カトリック神学者アンドレ・フォーティエー氏へのインタビュー

江尻祥晃
『風信』36号(1997.7)pp. 5-8


FAS春の別時に今回初めて参加されたアンドレ・フォーティエー氏(カナダ)に摂心3日目の夕方、インタビューを試みた。もちろん英語のできない私は、FAS会員で花園大学に勤務するジェフ・ショウワさんに通訳をお願いした。ジェフさんは快くお引き受けくださった。はじめ私はアンドレ・フォーティエー氏がカトリックの神学者だと聞いて、東西霊性交流に関係したお仕事をしておられる方なのだと勘違いしていた。カトリック教会の命を受けて世界の異なる宗教についての見聞を広めている(情報収集している)方なのだと思っていた。よって私の質問は全く的外れなものとなってしまった。しかし、それにもかかわらず、アンドレ・フォーティエー氏から興味深い事柄を数多く聞くことができたことは幸いである。今回私のトンマな質問には目をつぶっていただき、真摯に他の宗教との霊性的な対話・出会いをしてこられたアンドレ・フォーティエー氏の言葉を味わってもらいたい。

【A:アンドレ、J:ジェフ、E:江尻】

A:私はいわゆる在俗です。神父ではありません。事実、来年結婚する予定です。ひょっとすると12人の子持ちになるかもしれません。
1965年、その少し前からカトリックでは在俗者の運動、在俗者グループが盛んになりました。カトリックの歴史を語る場合、6世紀のカトリックについては僧侶が、また12世紀なら修道院が中心となります。しかし、これから200年後には今の時代を歴史的に記述する場合に、在俗者の霊性など、在俗の人々について多くを語ることになるでしょう。

E:在俗者の運動とは?

J:1965年カトリック教会はそれを注目すべきことと思ったんです。要するに修道院でいろんな問題が出てきて、本当に続くかどうか真剣な問題がありまして。神父がやめる訳ですね。次の世代に続くかどうかという、それで1つの解決方法というのかなあ、在俗者の運動を大事にすること。歴史的に研究しますと今のカトリック教の在俗運動が一番大事。6世紀、12世紀は修道院ばっかりで在俗者の話は何もありません。

A:大学(ローマ)での勉強は哲学とその後神学をやり、学士を取ってから専門を選びます。教会の教父や道徳、教義学など多くの分野がありますが、その中に霊性というのがあります。これは、経験、神の神秘的体験、あるいは解放といってもよいものですが、異なる宗教にみられるそうした霊性を研究するもので、私はこれを専攻し、学位を取りました。これまで2年間モーリシャス(アフリカ)とインドに滞在し、ヒンズー教、仏教、イスラム教の人々といっしょに生活し、話を聞き、一緒にお茶を飲むことをしてきましたが、帰国後は大学の教員となります。州立、国立の大学には、数学や天文物理などの学部のほかに宗教学、神学、哲学の学部もあり、そこで在俗者として異なる宗教の霊性について教えるのです。

J:大学を終えてから1年間アフリカ、そして一年間インドで、研究じゃなくて実際にヒンズー教の人々、イスラムの人々の中に入って、朝から晩まで仕事して生活する訳ですね。本当の実際的な面ですね。

E:つまり自分がカトリックであるから、カトリックの生活をそのままもって行くんじゃなくて、、、。

J:伝道活動とかそういうことじゃなくて、できるだけその現地の人と同じような生活をする。それが終わって今ちょうどカナダへ帰るところです。日本が最後ですね。

E:ローマの大学を卒業して博士号を取って、アフリカやインドを回り、カナダへ帰りカナダの大学で教えるということは初めから決まっていたコースなんですか。

A:私にとっては直線的なコースでした。こうした経験を積み、カナダに帰ってそれをカナダの人々と分かち合うということは大変重要なことです。

E:いろんな国で体験したことをローマの大学やカトリック教会に報告するんですか。
*この質問は「ローマで学んだことをカナダで、、、」の意味となって伝わった。

A:特に大学で霊性の講義をする場合には、霊性は教えることができないものだという話をします。たしかに大学での勉強は重要だったし、基礎的な学問など多くを学びましたが、それはつねに個人的な経験がつねに元になっていたのです。

