ある相互参究の資料
『道はるかなりとも』(青山俊董著)抜粋とコメント
江尻 祥晃
―はじめに―
これは私達大衆禅を志す仲間達で月一回行っている【京都深草坐禅会】に江尻が提供した相互参究用の資料、『道はるかなりとも』(青山俊薫著)の抜粋である。
みんなで相互参究を始める前に、江尻が一通り読んで、ところどころ簡単にコメントを付けたものが下記の資料である。
―抜粋本文と江尻のコメント【 】内―
一つ押さえておかなければならない大切なことは、仏を遙か向こうに置いて、凡夫が修行して悟ることで初めて仏を手に入れるということではないのです。初めから仏なのであり、仏が仏であることに気づかず迷っているのが凡夫なのだということです。初めからその命を頂き、その働きによって生かされているのです。気づく気づかないに関わらず、一息呼吸ができることも、しゃべることも、書くことができることも、すべてそこからの働きかけによるものであり、いつどこにあっても自在にその働きを使い抜かせて頂いているということです。
【つまり、ここでポイントなのは、仏を遙か向こうの方(自分の外)に置いておいて、凡夫である(仏でない)私が修行して、そして悟る。悟ってはじめてそこで仏を手に入れることができると、普通、そう思っておられる方が多いと思うんですけれども、そうではないということです。初めから仏(仏常住)なのであって、自分自身が仏であるということに気づくことが大事なんだと言っているわけです。だから、修行して仏になるのではなくて、私達が初めから仏だったんだなあと気づくこと、それが修行なんだと、そういうことをここで言われているんだと思うんですね。だから、私達の普通(日常)の在り方が、自分が仏であることに気づかずに迷っている在り方である。凡夫の状態が、今の私達の状態で、仏に気づいたら、即そこで仏なんだ(ずっと仏だったんだと分かる)ということなんですね。だから、仏の自分に気づくか気づかないかという、そこが非常に大きなポイントになってくるということです。気づけば仏、気づいていないから凡夫なんだと、そういう言い方をしているわけです】
医者であり、仏教徒である米沢秀雄先生は「吹けば飛ぶようなちっちゃな命を、天地いっぱい、宇宙いっぱいが総掛かりで生かすことにかかりきってくれている。天地いっぱいと匹敵するほど価値あるこの命なんだということに目覚めねばならない」とおっしゃっておられました。
【この米沢先生という方は、浄土真宗の信仰を持っておられるお医者さんなんですけれども、その方が、吹けば飛ぶようなちっちゃな命、私達の(個としての)命ですね。それを天地いっぱい、宇宙いっぱい総掛かりで生かそう生かそうとしてくれているんだと言っておられるわけです。しかし、その事に私達は気づいていないだけなんだと言われるわけですね。この私の一つの命が天地いっぱいの命に匹敵するほどの価値ある命なんだと、そういうことに目覚めなければならないと、早く気づきなさいよと言っておられるわけですよね。しかし、なかなか自分を天地いっぱいが、宇宙いっぱいが総掛かりで生かそう生かそうとしてくれているんだという風には思えないですけれども、しかし、事実はそうなんだと、だから、その事に早く気づきなさいよということを、お医者さんでもあり、仏教徒でもある米沢先生は勧めておられるわけです】
人間だけが天地いっぱいの働きかけによって今があらしめられているという命の尊さを自覚する力を持っています。【人間以外の動植物は、生かされているんだけれども、生かされているなあということを自覚することはできない。無自覚的に生かされて生きている。しかし、人間だけが、そういうことを自覚できる生き物なんだと言われるわけですね】この命の自覚、これを「悟り」と言います。修行することによって、それまで自分が持っていなかったものを手に入れるのが悟りではなく、初めからその命を頂き【仏の命を頂き】、その働き【仏の命の働き】のただ中に生かされている、そのことに気づく、目覚める、それが「悟り」なのです。
【悟りとは何かということをここで説いているわけですね。修行して、今までなかった悟りを得るんじゃなくて、悟っているんだということに気づく、それが本当の悟りだと言っておられるわけです】
諸行無常・諸法無我という天地の道理に暗いのを「無明」と言います。無明とは明るさがないことです。暗いことです。天地の道理に無知なるばかりに道理に反した生き様を気づかずに行っていることです。反していることを知ることができるのは道理を知っているからで、道理を知らないものは反していてもその反していることにも気づきはしません。
