アンゲルス・ジレージウスの詩について
川﨑 幸夫
詩人アンゲルス・ジレージウスの生涯については「風信」五九号において一通りのことを述べたので、今回以降は彼の代表的な作品である『智天使ケルビムの蹤を尋ねる漂泊者』（Cherbinischer Wandersmann）のなかから二十数編の詩を採上げて解釈を加えることにした。その際にそれらを以下のように六つの項目に分け、排列に順位を定めることによって、宗教家としての彼の思想が深化してゆく過程を反映させるように心掛けた。
（一）生死について。
（二）私なくしては神もなし。
（三）魂の取るべき態度。
（四）魂＝神。
（五）超神。
（六）沙漠。
さて最初にお断りをしておかねばならないことがある。五月五日の総会に先立って行なった講演の際に配布した資料の中では、項目（一）の名稱は「死について」となっていたのであるが、今回再考した結果、これでは詩人の示した境涯を語るには不十分であることに気づいたので、「生死について」と改めることにした。固よりいきなりこのように述べてみても、二つの標題の間にどれほどの差異があるかは一寸納得がゆかないであろうが、実は私が若い頃に書いた二篇の論文で論じた事柄が背景にある。そこでは「死の問題」という枠組で、哲学の場合はソクラテス——プラトン（前期）的な問題設定と、それを色濃く反映した原始キリスト教の場合を典型的な例とし、「生死の問題」という枠組みの内にはエックハルトと禅（道元）とを含めて、両者の差異を明確にしようと試みた。「死の問題」Todesproblemという言葉は、ソクラテスが毒盃を飲み干す直前に弟子たちに語って聞かせた「哲学とは死の練習である」という命題を論証する過程を定式化した表現として一般的に受け容れられており、久松先生のいわれる西洋的な「有の論理」の根幹乃至出発点をなすものといってよい。そのようないわば方法としての「死」の論証を支えているのは、「存在―永遠―真理―魂（理性）―生命」と「非有（虚無）―時間―嘘偽・誤謬―身体（感性的欲求）―死」という二組の基本概念の枠組みが、それぞれの内部では「同一」、相互的には「反対」という純粋に二値論理の法則に則って構成されていることに着目した。また原始キリスト教の場合も、キリスト信仰の出発点に、この世の生命を棄てて永遠なる生命へと移行することがイエスに随伴することの根幹をなすと説かれ、哲学的な「死の問題」を構成する枠組みを色濃く反映していることを論じた。
これに反して、エックハルトと禅（道元）の立場は「有の論理」を転覆させる一切皆空の場で開演され、「死の問題」を支えた同一と反対の規定は不二に還元されることになる。例えば道元の『正法眼蔵・第四一全機』においては、「生も生を透脱し、死も死を透脱するなり」（岩波文庫・衛藤版・中巻一五五頁）と明言されたように、生と死は自らの相に固定されたものではなく、「生は全機現なり、死は全機現なり。しるべし、自己に無量の法あるなかに、生あり、死あるなり」（仝）と了得せねばならない、と覺悟を迫られる。したがってそこには死から生への移行ということは起り得ない。そのほか「死の問題」の枠組の下で固定された一切の二項対立は一切皆空の否定力によって仮初めのこととなってしまう。このような生死即無生死、無生死即生死底の現成を期して、向上（修）と向下（証）の全体作用化を工夫するという生き方を当時の私は「生死の問題」と命名したのであったが、いま振返ってみれば、このような呼称では不十分不分明であって、仏教思想に関心のない近代主義者には「ショウジ」とすら読んで貰えなかったことであろう。
