【発題報告】
キリスト教の始源としてのイエス運動と健康の概念におけるスピリチュアリティ

圓山誓信
風信45号 2001年12月
          
 地方自治体で公衆衛生の仕事に従事する私が大層仰々しいタイトルを付けたものとお叱りを受けそうである。しかし、我々の世界も近年宗教と無関係ではなくなってきた。というのも健康という言葉で含意される領域は時代とともに拡大され、「病気ではないことが健康である」という素朴な定義はともかく、健康という言葉に表象される対象が社会性や心理・精神性、生き甲斐といった領域から、「宗教」をも包含する方向に向かいつつあるからである。もっともこのような動きは故なきことではない。これまで公衆衛生の文脈で健康が語られるとき、それは他者への支援・援助という行為を意味していたが、ここに至って微妙ではあるが大きな質的変化が生じてきている。というのも社会環境の整備や医学の進歩によって、健康に大きな脅威となっていた急性疾患(および外科的処置)が減少し、ガン、脳卒中、心臓病などの現代医療技術が不得意とする慢性で治癒しがたい疾患が増加した結果、患者は長い期間にわたり病いと共存せざるを得ない事態にしばしば直面するようになった。終末期医療の現場において端的に現れているように、このような状況においては身体だけでなく精神の上にも、単に苦痛というだけでない苦悩が生じかねないこと、医療従事者もまた、患者のこのような苦悩に目を向けその解決方法を模索することなくして患者は真の「健康」を得ることはあり得ないのではないかと考えるようになってきたのである。
 ところで、病いと共存しつつ新しい生を歩み出すということと、自ら自己の生きざまに関する新しい洞察を獲得するということは無関係ではなく、またこの自己が自己のための新しい洞察を獲得するという点において「宗教」の面目躍如なるところがあると思える。患者のよき援助者としての医療従事者がこのような領域に自ら入る必要があると看取したとき、それは同時に援助者自身が自己を見つめるという過程と同値であるに違いない。

 FAS協会の委員長、故山口昌哉氏は一九九八年、WHOの招きに応じてスイスのジュネーブで開催された国際会議に仏教代表として出席されたが、そこでのテーマは健康の定義におけるスピリチュアリティの検討であった(「霊性」ととりくみはじめたWHO、季刊「仏教」四五号、一九九八年)。宗教信条が身体に影響を及ぼすことは古来論じられてきたことである。しかし、それはしばしば特定宗教の世俗的慣習と結びついて語られることが多かったため、普遍的なスピリチュアリティとしては取り上げにくかった。本稿ではこの普遍的なるものの糸口をキリスト教を通してつかみたいと思うのだが、その際に、出来る限りキリスト教の最古層に近づき、そこで主張される内容を検討しようと思う。このようなアプローチを採用するのは、キリスト教と仏教は表に現れた信条や教義は大いに異なるにもかかわらず、その根源において人類の普遍的課題を扱っているに違いないと思われること、またその主張はその発展段階の初期において純粋な形で我々に迫ってくるのではないか、という期待からでもある。
 このようなアプローチが可能であるためにはもちろんキリスト教の始源そのものが明らかにされていなくてはならない。幸いにして、最近この方面の研究が進み、かなりのことが明らかになってきた。一八六〇年代以降、いわゆるQ(Quelle)資料の名で知られるイエスの「語録」に関する研究の蓄積があり、近年、年代的、思想的にさらに細分可能になった。そもそもQ資料はマタイ、マルコ、ルカの福音書の年代確定作業中に発見されたものであって、マルコが最古の福音書であると考えられるようになったのは、マタイとルカにおける物語の筋道がマルコに従うときだけ一致し、従ってマタイとルカはマルコの筋書きを利用したことが明らかになったからである。この研究過程で、マタイとルカはマルコにはない多くのイエスの語録資料を含み、しかもその大半が同一であることが明らかとなったことから、マタイとルカはマルコ福音書に加えて第二の文書資料を使用していることがわかった。これがいわゆるQ資料として世に知られているものであり、マタイおよびルカの福音書の中からさまざまな手続きを経て抽出されてきたものである。一九四五年に発見されたコプト語のトマス福音書(原文の約三五%がQ資料と一致)もQ資料に重要な手がかりを与えている。最近の研究によると、Q資料は西暦二〇年代から七〇年代の記録とされている。一番古いマルコの福音書は神殿破壊のあった六六年以後、七〇年代に著されたと考えられているので、Q資料にはそれより数十年も古い資料が含まれていることになる。
 このQ資料はQ1、Q2、Q3の三つの部分から構成される。最古層に相当するQ1はほとんどの部分がイエスの追随者のとるべき態度を教えた「教え」からなり、Q2ではそのようなイエスの追随者たちの受け入れを拒否したものに対しての、預言的・黙示的審判を語ることばの導入部分、そして、Q3はそのようなイエスの追随者たちを受け入れない一般大衆への苛立ちから離れて、最後の栄光の時を待ちながら忍耐と敬虔を説く部分である。そこにはイエスの死や復活への言及はなく、またイエスがキリストであるとも述べられていなかった。さらにイエスの宣教の継続や洗礼を施し改宗者を教会へ迎え入れることなどに関してのペテロや他の弟子への指示もなかった。これから考えられることは、Q資料はキリスト教がキリスト教として成立する以前のイエスとその追随者の運動体の言説であるということである。