【ここも大事なところだと思うんですね。私達が何か悪いことをしたりすると、心が痛むとか、懺悔したくなるとか、そういう風な気持ちになりますね。そういう気持ちになるのは、まさに天地の道理を知っているからじゃないかと言うわけです。天地の道理を全く知らないのであれば、そんな反省も懺悔も出てこないわけですから、まさに私達は知っているということになりますね。天地の道理を知っているからこそ反しているということに気づくことができるんだと、そして、それが非常に大事なことなんだと言っておられるわけです。私達は普通、悪いことをしてしまったら、『ああ、なんと私はダメな人間か』と、そこだけで終わってしまいますけれども、ダメなんだと分かることがすごいことじゃないかと言っておられるわけですよね】
人生という大道を私という車を運転してゆくに当たっての交通ルールが諸行無常・諸法無我という天地の道理であり、その道理から自ずから教えが生まれてきます。無常だから、一刻もとどまらないのだから、明日死ぬかも知れないのだから、しかもすんでしまったことはやり直しがきかないのだから、一刻一刻に命を懸けて生きましょうという教えが生まれてきます。【これは、よくここ(大衆禅坐禅会)でも話が出ますが、『今・ここ、今・ここをただただ生きる』ということですよね。過ぎ去ってしまった過去を悔やまず、まだ来ぬ未来のことを思い煩わず、今・ここを一生懸命に生きようじゃないかということにつながってくるんじゃないかと思うんです】無我だから、天地いっぱいぶっつづきなのだから、この地球は私の体のように一つの生命体なのだから、私のエゴを中心とした思い、人類のエゴを中心とした勝手な行動はせず、常に地球単位、天地いっぱいの立場から顧みて、自分の今の行動をとりましょうという教えが生まれてきます。
【そういうことに気づいてくると、そういう行動が自然に取れるようになってくるんですよということですよね】
本当の教えというものは人間が作り出すものではありません。天地の姿、実相から自ずから結論として得られるもの、気づかされるものなのであり、これが人生道における交通ルールです。これを仏戒と呼び、たった一度の人生を生きる基盤を、天地の道理に暗いエゴの私の思いを中心としての生き様から、天地の道理、真実に従った生き様へと転換して参りましょうと誓願を立てた時頂く名前が戒名です。仏戒(天地のルール)に従って生きんとする者の名前と考えたらよいでしょう。
天地の道理に暗いばかりに誤った世界観、人生観のもと、誤った人生運転をするところに待っているのは苦しみの世界でしょう。無明から出発した人生の行き着くところを仏教では「一切皆苦」という言葉で表しています。行き詰まることで、苦にぶつかることで人はようやくその非に気づきます。苦に導かれて教えを聞く耳が開けます。苦に導かれて求道心が起き、聞く耳が開け、初めて天地の道理、真実の姿に目覚め、自分の命の本当の姿にも目覚めることができ、どう生きるべきか、どう運転してゆくべきものかも知ることができるのです。
【ここで言っているのは、まさに、苦にぶつからないとダメですよということですね。行き詰まるところまで行かないと本当のことは分からないんですよということですよね。だから、行き詰まる、苦にぶつかる、そこではじめて人は、自分の非に気がつく。逆に言えば、そこまで行かなければ人間はその事に気づけないということですよね。そこまで行って、『あっ、そうだったんだ!』ということに気づく。気づいたら、はじめて、教えを聞く耳が開けてくる。はじめて真剣に教えを聞こうと思うようになる。そういうところを通ってこないと、聞こうという気にもならない。人間というのは、それ程までに愚かであるということなんだと思うんです。そして、聞く耳が開けてくると、求道心が起きてくると、天地の道理、真実の姿に目覚め、自分の命の本当の姿にも目覚めることができると言われているわけですね】
道理は分かっても、気ままな私の思い、私中心の思い、道ならぬ思いがわき起こることはあります。【分かっちゃいるけどやめられないとか、できないということは、多々、私達が経験するところなんですけれども、まさに、天地の道理が頭で分かったところで、じゃあ、それがすぐできるかというと、できない私がそこにいるわけです。それは致し方ないところがあるんですね】道理を知らなければ、わがままな思い、道理に反する思いや行為であることさえ気づかずに突っ走ってしまうのですが、道理を学び尽くすことにより、わがままな思いをわがままな思いと自覚することができます。【だから、まず、自分はわがままな思いで生きているなあと気づかないことには、どうしようもないわけですよね。普通、凡夫の私達というのは、わがままだとも思わずにわがままなことをやっているんですね。だから、自分はわがままなことをやっているなと、実に天地の道理に合わないことを平気でやっているなということに気づかなければならないですよね】
