はじめに言葉が在つた(二)

川崎 幸夫
発風信45号 2001年12月

 ヨハネ傳福音書の開口一番をなす「はじめにみことば御言が在つた」と語られた「御言」logosとは決して人間の用いる日常的言語を意味しているのではなく、神の独り子たるキリストという人格的存在を指している。かかる特殊な意味で父なる神と等しい本性を具えた御子たるロゴスとして、一切の時に先立つ「はじめに……在つた」といわれた「御言」は正しく神なのであつた。このような立言は旧約聖書で説かれて來た世界創造の展開とアダム以後の原罪で規定された人類の歴史を貫く時間の構造を一挙に崩落させただけでなく、マタイ傳福音書、したがつて新約聖書の冒頭に置かれた、アブラハム以後のヘブライ人の系図の末端にイエスを位置づけ、イエスの福音に旧約の預言の実現を見出そうとした共観福音書の意図をも完膚なきまでに破壊するものであつた。以上のごとき驚くべき事柄が、ギリシア語原典においては定冠詞四ヶを含めて僅か十七ヶの単語で一気に吐露されている。

 しかし「神の許に在つた」という仕方で、はじめに「在つた」とのみ措定された「御言」は、神とは別箇の形で客体的に存在するものとして併存していたのではなく、神が自らの全本質を一語に集約して發語することによつて産み出されたのである。「はじめ」はロゴスが語られる以前に成立していたのではなく、父が一語を発し、子が産まれたのと同時に「はじめ」が現成したのであり、また同じ出來事において父も自らを父として認識した。産むという行為は生命の最高の発現であり、産まれた子には産む父から父と同一の生命が流込み、子は父と同一の本性を受容して、父と子の間には永遠に変ることのない愛の紐帯が結ばれる。それ故に叡智に溢れた神の自己認識は単に父自身の内面に孤立した抽象的思弁ではなく、父は自らに等しい本性を具えた子において自己の全本質を見出すのである。かくして「在る」と「語る」と「産む」こと、更に「自己認識」と「生命」とは「はじめに」おいて完き自己同一をなしていたのである。数多くのキリスト教哲学者の内で、このヨハネ傳冒頭の一句にもつとも深い考察をめぐらし、「はじめ」の内に含蓄されていたこのような関聯を明かにしたのはオリゲネスとエックハルトである。オリゲネスの場合については既にその概略を描出したので、以下の論考においてはエックハルトの解釈を採上げることにしたい。

エックハルトは『ヨハネ傳』一章一節の解釈を特に重視しており、ドイツ語説教においてもさまざまな文脈のなかで言及されているが、纏つた形で解釈が展開されているのはラテン語著作においてである。しかし『ヨハネ傳福音書注解』(Expositio Sancti Evangelii secundum Iohannem)はむしろ「言葉」verbumの穿鑿に重点が置かれており、「はじめに」In principioの解釈については『創世記注解』(Expositio libri Genesis)の方が詳しい。いうまでもなく『創世記』の物語は「はじめに神は天と地を創つた」(In principio creavit Deus caelum et terram.)という一句で以て幕明けとなり、したがつて旧約の世界全体が「はじめに」という語によつて開演されるという形を採つている。 この二つのIn principioの間に果して呼応関係を認め得るか否かについては議論の岐れるところであり、ブルトマンのように非神話化を断行して終末論的な出來事として捉えるために、両者の連続性を否定する人もいる。しかし同じく旧約から共観福音書まで継承された継起的時間秩序を一足跳びにして、ロゴス誕生の場としての「はじめに」を天地創造の場である「はじめに」に直結させ、永遠の現在の場から或る意味での非神話化を貫徹したのが中世における否定神學の傳統である。このような観点を最初に体系的な表現にもたらしたのがオリゲネスであり、オリゲネスから降ること一千年有余を経て、より高度な思弁を展開したのがエックハルトであるといえよう。しかもエックハルトは『創世記』冒頭に掲げられた「はじめ」principiumをratio idealisであると規定した上で、「このものはヨハネ傳一章で『はじめに言葉が在つた』と語られているもの―ギリシア語原典がロゴス、即ちratioと呼んでいる―である」(I、136〜7)と述べており、二つのIn principioの直接的同一性を認めている。(以後ラテン語全集版よりの引用箇所の表示はローマ数字で巻数、アラビヤ数字で頁数を表すこととする)以上のごとき理由で、『ヨハネ傳』冒頭の「はじめに」に関するエックハルトの解釈を彼の『創世記註解』に索めることにする。

