平常底

米田 俊秀

 

 『無門関』(一二二八年成立)に「平常心是道」とある。つまり普段の、日常性の働きや心がそのまま仏道である、と解されていると思う。そのことはまた、怪・力・乱・神を語らず、内に外に馳駆することなかれ。そもそも求めんと欲すれば、即ち背くともいわれる。今ここ、こそが真であると。しかしこの平常底・日常性は単に素朴に与えられている所与と見るべきものではなく、久松(「平常心」昭和一六年)によると、「ジンテージスに」成り立っているものだという。つまり矛盾の自己同一に成り立つもので、平常のものは有即無、常即無常という根本構造をもつものだという。この平常のもは、矛盾の統一、つまり矛盾を平らげることであり、その事が常、現在という意味をもつものだということであろう。そしてそこに私という自己が在るということであろうと思う。

 無常生滅の現実にあって平らげられ、常なる処、つまり平常底・日常性であり、そこに成り立っている処が我々が真に生きている世界だと云える、ということであろう。仏教の根本的な修行もそこに見い出されているのではないかと思う。例えば、「天台小止観」にあるように、止(禅定)・観(智慧)という二つの法門が遂げられることによって、そこに見いだされる深き平常底にあるのではないかと思う。止まれる今、つまり無常生滅の現実を止めて観るという行法といえる。平らげ、止め(止・定)観る(直観・慧)ところに自己の安心と智慧を求めることができる平常底に達すると考えられる。

 また諸芸の極意といわれるものも、この平常底に成り立っているものでなければならないであろう。つまり考えうる、起こりうる一切の反立が止揚されたジンテージス、そこに平常底が成り立っていなければならないであろう。さもなければ芸あるいは武は、動揺のうちに消滅することになる。骨(こつ)、とはその智を意味するものでなければならない。技は技術智であり、人間の本質に与するものである。したがって武道、芸道において稽古が本質的に伴われるのはこの反立を統一するということの絶えざる営みと考えられる。久松はこの日本古来の芸道に伝承される鍛練法である骨を得るということ、これは学問的知とは違う智、対象的知とは異なる主体的智というべき智慧だとしている。いわゆる身体的智というべきものであろう。武道、芸道が成り立つには絶えざる身体の鍛練が必要とされるのである。単純な技法の習得というべきでなく、身体智において始めて統一が成り立ち得るということである。動揺なく即対応が可能になるというのであり、泰然たる振る舞いが自若として我が物になるということで、そこに私が現成しているといえるのではないのだろうか。

 身体とはどういうものなのかを、メルロ・ポンティは、此処に在ると同時に今に在るもので時間空間に住み込んでいるものであるという(『知覚の現象学』)。私の身体は時間空間に属しているものであり、かつそれらに張り付いているもので、それらを包摂しているものだという。従ってその包摂の広さが私の実存の広さともなるのである。例えば、オルガン奏者の反復練習する彼の所作について、それはあたかも占い師の所作が聖域を棒で劃するようにひとつの表出空間を創造する、という。プルーストの一節(『スワン家の方へ』)を引いて、ヴァイオリンでその一楽節を演奏しているというよりはむしろ、その一楽節から要求されていた儀式を遂行しているように思われた、と描写される。稽古をするということが身体を通してジンテージスが可能になっていくということで、それが習慣に成って行くということになり、平常が成り立つということであろう。その習慣、エトスに自己が形成されていくということなのである。茶道、剣道にしても剣の剣たる本質が現われ、茶にしても茶を飲むということが周囲へと現出されていくものだと思われる。それが芸道における平常底の真相だと思われる。その場合にも習慣の形成が重要な意味をもつもので、習慣は世界の媒体として身体の中に宿るものであるということである。ただこの習慣の安定性のみに固着するとき、凡庸さに頽落するのである。

 しかし更に人間的生命的な統一を現成することが倫理的、歴史的行為に成り、芸道よりもより深く平常底に徹することにならねばならぬということであろう。それは絶対の矛盾の統一が果たされていなければならないであろう。つまり絶対の反立の統一、それが平常底になるということでなければならないということなのであろう。その絶対の反立が虚無・死ということである。その絶対統一の契機に基本的公案が置かれているのであろう。絶対否定即絶対肯定という宗教による歴史的世界の批判がなければならないと久松はいう