法を聞く前は、わがままをわがままと気づくことさえもできない自我のみの私しかなかったものが、教えを聞き、法に出会わせて頂くことで、仏の智慧を頂くことにより、わがままをわがままと知るもう一人の私が目覚め育つのです。もう一人の私がわがままな私をぐずらないようにお守りし、あるいは厳しい言葉に置き換えるならば、わがままを言いたい私を無視し、更には死にきらしめ、あるべきように従って生きるのです。【これが禅で言うところの大死一番ということですね。まず、死にきりなさいということを言うわけです】キリスト教的表現を借りるなら、凡夫の自我中心の私の思いを十字架にかけ、神の生命として復活し、天地の摂理に従って刻刻を生きるのです。これが「明」にはじまり道理に随順して生きる生き方で、ここに展開する世界が「涅槃寂静」の世界、つまり此岸に対する彼岸、理想の世界だというのです。
我々は自覚するとしないとに関わらず、初めから、そしていつでもどこでも天地いっぱいぶっつづきの命を生きています。その命を道元禅師は「自己」と呼ばれました。釈尊が「自己は自分の帰趨(落ち着くところ)である」と説かれた自己も、この天地の命とぶっつづきの自己のことと理解してよいと思います。
【天地いっぱいの自己という言い方を内山興正老師はしておられますが、それに目覚めるんだということですね】
実際の私達は道理に暗く、この小さな皮の突っ張りの中だけが自分だと思い、強くそれに執着し、外側の世界と対立させ、小さな自分の思いだけを大切にし、それを中心に動こうとします。これを道元禅師は自己に対し、自我または吾我と呼ばれました。釈尊の「自己は自分の帰趨である」という表現の「自分」に当たります。【つまり、私達は自我を私として生きているということです。しかし、本来の生き方というのは、自己を私として生きることなんです。自己を私として生きるべきところを自我を私として生きてしまっている。そして、その事の間違いに気づいていないということがあるわけですね。だから、まず、その事に気がつかなければダメではないかと言うわけです。自分の本来のところ(帰趨)である自己、自己を生きるということが大事なことになってくるわけです】
小さな自分中心の思いを無限に放下し、放下して、本来の天地いっぱいの自己に帰る修行が坐禅です。沢木興道老師はそこのところを「面壁とは個人を捨てること」とおっしゃいました。【小さな自分中心の思いを無限に放下するというのは、ここでよく言う言葉で言えば、頭の手放しなんですね。いろんな思いが頭に浮かんできても、その都度、頭を手放し手放ししていく。それが、まさしく本来の天地いっぱいの自己に還る修行になるんだと、坐禅とはそれをやっているんだと、そう言っておられるわけですね】
一遍上人は、宗教の要諦を一言で教えてくれというのに対して、「捨ててこそ」の一言で答えられたと言います。禅でよく使われる言葉に置き換えるならば、「莫妄想」(妄想することなかれ)の一言になりましょう。「莫妄想」とは一切の分別を捨てよということです。【まず、捨てなければ得られないという、そこに気がつく必要があるということですね。なかなか私達は全て捨てなければ得られないとは思えない。これだけは捨てられないというところがどうしても出てきてしまう。しかし、捨ててこそ得られるんだと、禅では「莫妄想」と言っているんだと言うわけですね】
南嶽懐譲禅師【これは中国の有名な禅僧なんですね】は「知は妄覚」と言い切られましたが、天地宇宙の真の姿などという途方もないものは、小さな人間の分別で捉えることができるような相手ではありません。たとえ「仏」と言おうが「悟り」と言おうが、人間の小さな小さな分別の延長線上での仏や悟りは、本当のそれとははるかにはるかに遠いものであること、人間の分別の及ぶものでないことを、自分の分別の限りを尽くして知らねばなりません。【ここは一見矛盾しているように思いますけれども、人間の分別の及ぶものではないということを、自分の分別の限りを尽くして知らねばなりませんと言っているんですね。だから、自分の分別の限りを尽くしてみて、はじめて自分の分別の限界が見えてくる。自分の分別の限りを尽くして、自分の分別の限界が見えてきた時に、はじめて、「ああ、自分の分別の及ぶところではなかったんだなあ」ということがはっきりと分かる。そこで本当に落ち着くことができる。自分の分別の限りを尽くさずに、中途半端なところでとどまっている限りは、自分のどうしようもなさ、自分の限界など分かりようがないということです】
