世間で生きるとは?

末長 有遠

 

世間で生きるとはどこかのヤドカリではないが、世間や組織の中で自ら欲するレッテルを探し出しそのレッテルを身にまとい他者から身をかわしたり他者と仲良くしたり、ときには威嚇しながらに他者と関わる事ではないのか。我々はレッテルの海に浮遊する旅人かもしれない。レッテルの大海から自ら欲するものを取り出し身の回りに幾重にも重ねながら世渡りをしている。時には、自ら欲せざるレッテルを身につけざるを得ないときもあり、苦しみの原因となっている。

我々はあらゆる存在に名前をつけレッテルを貼っている。一般に名前のないものは存在をしないに等しい、または存在を欲していない。存在として認めていない。そして、我々は人をレッテルで見ているしレッテルが持つ内容・行動様式をその人に期待している。その人に張り付いているたくさんのレッテルを勘案しながらその人を見ているし、どんな人間か値踏みしている。そうすると人はものと同じように人を商品(レッテルの塊としての)として見ているのではないか。ただし、程度の差はあるとしても。世間における人間存在の本質は「人間はいろんなレッテルを身にまとった商品として存在する」ということではないか。これは裏をかえせば我々は他者からみればただの商品に過ぎないということになる。深い絆のあるところではこのことは当てはまらないかもしれないが。我々は他者・他人を商品と見ることにはあまり抵抗感はないような気がするが、己が商品とみなされることには抵抗がある。私は商品ではなく人間なんだと。あるいは商品プラスアルファ何者かと。当然そこには人とものの違いはあると思うが。そうすると世間とは即ち商品が充ち満ちている市場のようなものではなかろうか。そこではこの己も商品、となりの人も商品、あらゆる人間が商品となり市場の中を右往左往しているのではないか。そしてその中で我々は世渡りをしている。もちろん人間以外の存在も商品として市場の中に存在している。市場に行って魚を買うとき、魚には必ずレッテルがはってある。たとえば「大分産の関サバ」で「さしみ」に適している、そして値段は「○○円」等。世間においては、ものの値段が究極のレッテルなのかもしれない。この魚は大きいとか小さいとか、新鮮であるとかそうでないとか、天然ものとか養殖ものとか幾重にも判断に判断を重ね商品の値踏みを行っている。我々は商品に相対したその時々に商品が商品としてどれだけ値打ちがあるものかどうかを判断している。これと同じように人に対しても商品として見ているのではなかろうか。Aさんは国籍は○○で年齢は○○歳、学歴は○○大卒、会社では○○部長だがあまり働かない、すぐ人の悪口を言う、人とよくトラブルを起こす等々。Bさんは今はホームレスで仕事がない。日々食べるものもなく困っている。世間ではホームレスと呼ばれる人たちを商品価値のないただのゴミのような存在とみなしていないだろうか。ゴミとは何なのか?一般的には我々が欲しない物、我々にとって存在して欲しくない物につけたレッテルあるいは総称にすぎない。ゴミは我々が欲しない商品のことではないか。たとえば、私が今、いつ首になるかわからない派遣労働者であれば、どんな企業であれ「正社員」になることを欲するし、できれば「大企業」であって欲しいし、「自分にあった仕事」がしたいし、「それなりの給料」も欲しいと思うだろう。首になればもしかすれば「ホームレス」になるかもしれない。そのことを恐れると思う。今の自分に張り付いているレッテルは「派遣労働者」であり、明日の私にほしいレッテルは 「大企業」 「自分にあった仕事」「それなりの給料」であり、決して「ホームレス」ではない。

以上の考察から私がポイントになると思う7つの問題点をあげると

 

1、レッテルは自ら欲するものか。だれがだれに貼るのか。

・・・レッテルは自らが欲するものとそうでないものがある。世間や組織がその人に貼る。まわりの数人が貼る場合もあるだろうし、国家がそうする場合もあると思う。そこには共通了解があり当人にはその共通了解した枠組みで行動することが求められていると思う。当人がそうするかは別問題だとは思うが。

 

2、人間に貼るレッテルとものに貼るレッテルはどこが決定的に違うのか。

・・・人間は他者からレッテルを貼られるが主体的にレッテルを張り替える事ができる。しかも、レッテルを他者やものに貼り付けたりしてレッテル作成に参画している。もの(人工的なものや自然そのもの等)は人間からレッテルを一方的に貼られるだけで受動的・受け身的である。

 