まづ第一に、彼は今述べたごとく「そこで神が天と地を創造した」場である「はじめ」principium とは ratio idealisである、と規定を下している。そこでこのratio idealisとはいかなるものであるのかを明かにしなければならない。コールハンマー版全集につけられた註によると、この用語の出典はトマス・アクィナスの『神学大全』第一部の第一一五問題第二項から由來したとされる。第一一五問題の標題は「物体的被造物の働らき(actio)について」となつており、その第二項では「物体的質料のうちに『胚種的理法』というものが存するかどうか」という問題が論ぜられている。この「胚種的理法」rationes seminalesという表現はアウグスティヌスの『創世記逐語注解』第九巻第一七章から引用された言葉であるが、アウグスティヌスの考えを要約したトマスの説明によると、「生物が子を産む際に能動的にも受動的にもその根源をなしているのは生物がそこから産まれて來る胚種(semen)にほかならない」のであり、したがつて生物が自らの「自然的本性に則つて子を産む場合や運動が行われる際に、その根源となつているところの、能動と受動の両面にわたるすべての力(omnes virtutes activas et passivas quae sunt principia generationum et motuum naturalium)を引繰めて、アウグスティヌスが『胚種的理法』と呼んでいるのは適切である」と述べられている。トマスは更に引きつづいて、このような諸力は「多様な序列において」(in multiplici ordine)見出されるのであつて、まづ第一の仕方では、アウグスティヌスの言うように「神の御言そのものの内に」(in ipso Verbo Dei)、 「根源的且つ起原的な仕方で」(principaliter et originaliter)、 「イデア的理法・イデア的根拠」rationes idealesという意味において存在している。次いで第二の仕方では、普遍的な因としての「世界の諸元素の内に」(in elementis mundi)存在し、第三の仕方では、「普遍的諸因から」(ex universalibus causis)「時間の継起にしたがつて」(secundum successiones temporum)産出される個別的なものの内に存在しており、第四の仕方では、もろもろの動物や植物から産出される「胚種」の内に存在していると説いている。以上のごとくトマスはアウグスティヌスの考えに沿つて「胚種的理法」を検討し、それらがまた「原因的理法」rationes causalesでもあることを認めた上で、但し「イデア的理法」は「原因的理法」とは呼ばれ得るが、「胚種的理法」と呼ばれることはできない。その理由としては、「胚種」は「離在的な根源」principium separatumではないからだ、と語つているのである。
トマスが綴つた以上の言説はアウグスティヌスが『創世記逐語注解』の第三巻から第六巻にかけて縷説しているところを極く掻いつまんだ形に簡約したものであるが、ここでは先を急がねばならないために若干の付言をするにとどめたい。モーセの創世神話は神が言葉を発する毎に世界の形態が定まつてゆくという構成を採つている。第三日には乾いた大地と水を集めた海とを分け、地には「その種類にしたがつて、それぞれの種をもつ」(habens unumーquodque sementem secundum speciem suam,Genesis,I,12)青草や樹木を生やさせ、第五日には水中に群をなす生物を「その類にしたがつて」(secundum genus eorum,Genesis,I,20)創造し、また「翼あるものが地表の上を天の蒼穹に沿つて飛ぶように」(volatile super terram,secundum firmamentum coeli,ibid.)意図して、それらをやはり「その類にしたがつて」創造した。そうして第六日に到つて、神は四つ足の家畜をはじめ、蛇のように地を這う動物や、地上を走る野獣を「類にしたがつて」(secundum genus,ibid.I,24)産み出し、最後に人間を神自身の「形姿・像になぞらえて、且つ自分に似たものとなるように」(ad imaginem et similitudinem,ibid.I,26)造つた、と述べられている。六日間に及んだこのような創造作用の跡を継起的な時間秩序の中での出來事と理解するならば、神は「光在れ」と語つた創造の第一日をなす「始めに」すべてを造つてしまつたというわけではないのだ、という異教的な見解を誘発させることになろう。しかしアウグスティヌスはここには「時間上の長さをもつた如何なる隔たりもない」(nulla…morarum temporalium sint intervalla,IV,32,50)ということを強調している。またアウグスティヌスは植物および人間以外の動物に関しては「類にしたがつて」(secundum genus eorum)―但しカトリック教会で聖典と定められている俗語訳ではin genere suo(各種の)となつている―行なわれたという表現があるために、「言語表現の日常的用法にしたがえば」(in usu loquendi quotidiano,III,11,17)まるで「最初に創造されたものが語られる以前に、そのような類が存在していたかのように」(III,12,18)読者を惑わせかねないということに注意しながら、今述べたものの内ではなに一つとして、「涯から涯にいたるまで力強く統括し、万物を優しくいたはるように配置している神の智慧そのものに包まれておりながら、永遠にして且つ不変なる理法・根拠(aeterna et incommutabilis ratio,ibid.)によつて活力を授けられていないようなもの」はないのだ、と語つている。