人間の分別で真実の姿をつかんだと思っても、それはほんの一部を切り取って知り得ただけのこと。しかも刻々に止まらない命の動きを固定したものとしてつかみ取った時は、既に当の命そのものはスルリと抜け落ち、手中にあるのは過去形となった死骸だけなんだということを、つまり知識分別の限界を知らねばなりません。【真実の姿をつかんだと思った時にはスルリとそこから抜け出てしまっているということですね。だから、確かに知識、分別で分かる世界はあるんですけれども、知識、分別で分からない(超えた)世界もあるんだということに、まざまざと気づかないといけないと言っておられるんだと思います】
妄想が妄想と見えなければ、気づかなければ捨てることもできません。例えば濁った水、波だった水は逆巻く妄想も映し出してはくれません。映し出してくれないから妄想が逆巻いていることにも気づかず、気づかないから捨てようとも思わないのです。
よく「坐禅をすると妄想が起きて困る」と訴える人がいます。そうではありません。坐禅のお陰で妄想が見えるのです。坐禅に照らされて妄想が見えるのです。【これは、皆さんも経験上、お分かりだと思うんですけれども、坐禅をしているといろんな思いがポッポッと浮かんできます。浮かんでくると、それはダメなんだと思ってしまう人が多いんですけれども、そうではなくて、そうやって浮かんでくる、それが見えるということがすごく大事なことなんだということです。だから、妄想が見えるからダメなのではない。妄想というのは、日常いっぱい湧いてきているんだけれども、それが見えていないだけなんですね。それが、坐禅で静かに坐っていると、「ああ、自分というのは、こんなに妄想だらけの中で生きているのか」ということが分かるわけです。それは大事なことなんです。妄想がはっきり見えていることの素晴らしさというんですかね】
念仏も数息観(すそくかん)も同じです。念仏しながらもいつの間にか妄想を起こし、妄想を育て追いかけ、念仏を忘れています。念仏のお陰でそのことに気づくことができます。気づいたら妄想を放下して坐禅に、念仏に帰ります。
【坐禅でも念仏でも、それをしようと思うと、できない私がいるわけですね。数息観で一から十まで数えようと決心して始めるんだけれども、途中でどこまで数えたか分からなくなってしまうこともあるし、念仏を百万遍称えようとやっていっても、どこかで、途切れてしまうということがあるわけですよね。だから、その事がダメなんじゃなくて、その事を通して、「ああ、自分というのは、まさに妄想だらけの中で生きているなあ」と気づいたら、それでいいわけですよね。妄想したらダメなんだじゃなくて、自分の中の妄想の存在が分かったらそれでいい。そのために念仏もあれば坐禅もあると言っておられると思うんです】
数息観というのは坐禅の一つの方法で、坐禅中、呼吸を数える方法です。まず息を吸って吐くとき「ひとつ」と数えます。また吸って吐くとき「ふたつ」と数える。十まで数えたら一に戻ります。これをずっと続けるのですが、これが以外に難しいのです。気がつくと五つぐらいで数はどこかへいってしまい、妄想を追っている自分に気がつきます。気がついてみると十二、十三と数だけは惰性で数えているけれど、思いは何かにとらわれていることに気づきます。数息観のお陰で心が何かにとらわれていることに気づかせてもらうことができます。気づいたら戻って、また「ひとつ」とはじめるのです。【「十まで数えられなかった。ダメだダメだ……」じゃなくて、数えられなかったら、その事に気づいたら、また一から数え直したらいいんだっていうことなんですよね】
