「競争」の原理について

山口昌哉
『風信』35(1997.2)
FASの立場から競争の原理を考えてみることが今必要となって来ている。何故ならば、今の世の中、特に日本では、最近になって、「自由」ということが、すべての人にとって、「在る」ことの条件と感じられ、しかもその「自由」には「自由競争」と、「競争」の語がすぐ結びつくことになった。戦後しばらくは、そのアンチテーゼとしての社会主義の国が存在したので、すべてはその対立の中に解消して論じられていたが、1980年代にその体制が崩壊してからは、「自由競争」こそ、すべての基本であり、企業からはじまって、学校教育にまで、「競争の原理」が支配することになった。

経済の方々の御意見では、18世紀、アダムスミスが国富論を発表したとき、この原理によることは、人間の社会の調和が、その精神世界や倫理も含めて、「神の見えざる手」によって保証されることであると言明されていたようである。もし、これが本当に正しければ、人間社会は「競争原理」ただ1つを守ることによって、永久に平和な秩序を保ちつづける筈である。

ところが、世界は、そのようには進んで来ていない。先に述べた競争がすべての分野で声高く叫ばれる一方、人権と弱者保護が実際の政府の施策にも取り入れられ、それは人間の進歩の一面として強調されて来ている。

この2つは、全く異なる立場で主張されており、ともに或る程度の賛同を得ているように見えている。しかし、このようにバラバラの2つのバランスをとることに、この先も、つづけて、西暦二千何十年という、地球資源の危機をやりとげてゆける保証がありうるであろうか?というのが私の疑問である。

競争原理を全面否定することは、不可能に見えるが、それならば、それを含んだ和平への原理をつくってゆきたい。それは、「本当の自己」「形なき自己」の自覚から生れるのではあるまいか。ただし、アダムスミスの時代と異なる大切なことは、地球の環境について、それが有限であることがはっきりして来たことである。17世紀にはこれは無限であることを誰も疑わなかったのである。

その責任を、特定の個人、特定の国にまかせるという態度は我々の立場からは出てこない。また一方、どの個人もこの責任をまぬがれることは出来ないのである。この三面から、答えは出そうである。

こころみて言ってみれば、言葉はいろいろあろうが全ての個人は仏向上に関わる絶えざる精進を覚悟すべきではあるまいか。


1997年2月6日掲載