3、なぜ人間はレッテルの塊として(商品)として存在するのか。

・・・人間が社会的であり言葉を操る存在であることと関係している。人間は物事に対処するとき、そこにある物や事実に自分の記憶を投げかけ、自らの過去を投影している。過去と現実をつなぎ合わせ適合するレッテルを過去のなかで探し求め、対処できるレッテル世界を作り出して現実問題に対応しようとしている。「もの」と同じく「人」も「レッテルの塊」「言葉の塊」として浮かび上がってくるのではないか。

商品とは人間によって生産され・生み出され、何者(個人や組織等)かに帰属する。商品は所有するものにどうするかが任されている。商品は人間社会に役立つもの・貢献するものとして生み出され存在する。そして商い(売り買い)の対象として存在する。人間はあらゆる生産の要であり、その生産を可能にする存在である。人間のもつ能力によって生産の質と量が変わってくる。しかも社会のあり方も変えることが可能である。したがって人間は一人一人の能力に違いがありそれぞれが活躍する場面も違いが出てくる。そこに「人間(能力をもつ存在)=商品」という考え方が生ずるのではないか。人間の個々の能力こそが売り買いの対象になる。ものと同じように人も商いの対象となる。即ち商品として成立する。ここで忘れてはならないこととして「自らの一部が商品として成立するのであって全てではない」ということ。世の中には自らの全てを商品そのものと見なしたり、隣人や世間の人を商品   と見なして平然としている人間もいる。そして商品としての人間は何者かに帰属するが、その何者かに処遇はまかされているが、何者かが勝手に奴隷のように処していいものではない。ここに「商品としての人間」と「商品としてのもの」との違いがある。その差こそが世間的には「人間の尊厳・・・この己を大切に扱ってくれという叫び」ではないのか。「この己の叫び」を聞いてくれということだと思う。このことが人とものの違いではないのか。

 

4、人間にとって「レッテルの塊 でない部分」は存在するのか。また、存在すればそれは何なのか。どのようなものなのか。

・・・人間の中に商品ではないものがあるのかとの問いになるのかもしれない。人間はある面では商品として存在するが、どこかに商品でないものとして存在している。人間の尊厳とでも言おうか、人が人間として犯してはならないもの、人間が人間として生きていく上での根源的主体性とでもいおうか。根源的自己決定権とでもいおうか。売り買いの対象にならないもの。ただ世界の歴史を見れば、人間が商品としてのみしか存在しなかった例は数限りなくある。自分の中にある売り買いの対象にならないものとは何なのか。あらゆる衆生(生きとし生けるもの)は「己を大切に扱ってくれ」と叫んでいる。この叫びは声なき声かもしれないが。そのことが己の身はわかっていない。己はわがままな存在でしかない。私は自分がかわいいし、「己を大切に扱ってくれ」といつも叫んでいる。人は人と関わり合いながらしか生きていけない。そして、己と衆生の関わり(特に人間関係・・・己と他者のぶつかり合い)のなかで己の身の苦しみや愚かさが出現する。この苦しみや愚かさとの格闘の過程でこのわがままなそして愚かな己を底から照らし出すところのものが見えてくる。それは仏かもしれない。己を照らす仏の光かもしれない。この格闘で己の苦しさや愚かさがなくなるのではない。はっきり見えてくるだけである。「苦しむ者」「愚かな者」これこそが世間での本当の「あんたの姿」だと。商品としての「あんた」は張り子の虎の表皮にしかすぎない。格闘のすえに仏の光で照らし出された「世間での本当の私の姿が」見えてくる。

     

5、人間の「自己否定・自己肯定」と「商品としての存在」の関係はいったい何か。

・・・人間が質とバリエーションにおいて己の能力を発揮するときその人の商品としての値打ちが決まるような気がする。己を商品としてグレードアップするには今ある自己の何ものか(自分が捨てたいと思っているもの)を否定し捨て去り世間にあるもっと価値あるものを自分の一部として取り込んでいくことを意味するのではないか。自らを否定しながら自らを再構築することを意味するのではなかろうか。自己否定を通して自己再構築(自分の思い描く自己を実現する)の過程はさほど簡単ではないし、思うようにはいかない。この過程で何回も失敗を繰り返すと自己の全面否定になってくる。自己否定を通して意識下に捨てた自己を他者に見出したときにおのが意識に他者否定が生じる。

  己が商品として財をなしたりして成功した生き方をしても、最終的には「老い」と「死」がまっている。死は商品が商品として成り立つ基盤の崩壊を意味している。

  そのギャップに苦しむことになる。自分を商品として見て失敗したと感じる生き方は常に自己否定にさいなまれるような気がする。あわせてどのような生き方をしても自分を商品として生きれば必ず他者を商品とみなし否定的に見るし他者との間にトラブルをもたらすことが多いような気がする。自己を肯定して、あるがままに生きること(自らが商品であることを止めるか商品であることに囚われないことが求められる)は商品的生き方からすると成長を止めた生き方であり敗北者の生き方なのかもしれない。禅における「大死一番」とは敗北者であることを自ら引き受けることかもしれない。