また「問題」という語も、これは元来「死の問題」的枠組に属する語であるから、私のいわんとする「無生死底」を指すためには不適切な語であったといわねばならない。なぜならば「問題」という漢語自体が諸橋の『大漢和辞典』をみても漢籍の出典は示されず、英語などのproblemという単語の訳語として一般に知られている程度の意味しか記されてないから、多分由緒正しい漢語ではないと思われる。抑々problemという単語はギリシア語のproballow（前に向って投げる）という動詞から派生した名詞problēma（前に向って投げられたもの）に端を発し、元来は軍事用語として使われ、防禦用の「柵」とか「障害物」を意味したのである。それが紀元前四世紀頃から幾何学や論理学の用語に轉用されて、「問題」を意味するようになり、プラトンの『ポリテイア（国家）』第七巻十一章（岩波文庫版・上巻一三六頁）や『テアイテトス』（岩波文庫版一二八頁）に見出される。したがつてそれは解決するには嚴密な思考で腦味噌に無理な跳躍を強要する課題を指すことになろう。そこで「問題」という語は不適切ということになれば思切って「生死即無生死底の工夫」或いは「生死の関門」と言い替えてみるのも一策かも知れないが、禅的表現を受けつけない人たちには最初から拒否反應を喰らうだけであろう。
それでは彼の個々の作品を具体的に味わってゆくことにしよう。ところで『風信』は別に専門的な学術雑誌ではないので、ドイツ語の原詩を載せる必要はないと思われるかもしれないが、作詩法とか、表現形式上の詩人の工夫などにも多少は触れてみたいと思うので、ドイツ語による原詩のほかに、詩人自身が付けたラテン語聖書からの引用も示すことにした。ところが総会の際に配布した資料には、岩波文庫の手本になったReclam版に収められたルイーゼ・グネーディンガーによる原典批判的校訂版（一九八五年刊）から引用し、詩人が生きていた時代と場処で話されていた初期新高ドイツ語で記されたとおりに筆記したので、文字どおり原詩の姿でお目にかけたのであるが、全体的にかなり古風であり、一八世紀以降の新高ドイツ語には見られない記号がついていたりしたので、余計に読みづらく感ぜられたことであろう。そこで今回は同じグネーディンガーによって新高ドイツ語に改められたManesse社刊のテクストを用いることにした。
それから「初期新高ドイツ語」という名称は一般には分りにくいこととおもわれるので、若干付け加えておきたい。ドイツ語を語るドイツ民族は最初から多くの部族に岐れていて、それぞれの方言を語っていたらしいが、それらは大別して、北三分の一を占める平野部（低地）の方言と、南三分の二を占める山間部（高地）の方言に分類されており、それぞれ低ドイツ語と高ドイツ語と名づけられていて、かなり性格が違う。このような地域的な差異のほかに時代的にも相当変動があり、平成四年刊の工藤康弘、藤代幸一著『初期新高ドイツ語』（大学書林刊）によると、七五〇年から一〇五〇年までを古代、一〇五〇年から一三五〇年までを中世、一三五〇年から一六五〇年までを初期近世、一六五〇年以降を近世と、四つの時代に分類されている。但し工藤・藤代本以前では四つの時期は四つとも五十年づつ下げられていたし、一口に初期新高ドイツ語とはいっても、アンゲルス・ジレージウスが語っていたシュレージア方言と、アルプスの山麓地方で使われていた中世の吟遊詩人の傳統を引くアレマン方言とは大きな隔たりがある。いづれにせよドイツ語とは方言の集大成であって、時代と地域という二つの区分原理を結合して、例えば「新高ドイツ語」と言う風に分類されている。但し近世をあらわすneuという形容詞は新旧の「新」を意味するのではなく、古代・中世と区別する近世を意味しているのだから、「近高ドイツ語」と表記する方がよいと私は思っているが、専門家たちによって規範化されているので、反抗しても所詮蟷螂の斧と諦めている。
なお採上げられた詩はすべて詩集『智天使ケルビムの蹤を尋ねる漂泊者』に収められた作品であり、付けられた番号はローマ数字で巻数を表示し、アラビア数字は各巻に排列された番号を表わしている。
（一）生死について
I,31. DAS IMMERWÄHRENDE STERBEN.
Ich sterb und（イ） lebe Gott:（ロ）
will ich ihm ewig leben,
So muss ich ewig auch vor（ハ）ihm den
Geist aufgeben. 1
1 mystice i.e. resignare. — In mystischer Redeweise
heisst dies
resignare,
sich aufgeben.
