【発題報告】対立の一致を目指して

菅原義生
風信45号 2001年12月
          
 「日常生活に没頭しつつ、超越できないか。」言葉を変えれば、「生と知の一致」、「外的活動と内的活動の一致」、これが私の目標です。このことによりニヒリズムから脱却し、生き生きと生きられないかということです。
 先日、坐禅中に何か自分が上の方から、坐禅している自分を見下ろしているような感覚になりました。自分が坐禅に没頭しているのに、それを自分が第三者的に見ている、このように日常生活もできないかと思っています。そのための方法論は、?外的活動すること。?美しいものに感動すること。坐禅をすること。?これらを繰り返しつつ待つこと。と考えています。

外的活動することについて
 根源的問いが生まれる契機は、現実に生活の中で自己が否定されることと思います。自己が否定され苦しむことにより、「生きるとは何か?」「存在とは何か?」という問いが生まれてきます。自己を苦しませる否定や自分の欠点ゆえに道は開かれるのであって、肯定や長所からは、真の道は開かれないのではないでしょうか。物理学に作用・反作用の法則というのがあります。壁を押せば、同じだけの力で壁から押し返されるという法則ですが、この法則は自己と社会の間でも成立すると思います。自己が、社会に働きかけ作用しなければ、反作用は受けられません。そしてこの反作用こそが自己を成長させる糧です。反作用を受けて考察することにより、次により良き外的活動ができます。作用→反作用→考察→作用の循環がらせん状的にレベルアップすると思いますが、まず外に向かって活動することが大切と思っています。

感動と坐禅について
 理解には、分析的理解と受容的理解の二種類があると思います。分析的理解は、頭が言葉を用いて理解すること。受容的理解は、身体が無媒介的に理解することです。言葉は、体験したことに反省を加えたり考察するのに有力な武器であり、言葉がないと考えることはできませんが、このような言葉を用いた分析的理解の他に、身体が無媒介的に理解する受容的理解があると思います。例えば「身体が憶える。」と言います。これは憶えるという能力は頭の専売特許なのではなく、末梢の組織・細胞にもこの能力があるということだと思います。末梢の組織・細胞は頭からの指令で動くだけのものではなく、それ自身にある種の能力があるということではないでしょうか。言葉を用いた分析的理解は頭にしかできませんが、逆に無媒介的に理解する受容的理解は身体にしかできないのではないかと思っています。
 日常生活に没頭しつつ超越するという対立の一致は、論理的には矛盾しますので分析的に理解はできません。これは受容的にしか理解できないので、この受容的理解の能力を伸ばさなければならないと思っています。

 美しいものに感動することは、美しいものが自己に無媒介的に受容され、同時に自己が美しいものに受容される瞬間、つまり美しいものと自己が一体となった瞬間だと思います。これは、見るものと見られるもの、知るものと知られるものという二項対立が消える受容的理解の一種類と思います。美しいものに触れ感動することにより、この受容的理解の能力が伸びてくれないかと思っています。
 ところで習慣的に言葉はすぐに頭に浮かんでしまいますが、この言葉を捨てることによって得られるものがあると思います。何かを得たときは何かを捨ててしまっていますが、逆にただ捨てることによって得られるものがあると思います。坐禅では言葉を捨て、分析的理解することを止めることによって、受容的理解の能力が得られるのではと思っています。これは受容的理解が分析的理解より上位の理解能力であると言っているのではありません。受容的理解と分析的理解とは同格であり、両方の能力を同様に伸ばすことにより、総合的に成長しなければならないと考えているということです。

待つことについて
修行と悟りは、学習曲線のようなものと思っています。どんなことでも練習を重ねると、ふっとレベルが上がるときが来ます。そしてまた練習を重ねると、何故か突然レベルが上がります。練習を重ねることが修行であり、突然レベルが上がることが悟りではないかと考えています。悟りの直前までは能動的に修行することによって行くことはできますが、悟りの瞬間は受動態と思っています。受動態と言うことは、この瞬間を待たなければならないということです。不安定な状態に耐えて待つことは、一つの能力と考えています。以上、私が試行していることを発題しました。
(今年十月の発題内容を加筆訂正したものです)