道場の問題を考える

大籔利男

『風信』第36号 pp.2-5.


ここ十数年間、私はFAS協会が開催してきた平常道場や別時学道にできうる限りの参加をしてきました。

何がそうさせたのかと問われれば、私自身の問題を解明したいということ…、そんなこともあったでしょう。しかし、現在の気持ちを正直に言えば、そうせざるを得ない何かがあって、そこに素直に従順することが私にとって楽だから、あるいは、なんとなく落ちつけるからと、言った方が的確だろうと思います。

道場で得てきたもの、それは私にとつて、とても大きなものでありました。平凡に今を明るく生きていること、このことは、実は道場が育んでくれたものと言ってもよいと思っています。もし私が道場との関わりを持たなかったならば、よほど違った生き方をしていたかもしれません。その生き方は、世俗的に一見幸せそうなものであったとしても、そこは、どこまでも満たされない焦燥と、しのびよる不安に常におびえた、暗い人生を歩んでいたであろうことは容易に想像できます。

道場の存在はこのように、私にとりましては貴重なものでありました。しかしながら、現実の道場を見ましたとき、FASを標榜する協会の道場としては、あまりにも淋しいという思いがしてならないのであります。何がそうさせたのでしょうか。

FASの思想そのものに問題があるとは決して思えません。混迷の度を深め、あらゆる面で根拠とすべきものを見失っている現代、FASは現実世界に向かって応えねばならない使命があると思うのです。

私は道場の紹隆が実現しない理由の一つとして、道場運営上の問題があると思っています。すなわち道場が社会のトレンドや個々人のニーズを無視し、求める人の立場に立って真剣に応えようとしていない結果だと思っています。

そこでこの問題を私なりに、考えてみようと思います。具体的な解決策がすぐ出るようなものでないかも知れませんが、何らかの手がかりを確認するための参考意見として見ていただければ幸いです。そしてご意見、ご批判をいただければ幸いです。

一つの問題は、世間の多くの人が禅を誤解していることだと、私は思います。特に若者たちほどこの傾向は強いでしょう。

禅といったとき、一般の人が描くイメージは何でしょうか。まず苦行であり、警策や叱責に始まる軍隊式強制でありましょう。また、無念無想、禅問答といった、理解しがたいナンセンスなことを言う特殊な集団、ストイックで自虐的な宗教集団と見ているのではないでしょうか。

これらはいわば僧堂のイメージでありますが、僧堂の二番煎じをやろうとしてきた我々道場のイメージでもありましょう。といいましても、私は大衆にこびた道場の必要をいうのではありません。少なくとも求める人の立場で物事を考えない、独りよがりな道場であってはならない、と思っているのです。

坐禅とは、特定の人たちがおこなう特殊なものという考えをまず払拭しなければならないと思うのです。誰もが自然に気楽に行う、一般人の当たり前のものに坐禅を取り戻す必要がある、と私は思っているのです。

別時学道〔接心〕で、よくお世話になる花園大学の禅堂の入り口にポスターが貼ってあります。そこには結跏趺坐をする人の図に添えて「坐禅…仏心をとらえるポーズ」とあります。私はこの言葉は大変に的を得たものだと思います。人類は長い歴史の中で、坐禅という姿勢を必然的に体得し伝えてきました。私たちが歩く、寝ると同じように、坐るも人間の生理的な基本姿勢であるはずです。

坐禅が苦行になってはならない。勿論、がまん大会や見せる坐禅であってはならないのです。坐禅は自身の究極のもの、本来の自己をとらえる優れたポーズであり、誰もが安楽の法門といえる、そういう坐禅をみんながすべきなのだ、と私は思うのです。

二つ目の問題は、実際に坐禅を続ける人は少ないということです。

せっかく坐禅を始められても継続される人はそんなに多くはありません。この問題は、実は本質的な問題であって、簡単に結論を出せるようなものではありません。これは道場のみの問題ではなく、現代という時代背景の中で、個人や社会の現実問題を反映しているともいえます。

少なくともはっきりしている事は、坐禅は他から押しつけられてやるようなものではなく、まったく各個々人の問題でしかないということです。道場が出来ることは各人の求道心を助長し、深める体制をどう作り上げるか、ということでしかないでありましょう。

続かない理由はいろいろあるでしょう。例えば、次のような声を聞きます。道場に参加する余裕がない。現状の道場では満足できない。自分は自分でやっている。精一杯自分は坐ってきたがラチがあかない。坐禅に失望した。自分には坐禅以外にやることがある。坐禅だけが修行ではない…等々です。私はどれもがもっともだと思います。また、ある正しさを持っているとも思います。