 

※人生相談における一例(新聞による)

Aさんは五十代で共働きである。夫婦で頑張って娘を育て上げ大学まで出した。そして娘が今度結婚することになった。喜ばしいことだが、Aさんは悩んでいる。それは中学しか出ていないことである。相手の父親が大学教授で、これからどう付き合っていけばいいか分からないとの相談である。

 

あなたが相談を受けた者であればAさんに何をどう話しますか?

私(末長)はAさんが納得できる話し方はできないと思う。ただそのとき感じたことは、Aさんは今まで中卒という学歴差別で苦しんできたのではなかろうかということ。五十代ということは、これからの人生いつ死が訪れるかわからないなかで己の商品としての価値のなさにAさんはこれからも苦しまなければならないのかということ。もう十分苦しんだと思う。もういいではないか。そんなふざけた人生は捨てなはれ。己を商品として見るのは止めなはれ。商品として生きるのを止めなはれ。

 

※人生相談における一例(新聞による)

四十代の男性。本当につまらないことで悩んでいます。人の目を気にしてしまうのです。職場でふと、「自分は同僚からダメなやつだと思われていないか」と勝手に考えてしまいます。すると、目を閉じるたびにまぶたがパチパチします。食事も帰り支度も、何をするのも面倒になります。自宅に帰って二時間ぐらいすると自然に治ります。しかし、その間に多大なストレスを抱え込んでしまいます。毎日毎日こんな状態。そのほかの日常生活には何の不自由もなく、問題もありません。「自分はダメなやつ」と考えなくても済む手立ては何かないでしょうか。考え込むと、胸がドキドキし、手が震えてしまいます。人の視線も気になります。ごく普通の生活でも構わないから毎日、穏やかに過ごしたいです。

 

あなたが、相談を受けた者であればこの四十代の男性にどう話しますか?

ここで回答者のものを載せておきます。

あなたは「つまらないものとおっしゃいますが、これは多くの人に共通する悩みだと思います。この根本は自分に対する自信のなさですね。自信がないから、回りの人の承認を得て、はじめて安心できる。だから人が自分をどう見ているかがいつも気になるわけです。本当は「何不自由なく、問題なく過ごしている」あなたのことを他人がどうこう思うわけもないんですが・・・・。 

もちろん、ご自身もそれは分かっている。「勝手に」考えてしまう、と書いてありますからね。これは「ダメなやつと思われていないか」などと感じたとき、二つのことだけ考えてください。まず、「その根拠は?」です。たいていは、「何となく顔つきで・・・」とか「ばかにした口調だ」とか、薄弱な根拠しかないことに気づくはず。次に、「ダメなやつだと思われたとして、どうなるのか?」と自問します。「まさか首になることはあるまい」「あまり出来すぎても、かえって嫌われる」などと楽観論が浮かべばしめたもの。帰宅後の時間を待つのもよいですが、会社で事態が生じるたびに、さっと二つの質問に答える習慣をつけることをお勧めします。

 

6、自己とは何か。

痛いときには痛い、腹が減ったときには腹が減ったともの申すところの身を主体とする自己がある。感性の根源・喜怒哀楽の根源としての自己がある。これは生きとし生けるものにはすべてあると思う。そして自分の中に言語的関係世界を作り上げていくその過程で他者から言語的世界を受け取り他者へ言語的世界を発信する核としての自己が作られていく。この二つの自己は併存するとも考えられるし、前者の上に後者が重なり融合してひとつの自己になっていくとも考えられるのかもしれない。このような自己は身体や精神をコントロールして社会や世間に適合することを目指す。自己とは何かと問うことは社会とは何か世間とは何かと問うことと同じことではないか。身体的な自己は天与のものだと思うが、「精神的な自己の歴史や在り様」は社会との関わりや自己との格闘の結果を反映している。

 