いつまでも死に続けること。
私は神のために（ロ）死んで、それか
ら復た（イ）生きるのだ。もし私
が神のために永遠に生きていたい
と願うのであれば、
私はやはり神のために（ハ）、永しえ
に命を棄て続けていなければなら
ないのだ。
原注１ 神秘家たちの語法にしたがえば、Geist（命）を放棄するということは（外への欲求にしたがう）自己を断念し、棄てるということを意味する。
（イ）このundは英語ではandであるが、次の詩三十二番の注（イ）を参照してほしい。このundは並列的な用法ではなく、時間的接續の意味であると解釈した。
（ロ）ドイツ語ではGottがキリスト教の人格神を指す場合には冠詞をつけないので、何格に取るかが問題となる。しかしここでは同じ前句の後半ではihmと三格で示されいるので、当然ここでも三格と見做した。プラールおよびシュジニによる二種のフランス語訳が「神」の前にpour（ために）という前置詞を補っているのは、その点を明確にするためであろう。
（ハ） レクラム版では、vorではなく、fürとなっている。また一九五一年に出たH. L. Heldによる記念碑的な「全集」をはじめ、それ以前に出た多くの版でもすべてfürとなっている。vorと改めると「神の面前で」と解釈し勝ちであろう。しかしfürとvorとは元来同じ語で十八世紀頃までは混同されており、大体旧ての東独と西独の国境あたりが二つの単語の境界線だったらしい。グネーディンガーもマネッセ版の巻末につけた語彙集には、vorの語義をfür, vorher, ehedem, zuvor, eherと説明しており、この語の両義性を認めている。いずれにしても、ここは「神の面前でも」と取ると解釈が混乱するであろう。フランス語訳もやはりpourで通している。
なおこの詩は「講演」の際に配布した資料の中には採入れてなかったのであるが、次につづく三十二番の詩を理解するための前提となっているところがあるので、収めることにした。なお原注１で触れられている"den Geist
aufgeben"は直訳すれば「Geist（精神）を放棄する」と生硬な表現になるが、Geistという語はここでは近世的な意味ではなく、「霊魂」とか、（神によって人間や動物に吹き込まれた）「精気、活力」を意味し、更にギリシア語のpsychē, pneumaやラテン語のspiritus（風、呼吸作用、霊魂、精霊）につらなるので、「息を失う、命を絶つ」を意味する聖書に由来する雅語的表現として広く使われている。ここでは本詩の表題や前句の始めに使われたsterben（死ぬ）とともに、別に身体的生命の剥奪を意味するのではなく、わざわざ詩人が自分で注記したように「神秘家たちの語法に則って」語られているのであり、神以外のものを生の目標とする世俗的意志の完全な滅却、即ち、神秘主義の第一段階とされている魂の純化、「浄罪道」via purgativaの完成態を意味している。
それから詩法上のことを説明しておくと——実は私はこういう事柄にはまったくの不案内といってよいのだが——アンゲルス・ジレージウスの詩はほとんどの場合「アレクサンドル句格詩」といわれ、一句は長短十二乃至十三の音節から構成され、六乃至七音節目に意味の切れ目が置かれ、彼の場合は大部分が二行詩の形をとっている。それから各行とも最後の音節は韻を合わせなければならない。本詩の場合は二音節まで完全に韻が合っており、前句末のlebenとぴったり共鳴するようにと、意図的にaufgebenを持って来たことは明白といえよう。このような点を考えると、彼の詩の理想的な翻訳は、日本語訳であれフランス語訳であれ不可能であり、敢えてそれに拘泥したシュジニ訳は天晴でもあったが、見事な失敗でもあった。
I. 32 GOTT STIRBT UND（イ） LEBT IN
UNS.
Ich sterb und leb auch
nicht 2: Gott
selber stirbt in mir,
Und
was ich leben soll, lebt er auch
für
und für. 3.
