FASとの出会い
山田 愼二
『風信』第44号(2001年7月発行) pp. 11-13.
今年のゴールデン・ウイークに、私は三泊四日の旅に出かけました。「花園」という世にも美しい名前を持つ大学の構内の奥深く、ひっそりとたたずむ禅堂に一歩足を踏み入れたとき、私の旅は静かにはじまったのです。
「脱落しないで、最後までたどりつけるだろうか」
坐禅をはじめてまだ日の浅い私にとって、初体験する接心(別時学道)に不安感をぬぐい切れませんでした。二日目、三日目とすすむにつれて、かなり苦しい思いを味わいました。そんなとき、私の耳元に聞えてくる声がありました。
「ヤカンに水を入れて火にかけても、途中でおろすと冷めます。いったん火にかけたら、たぎるところまでかけづめにして置かねばなりません」
久松真一先生がかって別時学道にさいして語られた録音テープを私は数日前に聴いたばかりでした。私は一度も先生にお会いしたことはないのに、その声に不思議な懐かしさのようなものを感じていました。おかげで、なんとか「ヤカンをおろさないで」四日間を終えることができました。
私がFAS協会の平常道場にはじめて参加させていただいたのは、昨年の九月二十三日でした。きっかけといえば、私はしばらく前から「坐禅をしたい」としきりに思うようになっていました。そこで、本屋に出かけ「坐禅のすすめ」式のガイドブックを買ってきて、私のような一般市民が参加できる坐禅の会をさがしたわけです。
臨済宗や曹洞宗のお寺の名前がズラッと並んでいました。そのなかで、ただ一ヵ所だけ「無宗派」とあるのが目にとまりました。名称も「FAS協会」と横文字です。
「うん。これがいいな」
とっさに、そう思いました。しかも、説明文に「外国の方も歓迎します」と書いてあった。ますます気に入りました。正直なところ、私は日本の伝統仏教についてほとんど何も知りません。その無知なる程度は、まったく外国人並みといってよいほどです。だから、これは私にぴったりであると勝手にきめ込んだしだいです。
考えてみると、これはまことに奇妙なことです。坐禅をしたいと思い、それだけ仏教の世界へ向って一歩を踏み出そうとしているはずなのに、なおかつ仏教的なものを極力避けようとする。これ明らかにアンビバレンツ(両面価値的)な心理状態というほかありません。私は、このような"仏教嫌い"をふっ切るまでに、いわば長い回り道をしてきたような気がします。
自分は、いったい何をしてきたのか。
思いがけなく、それに気づくことがあります。さいきん、私は古書店でなに気なく一冊の本に手を伸ばしました。アーノルド・トインビーの「歴史の教訓」という本です。ひらいてみると、これはトインビーが来日したときの講演集でした。そのとき、私がどうして急にトインビーに興味を覚えたのか、不思議です。若い頃、深瀬基寛さんの翻訳でベストセラーになった「試練に立つ文明」をなかり熱心に読んだあとは、ライフワーク「歴史の研究」の縮冊版にサラッと目を通した程度で、長い間すっかり関心を失っていました。
「どうやら、この講演には覚えがあるぞ」
急に思い出しました。ただし書きのくだりをみると、はたして「一九五六年十月三十日、京都大学」とあります。私が入学した年です。会場は時計台下の法経教室でした。タイトルは「人類解放の諸問題」。その講演のしめくくりにあたって、トインビーはこんなことを話しています。
「人間の知性が全速力で前進するとき、もしも精神における潜在意識があまりに後方に取り残されると、人間を不幸な事態にぶつける」
また、こうも語っています。
「人間の知性は、一瞬のうちに人類解放の道程を見きわめる。人間の意志は、その全道程を一生涯のうちに踏破することを望む。他方、潜在意識は、同じ道程を歩み終えるのに、三たび生まれかわるほどの長い年月を要する」
トインビーがここで指摘しているのは、歴史を考えるとき、人間における意識的な部分と潜在する無意識との間のギャップを軽視してはならないという教訓でしょう。学生時代の私は多分「世界は明日にでもいっぺんに変るだろう」と考えていたはずです。「トインビーの考え方は悠長すぎる」と思ったに違いありません。
いま、約半世紀ぶりにあらためて、このくだりを読み直してみると、実によくわかります。歴史は、まさしくトインビーの指摘した通りの歩みをみせてきたのではないでしょうか。
例えば、ここ十年間ぐらい、わが国では誰も彼も口々に「改革」を唱えてきました。政治も、経済も、行政も、教育も。ところが、実際にはほとんど何も変わらない。つまり、日本人は意識のうえでは改革の必要性を理解しているけれど、一方で日本人の心の奥では精いっぱい抵抗してきた。
