相互参究の後で

津久井 朱実

 

一二月二十一日は「座ということを中心にして」(久松真一著作集三)を読んでから、参加者それぞれが思うことを語り合った。

私は、本に書いてあることと自分のしていることがあまりにも違うことを、たとえば「足が千切れてしまっても座りぬこうとは思っていない」と言った。これに誰かが直接答えてくれたわけではないけど、話の流れの中で、自分がどういう風にとらわれていたか、気づかせてもらうことができたと思う。

書いてある通りにやらなければならないのではないか、と迷っていたのだけど、自分が本当にやろうと思っていないことをできるはずはない。やってみたところで、それはうそになる。お釈迦様の言うことでも、自分が本当に納得していないことをやろうとするのはへつらいだ。自分が本当に望んでいることでなければ、絶対に納得することはできない。

それなら自分はどうしたいのか。素晴らしいことを体験しようというのではない。特別な何かになりたいのではない。うそのないあるがままのところを確かめて、何でもそこからしたいのだ。そこからなら、「せっせと働いているな」とか、「いいことをしているな」とか、しょっちゅう出てきてうるさい自分の影に引っかからないで、なんでも心からできると思う。それはあたりまえの、いつもそうであることのはずだ。それでなければ久松真一は相互参究なんて言わないと思う。本に書いてあることを頭に描いてそれに合わせようとするのは、方向が全く反対だ。全部忘れてしまえばいい。ほんとうにあるがままでいたい。

「座っていても次から次へといろんなことを考えています。それを楽しんでいるようです。」とも言った。「追いかけるな、ほっておけ」というのがどうすることなのかわからなかったんだけど、それは「ほっておかなければいけない」と思い込んでいたからじゃないだろうか。ただ「ほっとけばいい」。次々といろんな考えが出てくるのは自然なことで、良いことでも悪いことでもない。出てくる。ただそれだけだ。その元に帰りたい。

直接確かめなければ納得できない。絶対に確かなところをつかみたい。ファウストが「生命の泉から直接飲みたい」というのもそういう気持ちじゃないだろうか。でも、自分が生命のはずなのに、そのほかに自分があるかのようになるのはどうしてだろう。それは外に回って確かめよう、知ろう、とするからだろう。思いきり早く振り向いたら自分を見ることができるような気がしたことがあるけど、そうして見えるのはやっぱり抜け殻で、それはいつも見る側にある。

外へ外へとまわらない知り方、あることがそのまま知ることであるような知り方があると思うから、座ってみるのだろう。誰が何と言おうと関係ない。全部忘れて、「これは何」って聞きたい。そうしたいのは誰。聞いているのは誰。