7、仏とは何者か。

我々の自己はこの身を維持しコントロールする自己、精神をコントロールする自己の二つから成り立っている。前者は生きとし生けるものが持つもので、後者は人間にしかないのかもしれない。そしてこの二者は融合してその人となりを形成している。この二者を下支えして動かしているものが本能と三毒(愚かさ・貪り・怒り)ではなかろうか。「本能と三毒」は「この身・この己を大切に扱ってくれ」という「叫び」となって現れてくる。世間や社会では人間を役に立つか立たないか即ち人材かどうか、役割は何かまたその役割をしっかりはたしているかどうかで見ているしそのように人間を育成している。即ち人間の商品化である。人間は自分に商品としての付加価値をつけることを人生の最大の目標としている。張り子の虎のように付加価値のついたレッテルを自己に幾重にもはることに夢中になっている。人はりっぱな張り子の虎になろうとしている。それに疲れている人もいるし、思いどおりにならなくていらいらしている人もたくさんいる。人間が精神的であることは自分の中に言語的関係世界を作り上げることで可能となる。その世界をたどり写真のように固定化することでその世界が持つ意味が理解できるようになる。これが反省といわれるものではないか。ここにおいて自他関係が客観視できるようになると思う。人間の精神はあらゆるものを商品としてみなし取り扱うように出来ているのではないか。自らも含めて。極端にいえば人間にとっては存在してほしいもののみ存在し、存在してほしくないものは存在しないし存在することが許されない。人間精神はオールマイティでもないし「生存」に縛られて現実という一点に集中しているかぎり、「世間を生きる上での精神の働き=世界の商品化」はやむを得ないと思う。反省の質と量における拡大こそが仏への道となる。この拡大は自己との格闘なくしてはありえない。己事究明は自己反省と言われるような生やさしいものではない。その人の生きてきた歴史・全ての記憶・全ての意識との格闘なくしてはありえない。そこにこそ仏の照らし出しが生まれる。この格闘は我々が見ようとしないものを見ることを求める。まず、それは「己の苦しみと愚かさ」を直視することを求める。また、我々は大自然とも繋がっている。そしてその中で不必要と見えるものの存在を切り捨ててきた。切り捨てられた存在を復活させあらゆるものの自然なほんとうの関係を復活させることが求められている。仏の働きとは「己が切り捨ててきたもの」との関係復活ではなかろうか。「世間を生きる上での精神の働き=世界の商品化」はやむを得ないものとしてもどこかでストップをかけ、切り捨て見向きもしなかったものや見ようとしなかったものとの関係復活が必要ではないか。即ち縁起そのものを見ることが求められている。我々は縁起そのものではなく自分にとって都合のいいものをピックアップしてそれを縁起としてきたが、そうではない。たとえば坐禅にしろ念仏にしろ呼吸がポイントになるかと思うが念を追うなということだと思う(雑念は捨て置けということ)。そうすると身が身であることが分かってくるのではないか。そこには自己ではなく自然の一部であるそのものが感じとれるのではなかろうか。それは大自然と己の関係復活ではないか。

我々が世間で生きるときには「世界を商品化」して生きている。あわせて三毒まみれで生きている。これは娑婆に生きているかぎりやむを得ないのかもしれない。しかし、この世で私の身に「仏の照らし出し」があれば、世界の商品化を止め縁起そのものに帰ることが多少なりとも可能ではなかろうか。そして、自らが商品であることに気づき商品であることを止めなければならない。少なくとも、世間で生きるかぎり己は商品または商品の一部にすぎないとのはっきりした自覚がなければいけない。この徹底した自覚こそが「存在」を「存在」としてあるがままに受け入れることを可能にするのではなかろうか。「松」のことは「松」に聞くしかない。常に耳を傾けることではないのか。世界の商品化を止め生きとし生ける者の声に耳を傾けることではないのか。衆生の「己を大切に扱ってくれ」という叫びに耳を傾けることが大切ではないのか。自らの身(体)であっても勝手にコントロールできるものではなく大自然の一部でしかなく自らが自らの身に耳を傾けることで大自然の一部として再生するのではないか。仏と生きるとはそういうことではないか。仏と共に生きるとはこの一連のプロセスを繰り返しながら生きることではないか。

 