E:それは分かるんですけど、大学側やカトリック教会側が、いろんな国へ行って霊性的なものをつぶさに見てきなさい、そして見てきたものをこちらに返しなさいと、命令というか、それは東西霊性交流の一環として、第二バチカン公会議でそういうものがあった。それを受けて1つの試みとしてやっているのではないですか。カトリック側に報告する義務はないのですか。

A:それは違います。大学で霊性を学んだのは個人的な経験、神との関係とも言えるものがあったためです。しかし、周りの人の話を聞くうちに、そうした体験が間違っている場合があるということを聞き、それで大学で勉強しようと思ったのです。そして他の修道院の方式で自分の経験を研究してみようと思ったのです。そして今私が行っていること、これを私は「対話における信仰」と呼んでいます。私はキリスト者としての信仰をもっており、自分の宗教伝統の中にあらゆるものがあると思っています。それは実際あふれんばかりです。充実感、安心そして価値観など。そしてそこから自分のアイデンティティを失うことなく、外に出て他者に心を開き、生きた神秘の喜びを分かちあい、他の人々の話を聞き、その経験を分かちあう。そのことは自分自身の宗教をさらに照らしだし、さらに豊かなものにしてくれました。しかも、こうしたことは自分のアイデンティティを失わずして行えるのです。

E:自分の自由意志でなさった訳ですね。大学やカトリック側から言われてのことではない。

J:神父だったらそういう命令はよくあります。例えばイエズス会は非常に厳しいですね。しかし彼の場合は違います。神父でもないしね。

E:カトリックの信仰はもう確固としているんですか。

J:そうです。彼にとってはもうそれでいいんです。しかし、非常に大事なことは他の宗教も同じような体験があるはずですから、交流してお互いに自分の宗教を深めるんですね。深まる。それが今の活動です。

E:東西霊性交流については非常にお詳しい訳ですか。

A:ベルギーの僧侶で、宗教間対話の指導者の1人が禅堂に1年間入ったということは知っています。またトマス・マーティンについても知っています。宗教間対話専門部門の存在も知っていますが、これまでは2年間も本国から、自分の宗教的伝統から離れていたものですから…。これからカナダに帰ればそういうことももっとよく分かるでしょう。帰国後はトラピスト会の修道院に行き、そこで分かち合いをする予定です。なお、トマス・マーティンもトラピスト会士です。

J:トーマス・マーティンというトラピストの修道士、アメリカ人ですが、割と有名で、鈴木大拙との対話もありまあす。彼の話は昔から聞いたり、読んだりしたそうです。

E:霊性交流というのはもう長いですね。第1回が1979年。それから4年ごとにやっている訳ですが。

J:まあ日本以外ではあまり知られていないかもしれない。日本とヨーロッパぐらい、、、。

A:カトリックの中にそうしたさまざまな活動があることは知っていましたが、私は自分なりの方法を選んだのです。そうした交流に参加した場合には、いつもキリスト教と接触し、キリスト教とともに生きることになります。そうではなく、私はインドに行きたかったのです。インド人ばかりの中での生活です。ただ、カナダに帰ったらそうした交流についても勉強し、協力したいと思います。

J:霊性交流というのは、例えばトラピストの修道士がコミュニティーからしばらく離れて2週間禅堂にいて、それで戻って行く訳ですね。それは彼の立場とは違う。彼は神父じゃないからもっと自由があります。

E:私があらかじめ考えてきた質問は、アンドレさんのお立場がよく分からなかったものですから、東西霊性交流においてカトリック側の人達は何を求めているのか。結局、東洋の瞑想法、禅だけに限らずヨガとか、いろんなものがありますけれども、東洋の瞑想法をカトリックの修行の中に取り入れようと思って交流しているのか、それとももっと本質的な、方法論以上のものを求めているのかということでした。しかし、お立場からするとこのことはわかりませんよね。