2. Quia
originaliter ab ipso profluit virtus mortificationis. Item
secundum
Paul. 2. Cor. 3, 10 mortificationem Jesu. ——Denn
von
ihm selbst geht die Kraft der Abtötung ursprunglich aus. So
auch
nach Paulus 2. Kor. 3, 10 die Abtötung Jesu.
3.
Vivo, jam non ego, sed Christus in me. ——Nicht mehr ich lebe,
sondern
Christus lebt in mir (Gal. 2, 20).
神がわれわれの内で死に、そして復た
（イ）生きているのだ。
私が死んで、そして復た生きているの
だ、というわけではない（２）。
神自身が自から私の内で死ぬの
だ。
それで、どうして私が生きていなけれ
ばならないのかというと、それは
神がやはり（私の内で（ロ））
いついつまでも生きているから
（３）なのだ。
原注（２）「なぜかというと、（神が蒙った）死（を受容する）能力は、本源的には、神自身から流れ出たのであるから。それとまったく同様のことが、パウロによって、『コリント後書』三・一〇において、「イエスの死を……」（ハ）と書かれている。
原注（３）「もはや私が生きているのではない、キリストが私の内で（生きているのだ（ニ）」。
（イ）ここのundは「そして復た」と訳したが決して並列的な意味ではなく、岩崎・小野寺共編の『ドイツ語不変化詞辞典』（白水社）で検討した結果、「時間的接続の含みをもつ」た da, dann を意味する場合に相当すると考えられる。これを命令形にすれば、ゲーテの有名な句「死して、なれ。」が浮かんでくるであらう。これに対し、詩の前句の前半にある und の場合はどう考えたらよいであろうか。この場合は神における死から生への転換とはまったく異なって、むしろ凡夫の現世的な生き方に即して理解されており、単に「並列的」な在り方を指しているとも考えられよう。しかしそれでもやはり死が先に置かれ、生はその後に来る、という順序が変わっていないところを見ると、神における死復活の出来事の反復もしくは模倣を、信仰する人間にも看取したのかも知れない。更に後句の先頭に置かれた und は「帰結」を示していると考えられ、daher（そのことから） の意味で語られていると受取ってよいであろう。
（ロ）この括弧つきの一句は私が勝手に補ったのであるが、原詩で伏せられていたものをわざわざ白日の下に曝そうとしたのは、詩人の意図を明確にしたいためである。ここで書き込まれているべきであった"in mir"が省かれたのは、音節が超過するのを惧れたのと、同じ表現を繰返す野暮を避けたからであろうと推測した。
（ハ）詩人はこの聖句の出典をこのように述べているが、ルター譯を含めて何語の版であれ四章一〇節である。なおヴルガータ譯聖書ではたしかにここはmortificationem
IESUと書かれている。Klotzの辞典ではmortificatioの訳はTödtung（殺害）とあり、テルトゥリアーヌスの用例が示されている。しかし他動詞だとイエスの死は外部から加えられた理不尽な暴力の結果に過ぎないことになり、イエス自身に備わる能力（virtus）と見倣すことはできなくなる。これに反して、ケンブリッジ刊のギリシア語新約聖書を見ると、mortificatioに相当する箇所は「イエスのnekrōsis」と語られている。オックスフォード刊の希英辞典によると、nekrōsisにはmortificationとdeathの二通りの語義が示され、このdeathの用例として、まさしくコリント後書四・一〇が挙げられている。deathだと文字通り「死」を意味し、life（生）の反対語とされるから、本詩の詩想や詩人の付けた自注の趣旨とぴったり一致する。それから研究社刊のNew English-Japanese Dictionaryではmortificationには「殺害」の意味は見られず、（一）「苦行、禁欲」と（二）「屈辱，無念」のみが示されている。更にmortificationの元になった動詞mortifyの第一と第二の意味は苦行と屈辱とされ、第三には「殺す・活力を失わせる」があがっているが、廃語とされている。いずれにせよ、これが「他殺」を意味するのでは芳しくない。本当は更にキッテルの『新約聖書神学辞典』を見るべきなのだが、手許にはないので、暫くは見送るよりほかはない。