あるいは、ソ連という国が崩壊しました。あれも、ロシアの人たちが意識のうえでは特定イデオロギーによる新しい国家体制づくりをいったん肯定したけれど、ロシアの大地に深く根ざした人々の心の奥底に潜在する無意識との間にキ裂が生まれ、結局、耐え切れずに七十年で破たんした。
私は、いったい何をいいたいのでしょう。実は、そのとき、思いもかけずにハッと気づいたのです。それは、これと同じようなことが、私の内部でも起きたのではないか、ということでした。
私はこれまで二回の精神的な転機を経験したと考えています。二十歳前後と四十歳前後です。まず最初のときは、自分の生き方をめぐって試行錯誤を重ね、挫折をくり返し、やっとの思いで社会に出たとき、同級生より三年遅れていました。大人として社会生活に耐え得るだけの自我の確立に手間取ったといえます。
このように自我の確立が遅れた人間は、それからどう生きるのか。その遅れを必死でとり戻そうとあせり、徹底的に自我の強化にはげみます。そのモデルは、西洋流の近代的自我といわれるものです。いまからふり返ると、私が大学で西洋哲学を専攻し、卒論のテーマにデカルトを選んだのは、学問的関心というよりも意識せずして自分が「私とは何か」と暗中模索していた証拠のように思えます。
ともかく、近代合理主義の価値観に反すると思われるものは、意識的にどんどん切り捨てました。日本的なもの・アジア的なもの・歴史的なもの・身体的なもの・宗教的なもの。これらは、いわば「価値の低いもの」として意識から遠ざけました。それらは潜在意識のほうへ押し込められ、やがてぼう大な量となってたまったはずです。
私が転職してジャーナリストを選んだのも、このような西洋的な近代合理主義を優先させようとする私の意識にとって、まことに好都合であったと考えられます。当時、日本のジャーナリズムは、いわば戦後的啓蒙主義とでも呼べるような傾向にありました。事件報道ひとつとりあげても「欧米では、このように愚かなケースは考えられない」とか「だから、日本はダメなんだ」といった価値判断を基準にしていました。いってみれば、私は公私ともに日夜をとわず、ムリやりに意識と無意識との分裂を深めるよう、ひたすら努力していたことになります。
そして、四十歳のある夜、私は突然、心臓発作を起こして倒れます。この発病について、私はなにか私の内部で大きな地震が起きたように感じました。
地下にたまっていたマグマが爆発したように思いました。その当時、私はおこがましくも、ハイデガーのいわゆる「ハイマート・ロージッヒカイト」(故郷喪失)というキー・ワードさえ思い起こしました。私がいわば「魂のふるさと」というべきものを見失っていたのではないか、という痛切な思いがこみあげてきました。
いま私は、三度目の転機に立っていると思います。過去の二回との違いは、今回、そのことを自分で自覚しているということです。その自覚のあらわれは、なんといっても、ここではじめて「坐禅する」という具体的な行動をとったことであります。
二度目の危機をくぐり抜けたあと、今日まで約二十年間は、私にとっていわば回生の歩みであったといえるかも知れません。それまで切り捨てていたもの(日本的・アジア的・歴史的・宗教的)をあらためて一つずつ回復しようとするプロセスを重ねてきたような気がします。そして、単なる知識として学び直すことの限界にようやく気づき、まさに身をもって「学行一如」を求めて一歩を踏み出したといえるのではないでしょうか。
私にとって坐禅することは、このように個人的な必然であったといってもよいでしょう。それに加わえて、昨年秋に坐禅をはじめた頃、私はたまたま上田閑照さんの新しい著作「私とは何か」(岩波新書)を読み、坐禅することの意味についてさらに広い視野でとらえるきっかけを与えられたと思っています。
「私」という場合「自我」と「自己」の使い分けがよく問題になります。例えば、深層心理学のC・G・ユンクは我々の意識の中心を自我(Ego)と呼び、深層の無意識を含めた全体の中心を自己(Self)と呼んでいます。上田さんはここで自意識を自我(閉じた私)とし、自覚を自己(開かれた私)としたうえで、人間の姿勢との関係を問いかけます。
つまり、人類誕生の姿である直立が「自我」をあらわし、それが文明(とその危機)のはじまりとするなら、その対極にある坐禅によっていったん「無我」にかえり、再び坐から立ちあがるとき「自己」となる。そのサイクルを上田さんは「我は、我ならずして、我なり」と定式化してみせます。
