(二)これらの人間了解の根底にはいつも時間性あるいは無意味と死という危機に臨んでいるという限定がある。時間的に生成する人間の業は無に帰着する。人間の時は死においていわば完成し終局するが、死の不安の乗り越えとしてエロース(バタイユ)が人と物への親密なかかわりとして見出されて来たことは人間存在の本質と思われる。しかし、死は人の時の消滅であり未来が絶たれることである。また他者との共存において親和関係や利害関係がつくりなされる人間的な世界からの撤退であり、他者との断絶である。この様な無意味と死の克服は何らかの「永遠なるもの」あるいは「超越」を見出すことにおいてなされねばならないであろう。そこにおいて始めて真の私と他者或いは死者との共同が何であるかが自覚されるであろう。
(三)その「永遠なるもの」あるいは「超越」は内在的に見出されるべきである。外に仮構の物語を作り成してはならない。例えば、ティリッヒは<神を越える神>対象化された神の否定に根ざす存在への勇気を見出している。久松は<超越の現在>=<覚>から時と死の克服を示し、生滅変化の無常な存在を積極的肯定的に転じる道を開示した。
久松はその人間像の原型を(i)生活体系としての茶道に見出している。美と倫理の結びついた人間の根源的な行為の源泉として、解脱即自由なる生命の能動性が見出されている。
その他には、(ii)変化を含みつつ同じものが繰り返されるパッサカリアの音楽様式にもその原型が見られる。また、(iii)日本文芸の連歌にも非連続の連続としての根源的な在り方が表現されている。
掲載日:1998-12-11