進め方につき米田さんと相談した。幸いに昭和48年の提綱の録音がカセットに整理されてある。その一語、一語の肚の底から話しかけられるお声を聴きながら、区切って論究したかった。だが時間的制約に執われて、「一無位の真人有り」の前半の須弥壇や赤肉団上に無位の真人についての部分は通読で済ませ、後半のみテープを聴くことになった。(一無位の真人はFASの形無き自己である)として、臨済が「未だ証拠せざる者は看よ看よ」とせまるぎりぎり究極の説法と同様に、先生が別時学道の座にあって聴法する会員に、噛んで含めるように「己に迷って物を追う」見当違いを説かれ、(今、ここで座布団上にある我々自身が無位の真人であり、それを証拠することが学道の始めであり、終りである。・・・・人は遠いむつかしいというが、時間的、空間的な距離はない。・・・・仏のほかに自己はなく、自己のほかに仏はない・・・・。)と説かれたところを聴き論究に入った。以下はあとからの確かめも含めて、私が受けとめ得た主な意見の趣旨に過ぎない。誠に勝手なもので申し訳ないが、ご参考までに列挙させていただく。
・この僧を頓馬な奴と見、臨済と一緒に「什麼〔なん〕の乾屎蹶〔かんしけつ、乾いた棒状の糞〕」と言いたくなるようなら、それはたいへんな陥穴にはまることになる。臨済みの言葉で言えば、「心法は形無くして十方に通貫す」というときの「心」がこの僧、「法」が無位の真人なのだ。無位の真人を乾屎蹶に化しているのが普通の人間のあり方であり、それと別に真人があるのでは