冬の別時に参加して

志田洋子
『風信』第39号 p.15.


30年ほどの勤務を辞め、ようやく自分のやりたいこと、やるべきことに専心できるようになりました。私のやるべきこと、それは久松禅だと思っています。大学時代に何度か別時学道に参加し、方向はしっかりつかんだと思っています。久松先生にお会いした折りに言われたように、新潟での師のもとで機会あるごとに坐禅をし、提綱を聞いてきました。平成9年12月の別時の時、常盤先生が「禅と民主主義」という題で久松先生の「大衆禅」の考え方を提綱してくださいましたが、「大衆禅」こそ個人の悩みを解決し、これからの世界に生きて働ける最高の宗教だと確信しています。

平成9年、10年と12月の別時に参加させていただきましたが、昔日の隆盛はなく、寂しいと思いました。しかし、指導者を失ったのだから、それは当然のことだろうと思います。たとえ5人でも10人でも集まる人がいるだけで幸いなのだろうと思います。ただ徹底して坐禅をする人が少ないことは残念でなりません。少なくとも禅に志す人にとって最も重要なのは坐禅だと思います。徹底的に坐禅をやり、機会あるごとに参究して、自己の境涯現状を明確に把握しなければいけないと思います。しかし、参究するためには鏡が必要です。鏡となり得る人は真如そのもの、本当の自己に目覚めた人でしょう。久松先生はまさにそういう人でした。久松先生がおられない今は、久松先生の著書を読むことによって、自分の坐禅が本物かどうかを確かめていくより仕方ないかと思っています。21日(最終日)に行われた相互参究で皆さんの思いが少し分かったように思いました。言葉にできることは徹底的に言葉にする、どんな人の疑問にも答え得る言葉、哲学と言えばいいでしょうか、それを持っているのがFASだと思います。相互参究という形で自分の考えをさらけ出し、人の言葉を素直に自分を反省する糧とするなら、相互参究も有効な方法かと思いました。この時の相互参究で図示された有相の自己、無相の自己というようなことは『起信の課題』〔「著作集」第9巻〕を読むと非常に明確になるように思いました。私も帰ってから繰り返し読んでみております。いずれにしても、同じ目的を持つ同志がいるということは非常に心強いことです。自分も含めて一人でも多くの人が、本当の自己に目覚め得るように力を尽くしていきましょう。