（ニ）詩人はこの聖句の出典を示していないが、あまりにも有名だったからであろう。即ち「ガラテア書」二・二〇である。ところでこの一句はしばしばここだけ引離されて一人歩きしがちであるが、実はその直前にある以下の聖句と緊密に結びつけられていることを想い起さねばならない。即ち「私は神に生きるために、律法によつて律法に死に果てた。私はキリストとともに十字架につけられたのである」（Ego enim per legem, legi mortuus sum, ut Deo vivam; Christo confixus
sum cruci;, Gal, 2.19）と述べられている。これを見ると、十九節と二〇節とは前提と結論という関係に置かれていると言切ってよいであろう。かくして「神に生きる」、即ち「もはや私がではなく、キリストが私の内で生きている」ということが成就されるためには（ut Deo vivam）、「キリストとともに十字架に付けられて」、罪人としての自己を死滅させ、もはや「私は生きていない」という域に達することが前提となっているのは明白といえよう。以上のような点に着目して、旧てアルバート・シュバイツァーは一九二九年に名著『使徒パウロの神秘主義』Die Mystik des Apostels Paulusを刊行したが、その中でパウロの霊性を「キリストとともに死復活して在る、という神秘主義」Die Mystik des Gestorben-und-
Auferstandenseins mit Christoと特色づけたが、本詩におけるアンゲルス・ジレージウスとは深く照應し合う点があるといえよう。なおシュバイツァーの前掲書は武藤一雄訳で全集中の一巻として大分以前に出版されたが、出版社の名前は憶えていない。
以上で必要最低限の注記は一応完了したと思われるので、それを踏まえた上で本詩の主題について若干の考察を試みることにしたい。
まず表題についてであるが、この僅か六つの単語で綴られた命題を前にしたならば、誰しも或る種の衝撃を感じ、俄には受け容れ難い主題がいくつも折り重なっているのを看取するであろう。その一つは、それ自身が永遠の生命であり、しかもあらゆる生命に対して生命の根源となる「神にも死と生がある」と主張されていることであり、しかも死を先にして、生はその後に続くという順序に置かれていて、通常の時間意識の流れの中では逆走させられることになる。第三には人間に超越的な神の出来事が「われわれの内で」生起すると語られていることである。しかしこのような戸迷いは人間の生死の場合を規準にしていることから生ずるのであって、詩人が珍しくわざわざ自注を施してパウロの聖句を二つも引用していることに留意するならば、本詩で語られているのはキリスト・イエスの死復活の物語を背景としているのだ、ということに気づくであろう。
イエスの死復活の模様は共観福音書によって伝えられており、総督ピラトの兵士たちによってイエスはゴルゴタ、即ち髑髏（されこうべ）の場処に連れて行かれて、十字架上に釘づけられるという最も屈辱的な刑罰を受けて殺害され、三日後に蘇った、と語られている。このことが真理として確立されている以上、万物の主にして且つ父に次いで第二のペルソナとして信仰される御子イエス・キリストたる「神が死んで、そしてまた生きている」という主題は歴史的事実としても、信仰の伝統に照らしても、揺るぎなき事実とされることは疑いの余地がない。しかし他方において、人間をも含めたすべての有限的な生命体においては、まず始めに誕生があり、さまざまな時間の経過の後に、個体の死を迎えることになる。