注意しておかねばならないことは「妄想を起こしてはならない」「妄想を起こしてはならない」という妄想を起こさないことです。分別で分別を切り捨てようとしない。私の中で私と私とを戦わせないことです。沢木興道老師は「妄想ではない。脳の生理現象。追うな追うな、念起これ病、不続これ薬。気絶したのが無念無想ではない」とおっしゃいました。考えようとしなくても自然にいろいろなことが頭に浮かぶ、それは脳の生理現象であって妄想ではない。ちょうど胃が胃液を分泌するようなものだと言うのです。問題はその次です。浮かんだ思いに取りつき、追いかけ、振り回されます。その取りつく段階から妄想となります。そこを「追うな追うな」「思いを相続させるな」と言うのです。気を失った状態のようになるのが無念無想じゃないとおっしゃるのです。【つまり、ここでもよく言うのは、ポッと出た最初の念はしょうがない。その念まで出さないようにすることはできない。それは脳の生理現象ですから、どうしようもないですけれども、その次から出てくる二念・三念・四念…が問題で、念をどんどん、どんどん積み重ねていく、それをやめなさいと言っているわけですね。だから、最初に出てきた念を、どんどん、どんどん二念、三念で固めていく(大きくしていく)ことをやめなさいと、出てきたら出てきたで、頭の手放し、手放しで捨てていくと、それでいいんですよと言っているわけですね。それが大事なんだということです】
具体的には足を組み手を組み、背筋や首筋をシャキッと伸ばし、上半身の力のすべてを下腹部に落とし、呼吸を整え、思いを手放すことのみ専心します。ちょうど器に盛られた水が器をとどめておくと自ずから水が静まるように、心の波も静まっていきます。鏡のように澄み極まった水には自ずからゆく雲や名月や岸辺の木立の影をくっきりと映し出すように、妄想を妄想と映し出してくれます。【ここでも、妄想をしっかり見るということが言われています。はっきりと見ることこそが大事なんだと言われていると思うんですけれども、そのために坐禅はとても有効だと思います】
妄想を追いかけ回して走り回っている時は、逆巻く波には何も映らないように、妄想を起こしていることを知るよしもありません。具体的な禅定という行により、その静まり方が深まるほどに妄想が見え、見えるからこそ捨てることもできるのです。【禅定が深まっていったら、妄想がなくなっていくんじゃなくて、深まっていけばいくほど、妄想がはっきりと見えてくる。これは大きな違いですよね。私達が普通、頭で考えたら、坐禅して禅定が深まっていけば、妄想なんかなくなって、無念無想になれるんだって、多くの人がそうやって考えてしまいますけれども、そうではなくて、深まれば深まるほど、なんと妄想だらけの私かということがはっきり見えてくるということなんですね】
坐禅が具体的な日常生活の上にどう展開されるべきものであるかを考えておきましょう。我々は坐禅をしていても心はたちまち過去へ未来へと走り回り(時間的)、またヨーロッパへアメリカへ日本へ月の世界へと(空間的)走り回ります。これを「散乱」と言い、また「心は猿の如く馬の如く」とも表現します。その心の姿を禅定力によって見据え、手放し、裁断し、今ここで坐禅している。そこに帰らしめ、果てしなく身口意三業を整えることのみに専念します。この生き様がそのまま生活の一歩一歩の上に展開されなければなりません。【日々の生活がそのまま道であるとか言われますけれども、特殊なところで特殊な修行をして、そこではじめて道が開けるんだじゃなくて、もちろん、非日常に飛び込んで修行することも大事なんだけれども、それが日常に生きてこないといけないということなんじゃないかと思います】
どう展開されるのでしょうか。例えば食事を作る配役にまわったら、坐禅も仏も悟りも打ち忘れ、自分の得手不得手の思いも投げ捨て、ひたむきに食事作りに立ち向かいます。掃除当番にまわったら、これも修行、これも坐禅などという思いさえ妄想。それも打ち忘れて掃除に打ち込みます。これを道元禅師は「一行に遇うて一行を修す」と言われました。
禅とは特殊な修行をすることで神秘的な何かを手に入れることではなく、天地の道理を徹見し、気ままわがままな私を無限に放下して、本来の命に帰り、本来の天地の摂理のままに一歩一歩、一息一息を生ききることです。【禅とは何か、修行とは何かということを、一人一人がはっきりさせていかなければならないんだと思います】
私の人生という大道を、私という車を運転してゆくに当たり、私の頭には道ならぬ気ままわがままな思いが果てしもなくブツブツと湧いてきます。しかしその思いを実行に移さず、無視して(手放して)自我の思いを無限に手放し、人生の毎日、毎時間を、天地の道理という人生道の交通ルールに従って、刻々に運転してゆきます。その生き様を坐禅人の生き様といいます。
一言で言うならば、いつどこにあっても、わがままな私の思いを手放し、手放し、本来の仏の御命に帰り、御命のままに従って、今ここを生きようと無限に願い【これが誓願ということですね】、精進する生き様といってよいかと思います。