以上のことを整理してみると・・・

人間は頭の中で言葉による世界を作り上げその世界を拠り所に生活をし考え行動をしている。たった一つの言葉・単語がレッテルであり、時として言葉と言葉を繋いだ文章的世界がレッテルになる場合もある。そのレッテル(の集まり)といわれる言語世界は他者と共有・共感されるものである。他者との感じ方が多少異なったとしてもやはり共有・共感されうるものだと思う。それは我々を取り巻く世界のいろんな物や現象となんらかの形で繋がり、物や現象の本質の全てとは言わないが一部と繋がり真実を内包している。簡単に言えば私と他者と我々をとりまくものが言語的世界で繋がっている。この三者はコミュニケーションが可能であるといえるのではないか。我々は他者と繋がりをもった言語的関係世界の中で生活をし、その言語的関係世界を他者との関係を通して現実の中で常に再構築し直している。そして現実の重みこそが自らの言語的関係世界の中核をなしている。この現実の重みを自らの言語的関係世界が失えばそれは物語となり妄想となってしまう。言語的関係世界を下支えする身体言語の世界がある。食事をするとき、歯磨きをするとき、物を動かすとき等々、身を直接的具体的に処する世界である。その上に接ぎ木され言語的関係世界が花開く。この二者が合体し融合し己を己たらしめている。それは生を受けてから今に到るまでの全ての記憶かもしれない。この記憶こそが意識を意識たらしめている。人間の記憶には視覚的なものが大きなウエートを占めているのは確かであるが、普遍性を持たしているのは言語的なものではなかろうか。この普遍性こそが人と人の繋がりを可能にしていると思う。「身体及び言語的関係世界」こそが「この私」でありその中の一部が私をして「商品」たらしめているのではないだろうか。「私」と「商品としての私」の差こそが大切だと思う。「商品的な言語的関係世界」は私を他者から守っているし、私の何者かが外へ流失するのを防いでいる。それは鎧そのものであり、中が空洞である張り子の虎そのものではないか。この空洞のなかにあり表皮の張り子を支えているものは「本能と三毒」の現れである「この己を大切に扱ってくれという叫び・思い」ではないか。そして中は空っぽではないのか。「鎧」と「空洞」と「鎧を支える思い」これこそが人間の構造ではないのか。このことが仏の照らし出しで見えてくる。「商品的な言語的関係世界」が崩壊すると覆いがなくなり「空洞そのもの」が出現するのではないか。「この己」は「空っぽ」だったと。そこにこそ本来の縁起的世界が入りうる可能性がある。縁起が再生するのではなかろうか。自分の言語的関係世界の中で自らを支えたり自らを揺り動かすものがある。我々は言語の大海の中を浮遊している。その大海の中で私を勇気づけ支える言語的世界(レッテル)を構築し手に入れそしてそれをもとに自己実現をはかっている。それは希望という名のレッテルかもしれない。目標という名のレッテルかもしれない。今自分を支えている家族という名のレッテルかもしれない。また経済的に支えている○○の仕事という名のレッテルかもしれない。このことが前向きに生きるということの意味ではないのか。勇気づけ支える言語的世界(レッテル)を知り手に入れたいと思っても自己実現できないときが多々ある。ここに人間の苦しみがある。希望しない言語的世界(レッテル)を社会や他者から無理矢理押しつけられそれを「今の自分」とせざるを得ないときにも苦しみが生ずる。「希望する世界」と「現実の世界」には溝がある。この溝をどう埋めるのかが問われている。「希望する世界」に向けて自己実現をはかるのは「自らの言語的関係世界」の中で「現実の捨てたい自分」を否定することで可能になる。我々は生まれたとき、あるいは幼少期・少年時代には自分で好むと好まざるとに関わらず与えられた「今の自分」がある。前を向いて生きるとは「今の自分の何らかのもの」を否定しはぎ取り「新たな何ものか」を自ら手に入れ自分を再構成・再構築するということではないのだろうか。我々の体は日々新陳代謝を行っている。これと同じように精神もある種の新陳代謝を行っているといえないだろうか。「今の自分」というものが 100ピースのコマで構成されているとすれば、折に触れ自ら欲しない数ピースのコマを捨て欲するコマに交換することを日々行っている。何らかの事情で自ら欲しない今の持ちゴマが捨てられず、欲するコマが入手できないとき苦悩が生ずる。あるいは、今の持ちゴマよりもっと悪いコマと交換せざるを得ないとき苦悩が生ずる。人により持ちゴマのコマ数に幅があり、そのコマの質にバリエーションがあるとすればそのコマ数とバリエーションこそが人の商品としての値打ちになってくるのではないか。

人間には自らを商品として生きる道と商品であることを捨てて生きる道があると思う。商品として生きるとき、うまくいけば人生の勝者としての喜びがあるかもしれない。しかしその過程には自己否定と他者否定が内在しているように思う。そして、商品であることに苦しむことが多々あるような気がする。商品として人生を歩んだとしても「老い」と「死」を目前にしたとき、商品であることの基盤が崩壊する。これを自ら説明し納得するのは時間的に厳しい。

商品であることを捨てることは自らの鎧を取り外し裸になることを意味する。そこに現れるのは「空洞」と「苦しみ愚かな者としての己の姿」である。その姿を直視するしかない。直視するなかで本来の縁起が空洞を埋めてくれるような気がする。そのなかで人の自由自在な働きが生まれるような気がする。