阿部正雄道人訪問インタビュー(1)

江尻祥晃
「風信」第18号(1989年6月)より
平成元年3月30日、阿部正雄道人の自宅で行われたインタビューの記録です

1. FAS禅の特徴について

−−まず、FAS禅の特徴についてお聞きしたいのですが。つまりFAS禅とは何なのか。久松先生は伝統的的な公案禅を取られなかった。そして只管打坐〔しかんたざ〕でもないわけですね。それで新しくFAS禅というものを打ち出してこられた。この新しい禅とは何なのか。

阿部 伝統的には、禅は己事究明ということで終始一貫してきている。確かに禅の一番肝心な処は、己事究明ということに違いないけれども、このことを強調するあまりに、他者への働きかけ、特に社会的な問題とか歴史悪にかかわる問題に対して、今までの禅はとかく無関心になりがちでした。自己の内面に徹底することにのみ集中して、そこから発して社会の次元、歴史の次元で積極的に働くということが乏しかった。それではいけない。内ヘ徹することが同時に外へ働き出るということでなければならない。内と外が不可分に把握されなければならない。これがFAS禅の立場です。

 しかしこのことは、〔1950年代終りに〕FASを言い出す前から私どもの間では自覚されていたことでした。すなわちFAS協会の前身である学道道場ができた時〔1944年4月8日〕、その綱領の冒頭に「本道場は絶対の大道を学究行取し以て世界甦新の聖業に参ず」ということがいわれています。つまり絶対の大道を学究行取するということが、世界甦新ということと不可分に結びついている。これは道場の出発点から強く自覚されていたことで、久松先生御自身もそういう立場でやってこられた。

 我々もあの頃は戦争中でしたからね。いったい国家は戦争の名のもとに他国民を殺害し、自国民に死ぬことを要求する権利をもっているのか。そもそも国家とは何か。人間の生きる権利と個人の尊厳はどこに由来するのか。結局は人類の平和のため今の世界を改革しなければならないのではないか。そういうことがあの当時の我々学生にとっては大きな問題であった。だから道場で坐禅をして本来の面目に覚めるということと、そういう国家・世界の問題とは切り離せない問題としてあったわけですね。

 むろん、従来の禅にもまったくそういう問題がなかったわけではない。けれどもそれは非常に希薄であった。禅では四弘誓願を強調しますが、その第一は衆生無辺誓願度ですね。他者を救うことがまず誓願の最初に来ている。その後に煩悩無尽誓願断とか、法門無量誓願学、仏道無上誓願成という自利の方が来ている。自利利他円満ということがちゃんと四弘誓願の中にあり、しかも利他の面が自利の面に先立って誓われている。ところがそういいながら伝統禅の実際にやっていることは、自利というか、己事究明にほとんど終始している。利他の方はいわば空念仏になっていた。これに対して学道道場はあの時代の状況下において、自己と世界の不可分ということを、はじめからはっきりさせようというので、ああいう綱領をつくったのです。それはその後、さらに発展してFASということになってきたわけですね。その点がやはり伝統的な禅と違う大きな点だと思いますね。

−−伝統禅においては利他の面を言うことは言っているけれど、実際空念仏に終わっているということですが、それは伝統禅においても本当のものじゃないのではないですか。「本当の」ということをいえば伝統禅の中にも四弘誓願があり、一番めに「衆生無辺誓願度」がきているということですから、伝統禅が堕落してきたために第一誓願がおろそかになっているということはあるかもしれないけれど、伝統禅の真の正統であればそこに本当のものはあるわけですね。そうすると先ほど先生も言われましたように本当に自分が覚めるということと社会、平和という問題とは一つであるというか、それが離れていることがむしろおかしいといいますかね、結局本当に覚めるということは社会的な問題にも目を向けていくのが本当である、つまり逆に言えば本当の自己に覚めたといても、そういう社会的な面がおろそかになっていれば、それは本当に覚めたのではないということになる……。

阿部 そうです。そういうことになる。

−−そうしますと、今までの伝統禅がもしも利他の面で希薄であったというならば本当ではなかったということにはならないんですか。伝統禅というものが本当の意味の真の自己に覚めていないということにつながるわけですね。

阿部 従来の禅でも、それは本来大乗仏教の立場ですから自利と利他の両面が結びついていたわけですね。菩薩道というのは、自らを〔彼岸に〕渡す前に他人を渡すと。あるいは他人を渡すことにおいて初めて自分も渡される。そういうことは本来の禅にはあったわけです。したがってFASは必ずしも伝統的な禅になかった何かをつくり出すとか、つけ加えるとかいうのではない。むしろ教団的な禅、禅宗としての禅において掩(おお)われ、晦(くら)まされていた禅の本質的なモメントを取り出してきて、それを現代に生かそうとしているのです。

 もう一つは、かりに伝統的禅に利他の面に対する関心や働きがあったとしても、その場合「他」というもの、「他者」というものが、どのように把握されていたかということが問われなければならない。それは他なる個人をさすのか、全人類、あるいは無辺なる衆生をさすのか。かりに無辺なる衆生、生きとし生けるものをさすとしても、現代の状況下におけるそれの問題と、百年二百年前におけるそれの問題とは、非常に変ってきているわけでしょう。核兵器の問題だとか人口爆発、食糧危機の問題とか、臓器移植、生命倫理の問題とか、さては環境汚染の問題とかが、今日の生きとし生けるものの問題として出てきています。生きとし生けるものの生死流転の様相は今日著しく以前とは違ってきています。このような問題に対しては禅は背を向けて「己事究明」に専念すればよいのか。禅はその大機大用において、このような問題に対して具体的にどのように対応するのか。このようなことは今日禅にとっても避けて通れない問題だと思いますが、そういうことがほとんど問題にされていない。

 要するに自利利他円満といっても、その場合の「他」は、昔とは違ってきた現代の新しい人間の諸問題を含めて取組まれなければならない。FASは、「形なき自己に覚める」という己事究明を離れないところで、そういう現代のもろもろの問題に取組もうとしているわけですね。その場合大切な点は「無辺な衆生」のはらむ問題を、一応世界の面と歴史の面という二つの面に分けて把握する。久松先生の言い方でいえば、人間の広がりの面と長さの面を一応分けて問題にする。それで私は、真の自己は何かという己事究明−−人間の深さを究めること−−とともに、真の世界は何かという世界究明、真の歴史は何かという歴史究明がなされなければならないと思います。そしてこの己事究明、世界究明、歴史究明という、三つの究明が実は我々の主体の中で、我々の〔坐禅〕実究や論究、修行や生活の中で、一つに結び合っていなければならない。そういうふうに人間の構造を立体的にダイナミックにとらえて、究明していく。そういうことはFASの特色じゃないかと思いますね。伝統禅にはなかったことです。

〔続く〕
第2部


May 29, 1996