これに反してキリスト教の人格神の場合には、「己を空しくすること」kenōsis（ピリピ書二・七）によって具えた人性上の死が先行し、その後に神性に基づく霊的な生が復活し、純粋に霊的な神として永遠の命を保つとされる。死復活の場処はゴルゴタと名づけられ、遠く離れた特定の場処であり、しかも一六〇〇年以上も前に起った出来事であったのに、なにゆえに「われわれ（各人）の内で」、しかも現在の出来事として起ると語られたのであろうか。詩人の言葉に確信に溢れた力が感ぜられる以上、それは単なるPhantasieとしてではなく、魂の現実として受取られなければならない。そうだとすると、「われわれの内」という言葉で、一体どのような場が想定されていたのであろうか。言うまでもなくそれが個々の可滅的な身体の内部を指すと勘違いすることはあり得ないが、さりとてそれが各人の身体から切離された、いわば自意識の内部を指すものでもありえない。そこで私個人の内面に閉篭った、孤立した領域でもないとすると、時代の潮流からいって、十五世紀以降のドイツ語圏において広範囲に影響力を発揮した所謂「ドイツ的敬虔」（Frömmigkeit）もしくは「ドイツ的内面性」と呼ばれた思想家の系譜が考えられよう。このような傾向を代表する人としてはトマス・ア・ケンピス、『ドイツ神学』の著者やヨーハン・アルントを経て、十八世紀初頭に及ぶ「敬虔主義」Pietismusの流れが挙げられようが、彼らにとってはイエス・キリストの人性面に主眼が向けられ、完全な道徳的人格の具現者として、高く掲げられた模範に留まっていた。したがって彼らにとってはキリストの死復活は既に完了した事態であったのではなかろうか。
しかしアンゲルス・ジレージウスのいう「われわれの内」とは、世間的利害や政治権力の闘争から隔絶された、静寂な空間ではありえなかったのであり、カトリック的正統性を否定する荒波が絶えず打ちつけていた。十字架上における神の子の殺害と復活という、史上最大といってよい激しいドラマの繰返しにも耐えられるような柔軟性を具えるためには、魂は涅槃の如くに一切の有的なものを焼盡した、絶対的な無の場処としか言い得ないようなものとなることが求められたのではなかろうか。
このように「絶対的な無の場処」という表現を用いると、直ちに“禪語〝はいかん！とか、西田哲学の亜流だとか、目くじらを立てる向きがあるかも知れぬが、そもそも禪語なるものを毛嫌いする人間に禪語のなにが判っているのであろうか。禅語の中には『臨済録』の珍重する「途中」も「無事」も「自己」も含まれ、おそらく『無門関』で伝わったのであろう「機関」も使えず、『碧巖録』の「投機」、『傳燈録』の「単刀直入」もダメ、道元の『普勧坐禅儀』でお目見えした「蒲團」も「椅子」も仕舞い込むとなったら、われわれの日常生活も送れないではないか。まあそういう連中をもぐら叩きしてみても始まらないので、お好みの和製英語でもお使い頂くことにして、詩人の熱烈なキリスト教信仰の真唯中から、絶対無に比肩すべき「われわれの内」が発現（或いは熟成）するに至った背景を手探りしてみたい。
キリスト教の歴史の中で、「内」と「外」という対概念が信仰の本質を表現するための重要な定式として登場したのは、多分パウロが採上げた「内なる人」と「外なる人」とを際立たせる構図であったろう。彼は「コリント後書」四・一六において、「外なる人は壊（やぶ）れる」が、「内なる人は日日に新たなり」と図式化している。このような簡素な定式の背後には、律法の定めた実行不可能な命令と、自己僞瞞との相剋に苦しんだパウロの長い經験が煮つめられている。善への意志を奮い起こさせようとすればするほど、却って罪えの隷属を欲して、反意志に引曳られて悪を行なう涯しなき抗争に苦しんだ彼は次のように有名な一句を吐いた。「われ、中（うち）なる人（interior homo）にては神の律法を悦べど、わが肢体のうちに他の法（のり）ありて我が心の法と戦い、我を肢体の中にある罪の法の下に虜（とりこ）とするを見る。噫（あゝ）、われ惱める人なるかな。此の死の体より我を救わん者は誰ぞ。・・・・」（ロマ書七・二二―二五）と。この苦しみの中からパウロが見出した救済策は自らの内で支配力を奮っている「旧き人がキリストと共に十字架に付けられ」（ロマ書六・七）、「キリストと共に死んだならば、また彼と共に活きることになる、と信ずる」（同、六・八）ことであった。そしてその根拠は「死んだ者は罪より脱（のが）れる」（同六・七）というところに置かれたのである。
