「忘れねばこそ思い出さず候」

越智通世

『風信』第37号 (1998年7月)pp.7-8.
坐の爽やかな落着きを生活や仕事に貫きたい。だがある意識状態を意志や記憶により、時間、空間的に連続させようとしても無理である。人間の普通の意識は時間的に断続する。正念は活き活きした形無き自己である。それは死して蘇り、時間、空間以前のところから、時間、空間的歴史世界に働く。その相続は普通の意識が所依している下意識において、意識の断続を超えた不断であるといわれる(唯識教学を噛りたい)

「忘れねばこそ思い出さず候」とは、俳句の道に精進して七十三年の起伏の生涯を貫いた、加賀の千代女の正念相続の吐露であろう。われわれも呼吸を忘れはしないし、思い出すというものでもない。それは彼女の心身が天地自然の事物の息吹と、ひとつらなりである覚悟の歩みであろう。

・百なりやつるひと筋の心より(永平寺にて。二十三才)

・月も見て我はこの世をかしくかな(辞世)

そして「千代能がいただく桶の底抜けて、水たまらねば月も宿らず」の詠がある。

桶の底が抜けるというのは、大悟徹底の表現とされている。長年坐ってきても私はそのような味わいに遠い。平常道場でそう洩らしたら、「人のことより自分自身のいまここではないか」と警しめられた。(痛い、「当体便ち是」桶の底の抜け加減を思うなど他所事みたいである)そして久松真一『東洋的無』の中の「宗教的批判の根本義」における、生命の非対象性につき示唆された。曰く「肉体的、生理学的人間の外に人間がないと思っている人々には、人間は覚せられないでいる。生命は対象化せられるものではない。・・・対象化されない人間ということと、生命とは同じ事柄を異なった言い表わし方に過ぎない」等と。この肉体が死ねばやはりすべてがなくなるではないかという思いが、なお残っていた。抱石は示寂三年前(八十七才)にお訪ねした時も「私は死なないつもりです。世寿が尽きても本寿がありますから。未来があるから若い」と言われて活溌溌地であった。十八年経っても、一日として抱石やFASを思わぬ日はない。本寿とは何か。同論文には大死につき「生命の死ではない。生死からの死である」と述べられている。生死が無ければ不生不滅である。覚悟ははっきりしているか。

日常生活の工夫において、『伝心法要』の「見聞覚知に於いて念を動ずること莫れ・・・即せず離せず・・・」が、もうひとつはっきりしなかった。そこを盤珪禅師の法語により啓かれた。私の理解で述べれば(われわれはとくに意識していなくても、鳥の啼き声、犬の吠える声を聞き分け、塩と砂糖を味わい違えることもない。これは老若男女、身分、職業等の違いにかかわりのない、万人に具わった本性である。−−それを不生の仏心という)と。つまり正念は見聞覚知(五感−−感情、意志、認識、判断もともなう)を不断に離れない。そして(われわれは朝から晩までこの一念不生の仏心で働いていることを知らず、すべて分別料簡で働いていると錯覚して時々物々に迷いをおこす)と。いかに科学技術や組織化、情報化が進んでも、万人具足の本性の見聞覚知の基盤なしには、すべては成立しない。氷山の一角に過ぎないような偏差値的能力の錯覚的重視が、今日の社会の混乱の相をもたらしている。さらに(その迷いの根源は我が身の贔屓にある。それらの妄念妄想は本来の本性に全く無かったものが、生長とともに染みついた気癖より起る。妄念を念慮で払おうとするのは、血を血で洗い落とそうとするようなものだ。それらは鏡に映る像のように根のないものだから、とりあわずに不生の仏心のままでおれば、その光の中に融けて跡を残すことはない)と。つまり見聞覚知に即せずである。『普勧坐禅儀』の「・・・心意識の運転を停め念想観の測量を止めて・・・」の意味が改めて思い合わされる。そして「平生不生の仏心決定して居る人は、寝れば仏心で寝、起きれば仏心で起き、行けば仏心で行き、坐すれば仏心で坐し、立てば仏心で立ち、住せば仏心で住し、睡れば仏心で睡り、覚れば仏心で覚め、語れば仏心で語り、黙すれば仏心で黙し、飯喫すれば仏心で喫し、茶喫すれば仏心で喫し、衣著れば仏心で著、脚洗えば仏心で洗い、一切事中、常住仏心で居て、片時も仏心にあらずと云う事なし。事事物物、縁に随い運に任せて、七通八達す。只悪き事はなさず。善き事はなす。然れども善根にほこりて貪着し、悪ことを憎み嫌わねば仏心にそむく也。仏心は善にもをらず、悪にもをらじ、善悪を超て働く也。」と。仏心決定とは私においては、これらの道理を納得信頼し、必ず実現しようと覚悟していることである。気づいたことは、行住坐臥の中で不生の仏心を貫くのではなく、不生の仏心で行住坐臥するのである。頓悟頓修である。頓は無時間である。ここに随縁、任運の自在と、真の道徳心の発動がある。

正念相続は虚空のような形無き大生命の活動である。FASの向上向下一体の頓悟頓修にほかならない。自分はほんとうにこれでよいのか。自らのあり方に耐えられるのか。「どうしてもいけなければどうするか」。自分の問題は身内、知友、社会、世界、宇宙の問題につらなっている。宇宙、世界、社会、知友、身内の問題は自分の問題である。「どうしてもいけなければどうするか」。問い詰める極みに答は啓かれる。答は問いを孕む。自分は何ができるか。無理会のところに向って歩み来り、歩み去るほかない。始めが終わりだり、終わりが始めである。

(1998年3月14日 平常道場における発題のまとめ)


掲載日:1998-8-14