FAS 51年めを迎えて、われわれ一人一人はどう進むべきか?

山口昌哉
風信第33号(1995.12.9)

 久松真一著作集第五巻「禅と芸術」を読んで、私の注意を引きつけられる場所を発見したので書き残したい。

 それは、昭和36年6月に「墨美」第108号に掲載された、久松先生、西谷啓治、井島勉、三氏によって行われて対談の一節である。対談のタイトルは「人間」。

 この対談の中で、先生は、普通の考え方での人間、外界から制約を受けている人間、その外界にみずから働きかけて来た人間、さらに「このような内も外もないような人間」、これを自覚したとき、実有としての人間だと説いておられる。「実有」というのは、究極の有り方といってもよい。

 それでは、芸術における人間とは、という問いに関して、生命の発展とかその深まりを表すのが美であり、それを表現するのに、「形からの脱却」ということがある、といわれている。

 井島 勉氏は、これに対し、混沌から形がでて来たというのは認めるとしても、またいわゆる形を全部捨ててカオスに帰りたちということはわかるとして、まるで形のない芸術は考えられないと反論されている。これにたいしての先生の言葉が、特に私には新鮮な感じで受け取られた。特に原文のまま載せておくと、

 久松先生「それはそうですが、その混沌という言葉ですがね、混沌というとどうもはっきりしないということのようですが、払い去るということはただ払い去るんじゃなしに、批判的にそれがたかめられたということですから、本当に払い去った時にはもう混沌どころじゃない。それは非常にはっきりしてきている。はっきりしているから、かえって今までになかった形を生み出すということになる。・・・

 このあと先生は、「本当の払いのけの意味から、形がないといっているのです。生命というものから内面的に必然的に出てくるような形がそこではじめて生まれる。」と続けておられる。これは私見では「人間」とは何かということでもある。この対談は、1961年である。

 私は、芸術と関係はないが、数学において、カオスの専門家と称して1979年から今に至っている。カオスの概念は、古くから、ポアンカレ、マクスウェルなどの研究者によって、気がつかれていたが、一般的な研究者に知られてきたのは、1975年以来のことである。

 このカオスも、決してただのあいまいではない。一つのきわめてはっきりとした法則のもとで、あらゆる可能性を生み出すものであって、そこでは、今まで知ることのなかった形も生み出される。これを役立てるために、その中から一つの形を取り上げることも人間はできるのである。十分に理解さるべきではあるまいか。