再び「事」について
山口昌哉
『風信』第21号(1990年6月)より
青い空に白い雲が二つぽっかりと浮かんでいる。それがみるみる近づいて一つになった。こ れを見ていると、1+1は2という算術が、わからなくなったという或る人の幼児体験を読んだ ことがある。数というものは既に、南方熊楠の言う「事」である。つまり、物と心とのつなが りといしての「事」であって、たとえば数25は物としては10と15というように分解できるが、 25も10も15もそれぞれ一個の数として認識するのは、心の作用である。そのとき白い雲のよう に一個の数(たとえば10)+一個の数(たとえば15)イコール一個の数(たとえば25)という 式が成立し、我々は、日常に二通りのこと1+1=2と1+1=1とを行っている。
思えば不思議なことである。何故なら物はいくらでも分解又は分割ができるが、心の方は必 ずしも分割できないし、又加法性を持たない。そんな二つがつながっている。どうしてこんな 「事」が可能であるのか、その根源は何であろうか、それは、我々自身が「事」であるからだ と思う。我々は物としての肉体の上に心を兼ね持っている世にも不思議な存在だからである。
自然科学は、結局物の世界であるので、いつも1+1は2である世界を対象としてもっている。 仏教でのものは、おそらく南方の言う「事」であろうと思われる。
一即多は決して神秘主義でもなければ陶酔でもない。我々自身が神秘的なものでありながら、 こうやって現前し、肉体をもち、日常を生きてゆくこと、これこそは神秘である。
June 13, 1996