A:仏教、あるいはダンマについて言えば、それは自分のためではなく、他の人達のためなのです。カナダでも仏教やスーフィズム、ヒンドゥー、ヨーガなど、いろいろな本が読まれています。しかし、なかにはその教えの一部だけしか見ない人がいます。仏教なら例えばヴィパサナ(観法)だけをやる。しかしそれはサマディ(三昧)、ダンマ(法)のほんの一部にすぎないのです。人間的価値観などは無視してしまうのです。こうした人々は自分自身を蒙昧にしている。あるいは他人によって蒙昧にさせられているのです。キリスト者の私が何かを話す場合、他の宗教を実地に経験していなかったら、その資格がないことになります。これまで大乗仏教についても、スリランカの上座部仏教についても現地で真剣に学び、私はブッタの教えの全体をつかみました。ですから、カナダで仏教などについて人が話をする場合、それはそれで結構なことですが、ではその人はどの仏教について話しているのでしょうか、またダンマ全体に従う覚悟があるのでしょうか。ところでこのダンマのすべてを私はあますところなく福音書に見出すのです。ですから、さまざまな宗教伝統を見ていくと、そのいずれもが、無限なもの、解放あるいは解脱といってもいいですが、その無限との関係について同じことを言っていることが分かります。私の場合は、私自身の伝統の中にそのすべてを見出すのです。私は瞑想の技法を模索しているのでもありません。すべてがすでに自分の伝統の中にあるからです。それでよいのです。しかし異なる宗教について話をする場合、例えば仏教なら、ダライラマの答え、鈴木大拙の答えをカナダの人々に伝える場合に、それをできるだけ正確に伝えたいのです。このように、他者のためにというのがさまざまな宗教を見てきた理由の1つです。

E:私自身の問題を解決するためにということではない訳ですね。私自身の問題はすでに解決している。

A:もちろんです。まず他者のためにということがありますが、もう1つの理由は、知的な対話でなく、ヒンズーとともに経験し、スーフィーとともに踊り、禅とともに坐禅し、スリランカで修行する。こうしたことによって「太陽があらゆる人の上に輝いている」事実の証人となるということがあります。本からの知識でなく、この実際の証人となるためにいろいろなところをまわってきた訳です。多くの場所で、ここだけが解放の場所だということを言われましたが、私は異なる場所を訪ねた結果、太陽はあらゆる人の上に輝いていることを証言できるのです。スーフィでは壁の前に坐れといってもだめです。スーフィにも瞑想はあります。しかし禅とは違う瞑想です。

E:すべての宗教に解脱があると言われますが、それであれば、禅における解脱といろんな宗教における解脱、もちろんカトリックにおける解脱、これはみんな同じと言っていいわけですか。

A:すべての宗教伝統の違いを尊重することが非常に大事だと思います。誰でも自分の道を真剣に行えば、そこに解放に必要なすべてが揃っていると私は確信しています。すべての宗教が同じとは言いません。違いを尊重し、対話の中で適切な問いを投げかけること。差異について聞くのではなく、まず正しい扉、良い扉を開くことです。適切な扉を選び、いい質問をして、分かちあう、そして差異については尊重する。この対話の中にはそういう沈黙すべき場所があると思います。私はイスラムの人が「自分にとってアッラーが神だ」と言った場合、それを非常に尊重します。しかし、イスラム教徒でアッラーと預言者マホメットが最後のものであると言った人がいます。その人にとってはキリストは神ではありませんから。しかし、こうした対話では、キリストを神とする私の信仰も尊重されるべきなのです。そういう話でなく別の話をすればよいのです。ひとつ例を挙げましょう。インドで著名な博士を訪ねたことがあります。ある宗教に熱心な信仰をもつ比較宗教学の研究者でしたが、話をするうちにキリストがこう言った、○○はこう言った、XXはこうだというようなことをおっしゃるので、私は申しました。「そういう比較宗教論はやめましょう。そういうことはもちろん大事でしょうが、私が行っている宗教間の対話では、先生の信じる神が先生とどんな対話をなさっているのかに興味があるのです。ですから、どうか先生の宗教の聖典の美しさを示して下さい。そういう対話を示してください。そういう対話こそがしたい。先生のそういう言葉を伺うためにここに参りました。私の心はですって?私は神を求めているのです」と。そうすると、その先生はすてきな微笑みを浮かべました。しかし、”神の人”というよりは、”宗教に捕らわれた人”だったのでしょう。あまり話が弾みませんでした。

E:どうも今日はありがとうございました。 掲載:1997-7-6