学道道場の綱領は「絶対の大道を学究行取する」と言います。私たちは、いかに知的に学究をしたところで、それだけでは満足し得ないものであるという前提に立って、絶対の大道を自得する、身心でうなずいていくための行取の大切さを言っています。そして行取の修行形態として、我々は坐禅を取り入れているのだと思います。

一方でまた、私はよく修行は「坐禅しかない」というような言い方をする坐禅人の話を聞くことがあります。この話は、私には理解できません。坐禅は優れた修行形態の一つであることは判ります。しかし、坐禅に関係なくとも、坐禅人以上に禅の精神をものにした真人がおられることも事実でありましょう。

久松先生が大衆禅、FASを言われた意味、現実社会を生き、求道する意味をよくよく考えねばならないと思います。また、先生は「今日の時代にふさわしい禅の方法が工夫されなければならない」と言っておられます。道場の問題は、工夫の方策が未だ具体的に見えていない、打ち出せていない、と言うことでありましょう。ここではこれ以上にふれる余裕がありませんが、私たちにとって重要な問題であり、本気になって考えねばならないと思います。

しかし、結局のところ、行取の問題は、修行形態はいかなるものにせよ、各人が「自分が自分で肯う」ところまでやり切る以外に方法はない、ということ。また「一生修行」というところに落ち着く以外、私たちは安心し得ないものとしてあること。これはまた、どこまでもはっきりとしていることでありましょう。

三つ目は、相互参究や論究に関する問題です。

私は人間が宗教を考えざるを得ないのは、苦悩の問題だと思います。それも個々人がこの現実社会を生きる中で背負う全く具体的な苦悩、例えば職場や家庭や学校で、その人が背負っている固有の問題です。私たちは「思うようになりたい」という欲求の中で、なかなか「思うようにはなり得ない」現実を苦悩するのであります。

私は宗教はここから入るのが本当だと思います。宗教的欲求が抽象的で腹に応えたものでなく、ただ表面的な興味からでは、本当に自分自身の宗教にならないと思います。

道場は、現実を生きる人間、苦悩する人間の立場に立って「共に悩む」というところから、始まらなければならないと思います。そこに真の相互参究が成立してくるのだと思います。

ただ単に一方的な向こうからの話や悟りの理屈を説くだけではなくして、現実に悩む人間の立場から、真実の世界が生々しく語られなければならない。本当の相互参究や論究とは、この部分との橋渡しが何らかの意味でなされていることだと思います。

私たちは現実の苦悩を背負わざるを得ない。また、背負いきって行くとき、それだけではすまされないところに行きあたる。そこは人間そのもの、誰もが背負う根源的苦悩の問題でしょう。

この人間の根源的苦悩「どうしてもいけない」という壁に、自らの力でぶちあたったとき、そこで始めて、本当の意味での現実の苦悩の解決策が見えてくる。現実の悩みは悩みとして、素直にその悩みをも受け入れ、越えていく地平がそこに広がっていると思うのであります。

私たちは誰もが「これこそが自分」という思いを持ち、これ以外に自分を認めません。この自分をいかに社会に押し出し、有利を保つかというエゴ意識の中を生き、生かされています。エゴ意識は自他を分断します。そして、合理と理性の根拠をここにおきます。現実社会を支配するのはこの世界であり、迷いと不安と虚勢のはびこる世界であります。

しかし、私たちはその裏側で、合理と理性では割り切ることのできないものに常に出合っています。たとえば、他人の痛みが我がことのようにわかり、他人の苦しみを見捨ててはおけないという素直な心を持って生きています。この同情と共感と共苦も生命の事実でありましょう。

私たちはこの矛盾、この不可思議な矛盾を、意識するしないにかかわらず、どこかの深みでとまどい、悩むのであります。人間の根本的苦悩はここにあるのだと、私は思います。人間の宗教の必要性はここから発するのだと思います。

私は簡単に「他人の苦しみがわかる」「共に悩む」と言いました。しかし、ここでもう一つ、私たちは往々にして、目を背け、見過ごしてしまうものがあります。それは、他人の苦しみを見て、喜んでいる自分があり、他人の幸福を見て、ねたんでいる自分があるという、この私の事実であります。ここを見つめきる覚悟がない限り、真実の人間の根本構造、本当の私の所在はどこまで行っても見えてこない。このこともはっきりしていると思うのです。