しかしながらこのような機微に触れるためには、人間の精神は「朽つべき肉体のゆえに魂に重圧があまりにもかけられて」おり、そのためにまず「被造物を肉体の感覚を通して経験し、その経験内容に人間的な弱さの範囲内で許される尺度を適用して知識を獲得してからのちに、漸くのことで、もし何らかの仕方で被造物一般の諸原因(causas)に到達することが可能であるならば、神の御言の内に根源的且つ不変的な仕方でとどまつている諸原因(causas……principaliter atque incommutabiliter manentes in Verbo Dei)の探求に向う」という迂路を辿るよりほかはない。したがつて「神に具わる不可視なものを被造物を介して理解しながら洞察しようと求める」ように制約された人間の精神にとつては、そのことが「どれほどの困難と、気の遠くなるような時間の経過」(以上IV,32,49)を必要とするかは言うまでもないのである。

これに反して、アウグスティヌスは肉体をもたず、したがつて穢れなき「天使の精神」Mens angelicaはこのことを手易くなし得るという。即ち「天使の精神は浄らかに澄切つた愛によつて神の御言に固く結びついているから(pura caritate inhaerens Verbo Dei)、天使以外のものすべてに先行するように自分を位置づけたあの秩序にしたがつて自らが創造された後に、他の被造物はそれらが創造されるよりも以前に、まづ神の御言の内で造られるべきものであることを明察した(prius ea vidit in Verbo Dei facienda,quam facta sunt:)」、したがつて物質的感性的素材と結合した「他の被造物は、それら自身の固有の本性において生ずるよりも以前に、神が『成れ!』と語つた時に、天使の認識の内ですでに生じていたのである(prius in ejus fiebant cognitione,cum Deus dicebat ut fierent,)」、と述べられている(以上ibid.)。更に彼は「神が『光在れ』と語つた時、創造されるべく定められていた被造物の理法・根拠(ratio condendae creaturae)は神の御言の内に先行していた(praecessit)のであつて、これに引続いて光そのものが生じ、その光によつて天使的精神が形造られた」と論を進めている。かくして天使という「創造された光(lux creata)は自らを創造する光(creans lux)に一身を委ねた(adhaesit)のであつて、「その際に創造された光は自らを創造する光を見ながら、その光において自らを見ている(videns illam et se in illa)のであり、そのことは取りも直さず、それに依つて自らが造られた理法・根拠(rationem qua facta est)を見ていることなのである」。しかも以上の一連の流れには「時間の上での拡がりをもつたいかなる間隔もない」(以上IV,32,50)と明言されている。 しかしながら、天使的精神の場合はさることながら、『創世記』の物語るところを書かれた文字によつて辿るならば、「万物は連結された諸原因の順序にしたがつて、個別的に区別されて」生じた形になつており、万物は決して同時に造られたのではなく、「予め定められた日日に応じて、時間上の間隔を置いて」造られたように受取れる。このように此の世の智慧の側から提起さるべき疑問を想定して、アウグスティヌスは以下のように講述を繰拡げている。神の創造の働きは「事物の自然本性的な運動に則つて、われわれが現在経験しているように」理解すべきなのではなく、「驚嘆するほかはなく、また筆舌に尽し難い智慧の力によつて」発動されたということに思いを致さなければならない。「それぞれの類に(suo cuique generi)適合しているものを完成するために、時間的な間隔を置きながら今われわれが眺めているものが、実はそれぞれに内在している理法・根拠にしたがつて(ex illis insistis rationibus)到來するように、神の智慧によつて創造されているのであつて、それらの理法・根拠を神は創造の一撃を放つに当つて(in ictu condendi)、丁度種子を蒔くような仕方で蒔き散らした(seminaliter sparsit)のである」(以上IV,33,51)と。

したがつて人間の場合も、神が万物を同時に創造した際に、それらの「同時に創造された事物の内に原因的に創造された」(in rebus simul creatis causaliter conditus,)ということになる。しかし「人間はその時には未だ固有の生を生きてはおらず、またそのような生き方をしている両親の内に在つたということもない」のであるが、「神が万物を同時に創造した、あの最初の創造において(In illa…prima conditione mundi,cum Deus omnia simul creavit,)、将來に現れて來る筈の人間(homo…qui esset futurus,)即ち創造されるべき人間の理法・根拠(ratio creandi hominis)が造られたのであつて、創造された人間の行為(actio creati)が造られたというわけではない」(以上VI,9,16)と述べられている。

このような理法・根拠の在り方には固よりさまざまな違いが認められており、今の節の直後にアウグスティヌスは先に引用したトマスの要約したような説明を行なつており(VI,10,17)、将來において「創造されるべき人間の理法・根拠」は「空気中に響く一切の音声以前」(ante omnem aeris sonum,VI,8,13)から語りかけてくる「神の御言の内に在」つて、「永遠な」ものとして在る場合であり、継起的時間の内で「創造された人間」が選択的意志によつて決定した個個の時間的な「行為」の場合はトマスのいう「第三の仕方」に相当する。

