そのためには道場内部の充実が先ず第一条件であるが、アムステルダム〔オランダ、ティルテンベルヒ接心を指す〕における年一度の相互参究も第一回、第二回と盛会に行われ来年度第三回のFASからの参加人員もすでに決定した現状である。〔国際交流基金より3名の参加費が支給される〕
科学の方にも人材を得、宗教、哲学、美学、文学の面も夫々充実を覚えそめ、基礎としての宗教的な面にも、歴史形成としての文化の面にもやや充実を覚えて来ている現在である。
雑誌の題名は編集の行われる理事会で決定されることになっているが、候補としては「自在」が現在ではもっとも有力である。英語名はその場合、Self-Abidingに落着いている。年一回か、二回かは理事会で決定されるが、編集委員は理事会全員であり、各方面の原稿は夫々その専門の人達に当って頂き、決定は理事会で行うという事になっている。十分考えられた原稿による充実した雑誌というのがこれまでの経験を生かした此度の編集方針である。原稿の枚数も制限しないで長いものは二回、三回に分けて掲載することになっている。単に学問を中心とする会ではないが、その面はその面で充実すべきものと考えられている。
ここの所しばらく、愚生は子規研究で手を離せないでいるが、子規は「能」を「古典」と呼んでいる。もともと荘子あたりから一休に馴染み、その後茶道に入って「動く禅」といい、そこから「写生」論を生んで観察、観ることから生むことに入り、写生説を立てたようであるが、それに終始したことからは古典とはそういう世界の古典という意味のようである。芭蕉に十分敬意を払い自分も絵を描くことからは蕪村にも好意を寄せたようではあるが「貫道するものは一なり」の一を生き切った俳句の人として忘れられない子規が古典としたのが能であることはそれが応無所住而生其心の世界であるからであろう。勿論「切れ」を含む俳句も究極はその世界であって、それに従うなら子規に写生を理解させた茶道も古典の筈である。芭蕉も古典であることは疑いようもない。そこからは、不死の、貫道する一の生み残す歴史の中の歴史といえる歴史的世界は、その貫道する一の身体として「歴史的身体」といいうるとすれば、子規は自らの肉体(形)の死滅に際して死滅しない形として、歴史の中の真の歴史の流れを歴史的身体と観、不死の事故の形と考えていたようにも思えるのである。御一考おき賜れば幸甚である。西田先生にもそれに近い考え方がおありであり、「歴史的身体」と呼んでいられるが(全集巻第十四)これはFASとしては、心の一隅にとどめて大いに参考にしてゆきたいとも思っている。
何れにせよ「自在」もいい言葉ならSelf-Abidingも、これからの歴史形成には欠かせない概念のように思われる。決定は原稿の集まった理事会で行われるので御高見のおありの方は理事長のに御意見賜れば、幸甚である。
とりあえずの御案内として〔久松〕先生の自在の書とその英訳をここに御披露して心からの諸兄諸姉の御自由な御投稿をお待ちしている次第である。(総務)