 ここではこのようなQ1に表現されていることばを頼りに「普遍的」スピリチュアリティを考察することにする。Q1で取り上げられている主題は、「ヘレニズム・ローマ時代に民衆の哲学者たち―犬儒派―によって勧められた振る舞いのパターンであると歴史家が認める生き方を示している。」犬儒派は英語のシニカル(皮肉な)という意味の語源であり現在ではマイナスのイメージが強いが、「犬儒派のものは前五世紀から後六世紀までのおよそ一千年の間、因習的な価値観や抑圧的な形態の支配を批判するものとして、非常に重要な役割を演じ」ていた。またここに「神の国」ということばが出てくるが、イエスの生きたヘレニズム時代には、このことばは「完全なる社会」を意味し、またそれはアレキサンダー大王によってもたらされた人種混交施策が進行している中にあって、「あらゆる人種が平和に暮らせる多民族国家」そのもののことを指しているという。
 Q1には「よりよい生き方」に関することばに充ちていて、命令形―つまり、そうすることが価値あるものとして言い渡されている。
 Q1の主題を本稿の趣旨から分類すれば、次のようになる。(1)智慧への洞察、(2)偽善の排除、(3)新しい生き方のすすめ。
 まず、「おまえの頬をビシャリと打つ者には反対の頬も向けてやれ」という行為が「その方(神)は、よこしまな人間の上にも善良な人間の上にも太陽を昇らせる」という洞察から基礎づけられる。
 次に、このような洞察を困難にするものとしての自我の存在が取り上げられ、「まずおまえの目から丸太を取り除け」などのことばによって偽善の排除が命令される。
 そして、最後に「おまえたちへの神の支配を確信するのだ。」など新しい生き方をすすめることばで結ばれる。この主要な

