武士道の規範が「忠」であったことはいうまでもないが、藩制の崩壊によって士族は忠の対象を失った。もっとも、明治新政府は天皇に対する忠を強調したが、この忠と、藩制期の主君に対する忠とでは、ニュアンスに大きな違いがある。藩制期の武士にとっては、生活の一挙手、一投足が忠によって規制され、忠こそが彼らの生き甲斐であったのに対し、天皇に対する忠には、少なくともこの時期、そこまでの強い思想はない。その彼らに、新しい忠の対象が現れたののだ。それが、宣教師の伝えたキリスト教の「神」であった。彼らは、その神への忠に生涯を懸けた。
しかし、キリスト教は、日本でえは教勢を伸ばすことができなかった。それは、仏教が大きな壁となって立ちはだかっていただけでなく、キリスト教の教理には、理が頷きえないものを含んでいたからである。例えば、死後の肉体の復活などがそれであるが、その受け止め方に、キリスト教国である欧米と非キリスト教国である日本との違いが現れる。欧米では、子供の時から聖書に親しみ、キリスト教の教理が教えこまれる。たとえば英国では、アングリカン・チャーチ(日本では聖公会)が国教であり、司祭(牧師)は国家公務員である。牧師は教会で説教するだけでなく、小学校や中学校でも説教しなければならない。そういう国では、キリスト教の教理に疑いを抱くこともあるまいが、日本人にとって、このような教理はなじめないものとなる。
問題は、そこにある。「日本人のなじめないものは、実は、イエスの教えとは関係のないものであり、それはヨーロッパのキリスト教団が作ったものなのである。」イエスの教えは、仏教を通しても理解できる。日本のキリスト教は、そういう方面へ進んでいかねばなるまい。