日常の頓悟頓修

越智 通世
『風信』第44号(2001年7月発行) pp. 7-8.(これは今年の三月に行われた発題発表をまとめたものです。)

「六祖壇経講義」はもちろんのこと、FASの理論と実践の体系として説かれた「教信行覚」においても、久松先生は頓悟頓修を強調しておられる。そして最後まで頓を説かれた。
神秀の偈
「身は是菩提樹心は明鏡台の如し。
時時に勤めて拂拭せよ。
塵埃をして惹かしむること勿れ。」に対する、
恵能の偈
「菩提本樹なし。明鏡は台に非ず。
本来無一物。何れの処にか塵埃を惹かんや」
を読むと、ハッとする。平素いくら勤めようとしても、実現できないでいる漸修的態度とは桁外れの、根源的な気づきが説かれていると感ずる。だがそれはどう成り立つか。手懸りは容易でない。

禁断の智恵の木の実を喰い、反省的思考を識った人間は、存在・非存在を含めて相対的な価値観の執われから、どうしても離脱し難い―「どうしてもいけなければどうするか」という基本的公案を負っている。ある海外のFAS方式の接心に参加したとき、老若男女数十人と質疑応答的集団相互参究する役割を与えられた。そして進むことも逃げることもできない重責の思いに耐えかねて、必死に坐を重ねた。当日の暁天坐において「無一物中無尽蔵」を味わった。空間的際限がなくなり、あとからあとから豊かな時が湧いてくるありがたさ。もう何も言うことはない…。重責にわずかなりとも応えなければならないと切羽詰まって、わが身、心の思いを放ち忘れて投げ出したところ、そこは時間、空間を超え、生死を超えてしまっている。この目覚めを忘れ去ることはない。気づけばいつでもどこでも直ちに甦える。

正念相続というが、いつでもどこでもということは物理的時間、空間における連続ではない。人間の意識は神出鬼没する。意志や記憶力で持続できるものではない。時時と頓とは矛盾しない。問題は拂拭である。私達は身心の疲労、痛苦、ぼんやり、いらいら、暴発等の妄念、妄想、貪瞋痴のとりことなる。「本来無一物」「莫妄想」といわれてもそうはいかぬ。盤珪によると、これらの妄念を拂おうとすることは、血を血で洗い落そうとするようなもので、どこまでいっても穢れは落ちない。念というものは鏡に映っては消える影のようなものだから、起るまま消えるままに取り合わず「不生の仏心」のままでおれば、その光の中に融けて跡を残すことはないというのである。それができれば苦労はないが、そうできなくてのたうち回らなければならない。

かつて先生の前で「覚など思いも及びません」と言ったら、「それは成り切ることですよ」と端的に示された。昔から坐って脚が痛ければ、「痛みとともに消え去れ」という。同様にできることは自分の貪瞋痴をごまかさず、しっかり行動も見つめてこれと取り組むことである。「どうしてもいけなければどうするか」進みもならず退きもならず切羽詰まってその苦悩の塊りとなった時、転がくる。よくもあしくも兎も角も、踏み出さずにおれない次の一歩を進めることになる。あとはその先のことである。「百尺竿頭一歩を進む」真実が展開する。分別料簡できない疑団となった時、自分と相手、物や体と心、知情意が一つに還ってはたらきでる。自己の本来の性の活動であろう。

このような妄念、妄想、貪瞋痴のとりこの状態のさなかでも、その底には失われない正念が作用している。鴉の鳴き声と犬の遠吠えを聞き間違えたり、塩と砂糖を味わい違えることはまずない。これは老若男女、身分や職業にかかわらない万人に共通の本性である。「不生の仏心」であろう。雑踏を忙しく行き交いながらぶつかりもせず、一般的秩序が保たれているのは、お互いの感覚、知覚だけでない総体的生命作用のお陰であろう。ところが平素は氷山の一角のような偏差値的能力による、損得勘定に眩惑されてあくせくし、本性を見失っている状態である。よく落ち着いて省りみれば、このような本来具足の生命作用こそが、私達のあらゆる行動の骨格ではないか。その主人公を鏡に映し出すことはできないが、自分自身で気づくことができる本当の自己である。それ自身は決まった形はないが、あらゆる形の波となって活動する、水そのもののような不動の存在である。

成り切るといえば、新生児は唇と舌と歯茎を巧みに使って、乳首から無心に吸引している。生得的勘、こつが窺える。成長とともにわれわれは後天的経験を重ねて、より複雑な勘、こつを修得する。天才芸術家は神来的技能を発揮する。これらの勘、こつ内容のレベル差は大きいが、すべて主客、知情意一体の知的直観の成り切り作業である。しかし特殊の技の勘、こつの修得だけでは、相対的価値の比較考量から執われが起る。それから離脱し自由であるためには、生きること自体の勘、こつが必要である。つまりさらには、勉強や仕事のやる気による集中、さらには生活全体の成り切りが実現する必要がある。ところが人生は障害に満ちている。置かれた環境や諸条件にはまり込みきれず、疎外感に自ら苦しむことが少なくない。しかし考えてみれば、自分の成り切れない思いとは関わりなく、そのままに現に成り切り流れているのが、世界万物の実際の相である。自分が成り切るも成り切らないもないままに、大きな現実に生かされている。有無を言えない絶対的なことである。時間、空間の区切りそのままに、それを越えて無限に拡がる世界に自分が融け込んでいる。その無限の世界そのものが自分であることに、気づくことができる。私達の行動の一つ一つも、その無限の世界の動きの一つ一つである。永遠がいまである。無限がここである。

打坐の成り切りを踏まえた西田幾多郎の純粋経験は、主客未分、物我の区別のない知情意の統一的直覚であり、それが真の自己である。勘やこつの知的直観は、純粋経験の統一作用そのものであり、生命の捕捉とされている。純粋経験は我々の意識の始めであり終りである。感覚的意識においても、反省的意識においても、我々は純粋経験の範囲を超出することはできない。それにもかかわらず、元来経験には純粋と不純粋とか、統一と不統一とかの区別があるわけでなく、厳密に論ずれば経験は悉く同一であって、かかる区別は畢竟程度の差別ということに帰するのであるとされている。つまりは成り切るとか成り切らないとかいう区別を超えた、大世界の現成を示している。経験あって個人があるのである。

日常の頓悟頓修につき、晩年の先生が端的に話してくださっている。升水達郎聞き書「久松抱石(一)(二)」[大乗禅NO899・900]である。私が受けとめ得た骨子だけを述べさせていただく。【修道の方法というものはないといえばないが、あるといえば瞬間、瞬間がみなある。いつでもどこでもそいつに直通している。現在の在り方から飛び出したところが本当のものである。坐っていて坐っているということもなければ、心に思っているということもない。寸分のへだたりもない。アプローチを要しない。…観念になったら働きが出てこない。枠から飛び出せない。…執着とか煩悩が妨げている。…とりつくしまもないところに絶対否定があり転ずる。多角形の辺を何辺増しても円ができないということがわかったら、一つの円である。まだまだ多角形の辺を描いてゆけばおさまると思っているところに近代の錯覚がある。一を多から求めてゆく方向である。どこからでも、そこから飛び出るというのは一から始まるということだ。後近代は一から始まる。一が根本である。一切はそこから始まる。…転ずる…自分に愛想がついたならば、飛び出ることができるわけです。】と。わが身に愛想が尽きるうえに、あまりにも悲惨なでき事が続く。人間というものに愛想が尽きる思いでさえある。「どうしてもいけなければどうするか」。瞬間瞬間を現在のあり方から飛び出して、一から始める頓悟頓修を心がけたい。