主題にそって、Q1の中から実際のことばを幾つか抜き書きすると次のようになる。
(1)智慧への洞察
・罵られたときは、喜べ。(ルカによる福音書の対応箇所六:二〇〜二三。該当箇所だけでなく前後のQ1も含めた範囲を示す。以下同じ。)
・敵を愛せ。(六:二七〜三五)
・呪うものを祝福しろ。(六:二七〜三五)
・おまえの頬をビシャリと打つ者には反対の頬も向けてやれ。(六:二七〜三五)
・その方(神)は、よこしまな人間の上にも善良な人間の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨をお降らせになるからだ。(六:二七〜三五)
(2)偽善の排除
・裁くな。そうすれば裁かれないですむ。(六:三六〜三八)
・まずおまえの目から丸太を取り除け。(六:四一〜四二)
・よい木は腐った実を結ばず、朽ちた木はよい実を結ばない。(六:四三〜四五)
・善良な人間は倉からよい物を取り出し、よこしまな人間はいかがわしい物を取り出す。なぜなら口は、心から溢れでるものを語るからだ。(六:四三〜四五)
(3)新しい生き方のすすめ
・狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない。(六:四六〜四九)
・死んでいる者たちに自分の死者を葬らせるがよい。(九:五七〜六二)
・行け。狼の群の中の子羊のように。(一〇:一〜一一)
・金もバッグもサンダルも携えてはならない。(一〇:一〜一一)
・求めよ。そうすれば与えられる。(一一:九〜一三)
・体を殺すことが出来ても、魂を殺すことの出来ないものを恐れるな。(一二:四〜七)
・自分のために富を積んでも、神の目に豊かでない者は、これこのとおりだ。(一二:一三〜二一)
・命のことで心配などするな。(一二:二二〜三一)
・百合がどのようにして育つか考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない。だが、栄華をきわめたソロモンでさえ、これほどには着飾っていなかった。(一二:二二〜三一)
・おまえたちへの神の支配を確信するのだ。(一二:二二〜三一)
・自分の持ち物を売り払って、施しをしてやるのだ。(一二:三三〜三四)
・父や母を憎まない者は、私から学ぶことは出来ない。(一四:二六〜二七)
・十字架を受け入れて(非難に耐えて)私に従わなければ、私の弟子の一人になれない。(一四:二六〜二七)

 このようにQ1では、自我の問題が中心的に取り上げられるが、最初期の仏教教典においても多くの部分がこの自我への考察に費やされる。たとえば、「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。」という有名なことばで始まるダンマパダやウダーナバルガは繰り返し自我の問題を取り上げる。ここに、ダンマパダ(DP)とウダーナバルガ(UV)の中からQ1と平行する記事を幾つかあげてみよう。
・われらは一物も所有していない。大いに楽しく生きてゆこう。(DP二〇〇、番号は中村元「真理のことば、感興のことば」に準ずる)【人の子には枕するところもない】
・実にこの世においては、およそ怨みに報いるに怨みをもってせば、ついに怨みのやむことがない。堪え忍ぶことによって、怨みはやむ。(UV一四:一一)【敵を愛せ】
・他人の過失は見やすいけれども、自己の過失は見がたい。ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過失は隠してしまう。(DP二五二)【目から丸太をとれ】
・聡明でない愚人どもは…悪い行いをして、苦い果実をむすぶ。(UV九:一三)【朽ちた木はよい実をむすばない】
・わたしには子がいる。わたしには財がある。(UV一:二〇)【自分のために富を積んでも…】

 キリスト教および仏教は、いずれもその最初期において、自我の問題を正面切って取り上げているのは興味深い。仏教は大乗の時代にはいり、さらに利他が強調されるようになるが、その利他も自我への洞察なくしてそれを深化させることは出来ないと思える点で、この自我への考察は非常に重要である。健康の概念におけるスピリチュアリティも、自己に突きつけられ自己にしか解決できない「自我」の難問を、自分自身どう取り組むかという姿勢抜きには語られないのではないかと思う。また本稿では何の説明もなく「宗教」ということばを使用したが、ここではこのような意味でこれを使用したことを申し添えておく。
(Q資料の記述に関しては、下記の資料を頻繁に引用させていただいた。)

〈BLマック(秦剛平訳)「失われた福音書」青土社、一九九五年(Burton L.Mack "The Lost Gospel: The Book of Q and Chiristian Origins")

Burton L. Mack "Who Wrote the New Testament? - The Making of the Christian Myth" Harper SanFrancisco 1995〉

中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波書店一九九一