「風信」34 (1996.6)
別宮さんにお目にかかったのは何十年振りかで、岡崎ホテルで拝眉した頃の俤は全く無かった。しかし、相変らずお元気なすっきりした印象ではあった。
会合の場所を、久松が長年住んだ妙心寺・春光院の抱石庵にしたのは、偶然のことから抱石庵が元のままである事を知り、会員なども従来の会場よりずっといいという意見で、従ったのである。春光院の御配慮で庵は全く元のままであり、先生と御一緒している気分になるのか、あの頃のように議論も率直になり、活発になってきたようで、会場を変更してよかったと思っている。
会は一時半から開かれたが、山口・FAS協会理事長は、随分古い風信を持参され「鈴木先生は東洋には世界を救うであろうではなく、必ず救う道がある。仏教は寺院から民衆に移るべきである」といっていられると言って開会の辞とされた。続いて、阿部正雄さんから簡単な別宮さんの紹介があったが、その中に、「大拙先生に、『アメリカに行くのを止めて日本で反訳を続けるように』と言ってほしいと久松先生に〔阿部が〕頼まれた」という言葉があって、久松先生にはもうその頃から、FASの構想が動いていたと、改めて知った。
紹介の後、別宮さんは口を開かれたが、その最初の一言は「鈴木先生は私には母でした」であって、いきなり心を洗われた思いだった。「私の話は、外国における私への先生のお話ですから」と断っていられたが、それが特別のこととは思えなかった。別宮さんが外国人の中で暮していられたという或種の「孤独」の問題がある、という事かとも思ったが、我々の青春は戦争時代で、誰しも人間的には孤独な思いで生きていたせいかも知れない。「母でした」の一語に心を洗われたのみならず、その一語で、別宮さんという人にお会いしたという印象をも受けた。正直、率直という以上に、男性の大拙老を「母」と呼ばれたその一語には、「悲」の人、大拙に出会った人、そしてその新鮮だった印象をあからさまに曝け出されたという印象だった。「この人は大拙老に『会って』いられる」という安堵感から会場の方々に、別宮さんの言葉はすらすらと拡がっていたように思われた。「柔軟心」とか「悲」とかいった上下(カミシモ)を着た言葉でなく、御自分の「あからさま」な言葉が続いたと思う。最後の一言まで誰しも「心」から聞き入ったのではないだろうか。
「最初にお会いした時、15才でした。」「学校から帰るとすぐ先生のところへ行きました。」相手の問題が手にとるように観えるから、即して柔らかく触れてゆかれる大拙老の姿が目に見えた。人間が出来ていないと有り得ない「出会い」であろう。大拙老の書かれたものを読んでいて感じていたものを、目の前で裏書された想いであった。「何でも聞いて頂ける人」、「自分の不満を聞いて頂ける人の出現」、「私をお守りして下すった方」、それらは、「大悲」を目の前に観る想いを抱かせた。やがて、大拙を「母」とされた言葉は、別宮さんの口調では「私の人格を生んでくれた方」、私の本当の「生」の「母」、と聞こえるようになって来て、大拙老と別宮さんの触れ合いの深さを誰しもしみじみと覚えられたように思う。「お経は普通はお弟子の書いたものですが」は、私は本当の生きたお経を直接聞いてきた、と響いて来た。別宮さんが一番いいたかったのはその事であり、また、FASの会員はFASという以上そうであるべきであると、私には響いた。
「仏教は母性的だがキリスト教は父性的である」--紹介された大拙老の言葉は、適確そのものといった印象だった。大拙老はカトリックの「マリア信仰」がお好きだったようである。生きていて神になれないキリスト教の問題点、日本文学をやっている小生などには西欧文化の致命的な問題点にそれは触れているもののように思われた。必ずしも大拙老は日本文化にお詳しいとは言えないし、久松先生も文学論などになると避けていられるところもあったと思うが、そおういうことが問題なのではなく、人間にとって「本質的」にもっとも大切な問題点を観て、大拙老は常に語っていられるという実感を、その言葉に覚えたわけである。
また、別宮さんはその一番大切なところで大拙老に出会っていられ、それを「外国にいたので」と謙虚に語っていられたのであるが、全く御謙遜の必要はなく、観るべきものを正しく観ていられる印象をうけたのは私だけではない筈である。「人類の和はそこからしか成り立たない」、その「そこ」を別宮さんは謙虚にではあるが言いたかったのだと思った。現実に会場には「和」が漲って来ていたと思う。山口理事長が最初に「救うであろうでなく必ず救う」と述べられたのもこのことであろう。大拙老が宗教一般にとっての永遠の課題を自ら覚することによって告げていられたことを、別宮さんはおっしゃりたかったのだと思った。そのお話が大拙老御自身のお話のようで、心の底まで自然にひびいていた。
「久しぶりのいいお話だな。」学問の話もそれはそれとしていいが、こうした人の「在る」ことに即してのお話はまだそれで格別であるように思った。別宮さんの飾らない人柄がその印象をさらに深めた。世界の新しい本来の秩序を課題としてもったFAS協会の、後半世紀の第一回のお話に、別宮さんは、知らずして大拙老を語る形で自らを、懸命に語っていられたようにも思った。
大拙老はお経を愉しく読んでいられたそうであるが、そこに御自分の言葉を味わっていられたように思えた。大拙老の関心は「一」の場からそこに自ずから集ってくる「多」に向けられていたように思えた。「執着を捨てるように」、「子供が柿を掴んでいるその手を開くように手を開け」とおっしゃっていた、と。
大谷大学の大拙研究家、内藤史郎教授の実証を踏まえた、細かい質問や御説明が、時折り会場を鋭く刺激し、ヨーロッパにおける大拙研究に目を注がせた。また、それは別宮さんのお話を「現実」から支えて生き生きとしたものにしていった。内藤さんのお話が入って来ると、別宮さんのお話は外国文化を包んでのお話となって、生彩を一層含んで来た。「母」という言葉の意味が拡大だれて、愛をふくむ一に自然に拡がってゆくのを、皆さんが覚えられたように思う。「根本に他力がある」、「十字架に上ったら直ぐ復活する」そういった言葉が、表現は久松先生と異なっていても同じ内容ととれ、何の矛盾もなく聞きとれた。母胎の一から一に留意するように呼びかけるのは愛であろう。その愛は自ずからの秩序をもたらす愛である。
別宮さんは、私は、私の発見した大拙を語っているのだという風だった。(御存知かどうか知らないが力が入るとスエーターの腕を捲き上げられる仕草があった。いかにもそれは、今語っているのは「私の見出した大拙です」という印象だった)全くあからさまの心佳いお話だった。それが私には、オルダス・ハックスレーの執着を捨てろと言った話に実感を加えていった。大拙はエックハルトが好きだったとか、「キリストは心に生まれる」とかいった言葉は「悲」に生きた宗教者を告げていた。私は、「今日のお話は久松先生もおよろこびでしょう」と結んだが、別宮さんは、「それが一番うれしい」と即座だった。自分の観た真実のみを語られた別宮さんの心をそこに見たように思う。「万里印空飛禽蹤」〔万里空に印す飛禽の蹤(あと)〕、大拙老の家風をのべられた久松先生の偈である。