからね。」

EJ「この私はどこまでいってもどうしようもない人間であると、まざまざとはっきりするということですよ。この私がどこかでパッと変わって、パッと悟りが開けるということじゃないんですよ。」










YA「そうするとね、真の悟りというものは一般に知られていませんよね。真の悟りに達するのはごく限られた、本当に一部の人だけであってね、多くの人はそうはなれないということを自覚するところまでですね。」

EJ「だからね、本来の自己というのは、YAさんも本来の自己を生きているんですよ。だけど、エゴ的自己を自分だと思い込んでいるから、本来の自己からの働きに身を任せずに反抗するわけですよ。このエゴ的私が、エゴ的YAさんが本来の自己の働きかけを無視したり誤魔化したりしている。人間の生き様はみんなそうですよ。しかしこの働きかけは、エゴ的私がどこを向こうが働いてくるわけですから、それはエゴ的私にとっては苦しみなんです。本来の自己からの突き上げは、この私からすれば逃げたくて逃げたくてしょうがないんだけれども、執拗についてくるわけです。それでいつか逃げ切れないと観念してですね、坐禅なら坐禅という形を持ってこの働きかけをまざまざと受けるんです。そこで、[ああ、私はどうしてもいけないんだなあ]と、はっきり照らし出されて、こんなちっぽけな私なんか本当の私じゃなかったんだなあと気づいて、手を放した(主体性を放棄した)時に、本来の自己の、本当の私の働きが今度は肯定的に活きて働いてくる。それまでは徹底的に否定なんですよ。絶対的に否定される。このエゴ的自己をどうしてもいけないと否定してくるわけです。しかし、本当の主体はこの私じゃなかったんだと分かって手を放した時に、突き上げてくるものこそが本当の私だったんだと分かった時に、今度は否定じゃなくて、この私を通して本来の私がいきいきと働き出すということになるわけです。その場合に、先程言われたようないろんな世界があるわけでしょう。自分に与えられた世界がある。経済界の人であれば経済界、政界の人であれば政界、教員だったら教員、主婦だったら主婦、本来の自己を主体としてそれぞれの世界で働くということが起こってくるわけです。それが本当に悟って本当の自己を生きるということなんです。」

OC「YAさんが聞いておられるのはね、今あなたがおっしゃったことと古来からの高僧の悟りと同じなんですか、違うんですかということなんです。」

YA「いわゆる仏教、つまりね、僕なんかは仏教に対して非常に疑問を抱くところですね。だってそうでしょう。悟ったはずなんですよ。仏教の修行をしてお釈迦さんは悟ったわけでしょう。お釈迦さんは悟っていないと言う人もいるのかなあ。そういう人もいるらしいね。しかし悟ったと思われている高僧はいっぱいいるじゃないですか。今でもいるわけですよね。だからそういう人達の、それが真の悟りであるならば、そういう人達はどういう行いをするのかというのかなあ、世の中の人々のために何をなすかということが問われているんじゃないんですか。つまり、エゴむき出しの闘争することにしかなっていないのは一体どういうことかということですね。悟りを開いた僧侶達といったってほとんどそういう感じじゃないですか。つまり既成の教団としての仏教に対して拒否反応を持つんですね。そういう感じが非常に強いんですけれども、これはしょうがないのかなあ。悟ったって人間はそういうことをするんだと割り切っちゃうのか…」

EJ「だから悟りとは何かということですよ。高僧のようにすごい修行をしてはじめて悟れるんであって、私たち一般人はただ信じるだけだとかですね、自分のような者は悟れないと自覚できたらそれでいいというふうな考え方ではなくて、仏教はこの私は仏だと、衆生本来仏なりと言っているけですね。偉い高僧であってはじめて悟れるというようなものではないわけです。要はYAさんが今の自分に働いている本来の自己からの突き上げをいかに真摯に受け取るかです。この私というエゴ的自己はそれをなんとか誤魔化そうと絶えずしていますからね。」

YA「僕はそれは仏教でなくてもいいと思うんですよ。つまり自己に覚めるということですね。僕は既成の仏教のことなんてどうでもいいんだけれども、それを参考までに聞きたかったのは、既成の仏教ではそれを立派なこととしているからね、それは肯定できるのかどうかなと思ったわけです。」

HA「YAさんね、僕も新入りだし、今、EJさんはFASで基本的公案というものがあると、それをもう一遍、我々も含めて問い直そうじゃないかというようなことでやっていると僕は受け取っているわけなんですね。これまで三回やってきてもなかなかお互いがこうだという共通認識というかね、そこまでは行かない。基本的な考え方を掘り下げて、ケンケンガクガクやっているわけなんですけれども、そういう中で私はこういうふうに受けとめる、あなたはどうなんだと、やはり疑問が出るので僕はいいと思うんです。だから諸先輩の基本的公案についての理解は理解としてお互い共通認識として受け止めておこうやと、こういうことでやっていってはどうでしょうか。」

OC「共通認識?」

HA「同じ基本的な考え方だからということで、それをお互いにどう考えるかということにおいて、ことほど左様に違うんだから。そこに僕は今のFASの問題点があると思う。やはり一つの言葉でも、今、共通認識と言ったら、OCさんとしたら抵抗があると思う。我々のジェネレーションはOCさんと五つ違いだけれども、ことほど左様に違うわけです。」

OC「今のFASの問題ってそれはなんですか。そういう言い方、捉え方に対して僕は疑問を感ずる。」

HA「例えば今日はSHさんもおられるし、いろんな立場の人がおられるわけだから、理解をしやすいように、お互いのカルチャーも違うんだし、経歴も違うから、お互いに忌憚のない意見を出し合って、そして、お前はそう思うのか、私はこう思うんだと、その中でいろんな意見があるのでいいと思うんですけれどもね。しかし基本的公案というものはどうしてもエゴが出るからねえ。」

OC「今あなたがおっしゃっていることね、僕は西田さんの言い方が面白いと思うんですよ。[本当の自己とは統一的直覚だ]と、[統一ということには完全な統一もなければ完全な不統一もない]と。これはあなたが今おっしゃられていることを哲学的な表現をしたら、そういうことになるんじゃないですかね。」

HA「僕はOCさんが言われる絶対矛盾的な立場というもので、反対概念というものを踏まえた統括だと思うんですけれどもね。そういう意味でそのもう一つ奥をEJさんが問題にしていると思うんです。」

OC「奥なんかあるのかなあ。」

OY「それは、これでもういいんだ、もう悟り終わったという考えは、それは悟ったことじゃないんですね。俺は悟った、これでいいというのは悟ったという立場じゃないと思うんです。少なくともこの形を持って生きている、この有相の自分がある限りは悟れない。」

YA「問題は悟ったと思っているのがいけないんですよ。」

OY「そうですね。悟ったという余分なものをむしろ背負ったら全然だめですね。どこまでも悟れないという面のあることを悟らなくちゃいけない。私はそういうものだと思っているんですけれどもね。」

EJ「時間が来ました。」
全員「ありがとうございました。」