「だから全人類は坐れ」とは、上田さんもいいませんが、私は「人類の一員だから坐る」という気持ちになります。「直立」にはじまる人類文明のあり方について根源から問い直し、反省する意味において、私たちは「坐る」必要があるのです。
禅の立場から現代文明を問うとき、私の目前には久松さんのポストモダンの思想が大きくクローズ・アップされてきます。あらためて説明するまでもなく、久松さんは一九七一年の段階でキッパリと「近代はすでに終った」と断定し、ポストモダニスト宣言なるものを発表されました。人類文明の危機にあたって、ノアの方舟になぞらえながら「画期的な新しい大方舟」を構想したものです。
ご存知のように「ポストモダン」という言葉は、一九八○年代の日本で大流行しました。学問、芸術から様々な社会現象にいたるまでなんでもかんでも、そう呼んで"ポストモダン症候群"という病気にでもかかったような騒ぎでした。それは、ちょうど日本経済のバブル景気の時期と重なっていました。
九十年代に入って以降、あまり耳にしなくなったと思っていたところ、二○○一年になって出版された公文俊平・元東大教授の著書「文明の進化と情報化」を読むと、こんな文章に出くわします。
「近代はまだ、いっこうに終りそうにもない。それどころか、情報革命によってますます進化し、近代文明は発展を続けてゆくだろう」
現代の技術文明を全面的に肯定する立場は、依然として、このような手放しの楽天主義によって貫かれています。いわゆるITブームに巻き込まれた日本の風潮なのです。これでは、近代の終った後に延々とまだ近代が続いていることになります。いったい、どうしたことでしょうか。
もともと「ポストモダン」という言葉は、一九七○年代にアメリカで使われはじめました。世界的な学生反乱やオイルショック、ベトナム戦争などを背景に社会全体が大きく変りつつあるという強い予感をあらわすキー・ワードとなりました。七九年にフランスの哲学者、ジャン・フランソワ=リオタールが「ポストモダンの条件」という本を書き、決定的な影響を与えました。いわゆる近代を特長づけてきた進歩主義や理想主義に対する信頼が大きく揺らいだ後の様々な社会・文化状況を描出してみせました。
日本を代表する建築家、磯崎新は当時、近代建築と対比してポストモダン建築の方法論について「分裂病的折衷主義」と名づけていたのが印象的でした。それは、近代の最終局面にあたる過渡期に特有の「なんでもあり!」の症状を示していました。この場合のポストモダンには「脱・近代」といった意味あいを読み取ることができます。この「脱」をめぐる価値判断のあいまいさが、いまなお「近代は健在だ」という一種の居直りの余地を残しているともいえそうです。
久松さんのポストモダンは、ハッキリと違います。その立場は、近代の延長線にあいまいさを残す「脱・近代」よりも、歴史を超えて歴史を創造するという意味で、むしろ「超・近代」というべき性格を帯びています。その点では、むしろ時代をさかのぼって一九四○年代に日本の論壇で問題提起された「近代の超克」というテーマに似ているかも知れません。
一九四二年(昭和一七年)に雑誌「文学界」がこのテーマを掲げて大型座談会を連載して非常に注目されました。座談会を企画して司会も担当した文芸評論家、河上徹太郎の解説文によると「明治以来、日本が模倣し、追随してきた西洋近代に対して、はじめて日本がこれを克服する」というスローガンでした。つまり、ここで「近代の超克」とはズバリ「日本が西洋を超克する」という意味にほかなりません。
このように比較したとき、久松思想の独自性と先見性がクッキリと浮かびあがってきます。それは、すでに日本とか西洋というワクを超えて全人類の立場に立つポストモダン構想ですから「世界そのものが世界を超克する」としかいいようがありません。「近代の超克」論を超えて、思想としての広がりと深まりが一段と徹底していることがわかります。
さらに重要な点は、単なるポストモダニズムではなく、あくまでもポストモダニスト宣言という「人間宣言」の形をとっていることです。歴史を超えて歴史を創造する主体としての人間の自覚を明確に打ち立てています。そのように覚めることを私たち一人ひとりに求めているわけです。
二一世紀の幕開けとなった今年は、久松さんの宣言から数えて「ポストモダン三○年」にあたります。二○世紀半ばに登場した超克論は、歴史によって乗り超えられました。世紀末を前にしたポストモダン騒動は、バブル崩壊とともにあっけなく泡と消えました。久松さんからFAS協会へ受けつがれたポストモダニストの自覚だけが、歴史への問いかけをやめていないのです。
世寿尽くも新生命によみがえりポストモダンの歴史創らむ
抱石