健康ということ

円山誓信
『風信』第40号 pp.6-7

はじめに

FASにお世話になってから一年二ヶ月ほどになりました。FASを知ったきっかけはパソコン通信でした。昨年の五月のことです。

林光院に行くようになって間もない五月末か六月はじめのことだったと記憶しています。「数学と私」というタイトルで月一回のお話しを始められた山口先生が、WHOの健康の定義の改訂のための会議に出席するので、次回はその報告をしたいとおっしゃいました。医療畑に身をおく私にとって、それはとても身近な話題でした。

この小稿は山口先生が昨年七月の例会で報告された内容に触発され、本年三月に発題としてお話しさせていただいたものが骨子となっています。

WHOと健康の定義

健康とは何かと問われれば病気ではないことという答えが返ってくることが多いのですが、病気というとき、心臓病、肝臓病、動脈硬化などの身体的な病気を指すことが多いというのは私たちが日常よく経験することです。しかし、WHOが一九四八年に発表した健康の定義を見ますと、健康をもっと広い統合的なものとしてとらえていることがわかります。WHOの健康の定義にはこう書かれています。「健康とは、身体的、心理的、社会的に完全に良好な状態をいうのであって、決して単に病気や障害のないことを意味するものではない。」

それから五〇年。WHOは今二〇年にわたる討議を経て、新しい健康の定義を提案しようとしています。それは既存の定義に「動的)」と「スピリチュアル(spiritual)」という2文字を付け加えた形をしていて、次のようになっています。「健康とは、身体的、心理的、スピリチュアル(霊的)、そして社会的に完全に良好な動的状態をいうのであって、決して単に病気や障害のないことを意味するものではない。」この新しい定義は一九九九年五月のWHO総会で提案、採決という予定になっていましたが、未だ時機到来とはいかなかったようで、議題として取り上げられはしたものの、採決までには至らなかったとのことです。

現代医学の方法

現代医学は分析的方法によって支えられています。もちろん、分析だけに満足しているわけではありません。分析によって、一つの病気なり現象なりにかかわる因子や条件を洗い出し、一定の法則を確認し、こんどはそれをコントロールする(病気を治す)方法を確立する、といった一連の作業が必要となります。医療には診断と治療という二つの領域がありますが、中でも診断という領域は、どこがおかしいのか、どうおかしいのか、それは正常なのか異常なのか、などを判断するための手順であって、きわめて分析的です。そして、こうした分析的な方法を経て初めて治療方法が確実になると考えられています。だから、現代医学では診断を非常に重視します。

異常であると診断されれば、正常に戻す処置がとられます(処置の方法があればの話ですが)。ところが、正常とか異常の意味については実のところバラバラであまり統一されたものになっていません。たとえば、「正常値」の意味として、次のようなものがあります。一、”正常群”についての平均値±2標準偏差(normal)、二、健康生活者にもっともよく見られる値(habitual)、三、自立して長生きが支障なくできる値(optional)、四、生活や寿命に明らかな支障がない(harmless)、五、専門家集団で申し合わせた値(conventional)、六、理想的な値(ideal)。病院の検査室などでは、従来から正常値として上の第一番目の考え方、つまり、正常値とは、正常者集団について得られた測定値の平均値から±2標準偏差以内、つまり、約九五%の人が含まれる範囲としてきました。こんな風に正常値を決めますと、厳密に正常人と判定した一〇〇人の集団の中からでも、五人は異常と判定されてしまうというおかしなことが起こってきます。例えば、フィンランド人を対象にコレステロールの正常範囲を決定し、その中から、マイナス2標準偏差以下の人―これは一〇〇人中で値が一番低いか二番目に低い人になりますが―を選び、日本人を対象にして作成した判定基準に当てはめますと、一番高い部類に入ってしまうのです。

これはおかしいというので、平均値によらない生物学的な病気の定義を考え、「病気とは、(生存に最適化された)種のデザインからの偏りである」と考えたらどうだという意見もあります。幽門(胃の下端部で十二指腸に連なる部分の名称)狭窄のために嘔吐の続く患者は、胃から腸への通過という、人間にとってあきらかに種のデザインの一部が機能せず(しにくく)、従って生物学的に病んでいるといえます。しかし、ここでも種のデザインからどれくらい偏れば異常と判断するのかという問題が生じてきます。

病気とは種のデザインからの偏りであるという考え方をもとに立案された医療制度も大きな見込み違いでした。国民保健サービスというイギリスの医療制度を考えたベバリッジはこう考えました。「病気というのはまったく明確な現象で、一時的にしかもそれと容易にわかる形で、健康で自然な状態から離れた状態である。だから、ペニシリンのような驚異的な薬が導入されれば、将来、病気は全体として短期間かつ軽症なものになってゆき、死ぬことも慢性病になることもごく少なくなるだろう。...たしかに最初の数年はサービスへの注文は増すだろうが、これは過去に処理されなかった、病気の膨大な積み荷だ。...この積み荷が片づいたら、あとは医療行政への注文は減るはずである。」しかし、この予測は見事にはずれました。このサービスにかかる経費は一九五一年から七五年の二四年ほどの間に三倍に膨れ上がってしまったからです。デンマークでも同じことが起こりました。アメリカでも同じ指摘がされています。医療制度が充実されればされるほど、安静や寝ているだけで治ってしまうような軽い症状でもみんなが医者に行くようになり医療費が増してしまうのです。アメリカのある論文はこれをParadox of Healthと呼んでいます。

あるモデルなり概念を採用するとき、(それを意識するとしないとにかかわらず)そこにはその最終到達点あるいは目的があります。種のデザインの最終目的を考えてみますと、個体の保存と種の保存しかないというのが一般的な見解です。今では、かっては手の施しようのなかった人々の生存が可能になり、また高度の障害を持ちながら生活していくことが可能な世の中になりました。種のデザインに最適化されていなくても十分生活が可能ですし、また、そういう人たちの生き様を通じて逆に身体的健康人が生きる意味を発見する機会も増えてきています。健康の持つ意味合いは、医学が当初考えていた以上に大きく広がっていると思います。

新しい健康の定義

現代医学は科学の分析的手法を武器に生体や病気の仕組みを次々と明らかにしてきました。そのおかげで私たちは多大の恩恵を受けているのは紛れもない事実です。しかし、その一方で、生物学的病気観と一般市民の健康観との間に次第にギャップが広がり、市民の間から医療に対する不満が続出するようになりました。インフォーム・ドコンセント、患者の人権宣言、死ぬ権利など、医療に向けられた要求が医療の外から届きはじめ、それが医療の伝統的価値観と対立衝突しはじめました。何のための医療かということがもっと高次な意味で問われ始めています。

WHOは健康の意味を身体的、心理的、社会的領域へと拡大しました。それから五〇年、今、WHOは既存の定義にスピリチュアルという言葉を付加することによって、自らその定義を拡大しようとしています。スピリチュアルの意味をめぐってはまだまだ議論の余地があるところですが、私はこのことによって健康の意味が質的に大きく変わると考えています。というのも、これまでの健康の定義では生き甲斐や自己実現を可能にする場の確保ないしは場の拡大を志向していたのに対して、スピリチュアルという領域が加わることによって、自分はいかなる存在であるか(西田)、何のために生きているのかという問い―つまり、我と世界との関係を明らかにすることと無関係でなくなると思われるからです。そして、まさにここにFASの活躍が期待される場があると思います。