以上のように辿つてきたところでは、アウグスティヌスの『創世記逐語注解』においては、最初の創造において神の御言の内に在つた万物の理法・根拠は「永遠な」aeternaとか「不変な」incommutabilisというふうに性格づけられているが、トマスが規定したように「イデア的」idealisとは形容されていないので、この点をいかに考えるべきかが問題となる。――なお本稿ではratioという用語に対して、煩を厭わずに一貫して「理法・根拠」という訳語を当ててきたが、これは高田三郎・横山哲夫訳『神学大全』第八巻(創文社)二四七頁とその「訳者註」三五一頁に依つている。片柳栄一訳『アウグスティヌス著作集』一六(教文館)において「理拠」と訳されているのも多分「理法・根拠」を一語に縮めたのではないかと思われるが、日本語としては却つて不分明になるのではないかと考えた。 アウグスティヌスの説くところでは、神が「光在れ」と語つて開いた創造の始めにおいて、万物は「永遠且つ不変な理法・根拠」を介して神の御言の内に悉く集約されており、その有様を了了と直視しうるのは御言との内的な結びつきを保つ「天使の精神」のみであつた。このようなアウグスティヌスの所論を継承しつつ、しかもプラトンのイデア論に対する批判的態度を貫いたトマスが、アウグスティヌスの用語法にも見られなかつた「イデア的理法・根拠」という表現を工夫した意図が奈辺にあつたかは容易に窺い知ることができない。そこで『神学大全』第一部においては、もう一ヶ所ratio idealisという述語が用いられている箇所があるので、そこの論議を考察することにしたい。さてratio idealisという表現が見られるのは、自然的理性による「神のペルソナの認識について」(De divinarum personarum cognitione)という問題を取扱つている第三十二問題であつて、その第一項におけるAd primum(一について)においてである(高田三郎・山田晶訳『神学大全』第三巻一○六頁)。

トマスはまづ神のペルソナが父・子・聖霊という風に三位をなしているということの認識に人間的本性の側から到達しうるか否かに関する諸説を検討した上で、「もろもろの被造物から出発して神の認識に到達するよりほかなき」「自然的理性によつては、神のペルソナが三位をなしていること(Trinitas divinarum Personarum)の認識に到達することは不可能である」と結論を下している。信仰箇條を学知の前提としたトマスにとつては、「ペルソナの区別」は自然的理性の及び得ない神秘乃至玄義(mysterium)にとどまる。これに反して「万有の根源」(omnium entium principium)であるかぎりの神に必然的に適合するべきこと」には自然的理性による認識が及びうるとする。たとえば「神の創造的能力」というものは「三位全体に共通なこと(communis toti Trinitati)であり、したがつてそれは神の「本質の一体性」unitas essentiaeに属する事柄であるから、自然的理性を通しても認識されることになると考えた。

以上のことを明確にした上で、トマスは更に論を進め、「哲學者たちは神のペルソナの三位という玄義を、それらに固有な事柄によつて認識したのではなく、…それぞれのペルソナに固有なものとされている或る種の本質的諸属性(essentialia attributa)を認識したに過ぎない」のであつて、それは丁度「父には能力が、子には智慧が、聖霊には善意bonitasが固有のものとされるという風に」であることを示す。そしてこのような見地に立つて「新プラトン派の人人の著作のなかで『始に言verbumが在つた』といわれていても、それは言が『神の内に生まれたペルソナ』(personam genitam in divinis)を表示する限りにおいてではなく、却つて『それを通して父なる神が万物を創造したイデア的根拠』(ratio idealis,per quam Deus omnia condidit)が言verbumという語によつて了解されている限りにおいて見出されているのであり、このイデア的根拠とは御子に固有のものとされるものである」と述べている。このratio idealisという用語に対してつけられた高田・山田訳の「訳註」は「ratio idealisとは、神がそれにもとづいて万物を創造する原型として、事物の存在するに先立つて神の御言のうちに先在すると考えられた万物のイデアである」(同書三七四頁)と適確な説明を行なつている。

しかしながら「胚種的理法」と同じく「原因的理法」ratio causalisと規定されながら、万物を同時に創造した時以前の「はじめ」に発せられた「神の御言そのものの内に」、「根源的且つ起原的な仕方」で根源的な諸力が存在している場合に、なぜトマスが「イデア的」という形容をつけたのかは依然として判明にならないところが残るであろう。この点を詳細に究明することは筆者の能くするところではないが、新プラトン主義の哲学との邂逅を通して回心することを得たアウグスティヌスが飛翔する「天使の精神」によつてのみ「永遠不変な理法・根拠」を直視しうると見做したのに対して、被造的人間の側に立脚点を置いたトマスがかかる理法に接近する道をあくまでも自然的理性に求めたことと無関係ではないように思われる。
  (未完)