方谷老師の示寂
柳田聖山
新聞の訃報で、浩明老師の名を見たのは、すでにかなり前のこと。生前ごく目立たぬ人、FASの古い道人であることさえ、知る人は少ないかも。前々代大徳寺の管長様で、博多崇福寺住持、花園大学教授でも。億劫相い別れて須臾も離れず、尽日相い対して刹那も対せず、大灯国師の言葉を地で生きた、古仏中の古仏である。戦中戦後、僧堂時代の苦行はすざまじく、生来蒲柳の身を痛め尽くした人。私たちは方谷さんと呼んで、何でも話せる、愚痴の吐ける場所だった。久松先生門下としては、藤吉慈海のすぐの後輩、相国寺大象窟の法弟としては、止々庵宗忍とならび、放参後も僧堂にとどまって、片岡仁志とともに、居士や学生の好き相談相手となり、森本省念老師とも親しかった。FASへの参加も、そんな僧堂時代であったろう。大徳寺管長時代は、開山忌その他の出頭以外、ほどんど博多を出ず、人に会うことはなかった様子。老師の書を評価するのは、中国学の第一人者入矢義高で、謂わゆる禅臭が嫌いで、禅の書を退ける入矢先生には、珍しい格外の一つ、それも亦た浩明老師の、静かな御人がらではないか。
June 26, 1996