律法はたしかに本來聖なるものであるが、愛の支えがなければ「すべての人間が罪の下に在ることを告げる」（ロマ書三・九）結果に終わってしまい、パウロはユダヤ教の命ずる「律法の行為」によっては、今まで一人として神の前で義人として認定された場合がない（ロマ書三・二〇）ことを十分に知った。そこで直ちに今の聖句につづけて、「しかるに今や（nunc）律法を脱したところで（sine lege）神の義は顯われた（manifestata est）」（同三・二一）と宣言した。キリスト信仰によって律法の規定から脱するということは決して道徳そのものを放擲することではない。それとは逆に人間がキリストと同一の霊的生命に充たされた、ということを意味するのである。御子は父から此の世に派遣されるに当って受取った人間的本性のゆえに罪の苦しみを嘗め、自らは罪なくして受取った罪を償うために死んだ後に、本來の神的本性の根源をなす霊的生命に甦えり、一切の死を滅したが故に再び死ぬことはないとされるが、純粋に「内的」となった人間は霊に充たされるのだ、ということを意味しているのである。神的生命の根源たる父の「霊に導かれる者はすべて神の子となって」（ロマ書八・一四）、キリストと同じ資格で「父に向ってアバ・父と呼ぶ」（同八・一五）とまで言われる。この時、パウロを師としたヨハネによって、「ここにおいて神の愛がわれわれの内に（in nobis）顯われた（apparuit）」（ヨハネ第一書簡四・九）と語られ、「外」と「内」とは対立を超えた同一性の場を開いたと考えられる。
さて本詩の「標題」の裏側にあった筈の詩人が理解したパウロの教説を以上のように想定してみたが、本詩はパウロ神学の精髄を短詩形によって見事に語り盡したものといえるであろう。
まだ尻切れ蜻蛉の趣が若干あるのは否めないが、この辺で打切ることにしたい。
但し、「原注（３）」については一言附け加えておくことにする。
「ガラテア書」（二・二〇）の聖句は所謂「キリスト神秘主義」Christusmystikの極致とされる大変有名な言葉である。序ながら「キリスト神秘主義」とはヨハネを典型とする「神神秘主義」Gottesmystikとともに、「キリスト教神秘主義」Christliche Mystikに含まれる二大類型の一つである。前者は人間の魂は有限なることを自覚して、飽くまで信仰の立場を堅持しつつ、イエス・キリストとの意志的情感的合一を目指すタイプの神秘主義であって、アウグスティヌスやクレルヴォーの聖ベルナールなどが代表者とされる。これに対して、人間の魂にも無限な能力を認めて、キリストとの合一を通して更に父なる神を直接に直観することを欲した人々の系譜があり、理性的思辨を純化して叡智的直観に導くことを目指した。このタイプには新プラトン主義者プロクロスを祖とする否定神学の大家が多く含まれ、偽ディオニュシオス・アレオパギテースやスコトゥス・エリウゲナを経てエックハルト、ニコラウス・クザーヌス、ベーメと多士済々である。
さて詩人が本詩の後句の後半で語った箇所と、自注で示されたパウロの聖句とはまさしくほとんどぴったりと対応しており、パウロの翻訳とさえ言えるほどである。しかしこのパウロの聖句は決して単純にキリストとの内的合一を讃えているというのではなく、このすぐ直前の節では「まことに私は神に生きるために律法によって律法に死んでいるのである。私はキリストとともに十字架に付けられているのだ」（Ego enim per legem, legi mortuss sum, ut Deo vivam: Christo confixus
sum cruci.）（ガラテア書二・十九）と語られている。更にそれに先立って、十六節から十七節にかけては、われわれは人間が義人として認められるのは「律法の行為によるものではなく、」「ただキリスト・イエスを信ずる信仰に由る」ということを知ったから、キリスト・イエスを信じたのだ。律法の行為によって義とされた者は一人もいない、という議論が展開されていて、ここまで含めて本詩の主題がシュバイツァーの所謂「キリストの内に在るという神秘主義」die Mystik des esse in Christoとパウロの義認論との一体化の上で展開されていることが改めて明白となるのである。