提綱報告 

                     常盤 義伸

 

一、『風信』編集者が昨年暮れと今年春との別時学道での提綱内容のまとめを担当者に期待しておられますが、私の場合、別時・平常の区別なく毎月一度の論究で順次『楞伽経』の思想内容を辿っていますので、昨年暮れからの進展の跡をふり返って、それぞれの要点をまとめることにします。

 四巻からなるこの経典の漢訳テキストに合せて改訂しました梵文テキストの和訳・英訳を、巻一(巻二を飛ばして)巻三と読み進め昨年一二月二二日から巻四に入りました。全巻を一二〇段に分けて、第一〇六段「如来の目覚めた、覚者の本質」、第一〇七段「不生不滅は如来の別名」、第一〇八段「無相である不生不滅の真の現実」、第一〇九段「無常」までを、二月一日、三月一日、四月一二日、五月四日と読んで来ました。改訂前の梵文テキストは誤写を含めてきわめて不安定で、これを漢文テキストによって訂正し、その漢文も文脈によって確認しながら用意しました和訳・英訳のコピーを読み、思想内容を辿り、それについて論究を重ねるという、研究者としては最高の環境に(私の独りよがりかも知れませんが)恵まれております。

 (一〇六)覚者すなわち仏陀の本質とは何か。すべて何かであるもの、つまり自分と他者、世界、は有でもなく無でもなく、およそ世間の慣習を表す四句の選択肢(有、無、有でもあり無でもある、有でもなく無でもない)に陥らない性質のものだということ、その目覚めが覚者の本質だ、という。久松先生のいわゆる基本的公案、どうしてもいけなければどうしますか、と云われるそのものがそれ。

 この段落での興味深い説明を要約します。如来の表現「すべて何かであるものは無我(一切法無我)」について。「すべて存在するものは、自分の自己をもって存在する。他者の自己をもってではない。牛、馬の例でいえば、馬の自己をもつ牛の存在はない。牛の自己をもつ馬の存在もない。しかし馬も牛も、存在しているのでもなく存在していないのでもない、しかしそれぞれ自分の特徴をもったまま、存在しないのでもない。すべて何かであるものは、同様に、特徴に関するかぎり非存在ではなく、存在する。そして無我とは、すべて何かであるものが、自分の存在をもたないこと、というよりは、存在する、存在しない、存在しかつ存在しない、存在せずかつ存在しないのではない、という四句の選択肢を離れていることだ、と。そして空、不生、無自性という本性は、同じことを意味するのだ、と。

 (一〇七)大慧がいう、「世尊は、不生不滅が如来の呼び名だと云われました」と。私は、それまで一体どの経典でこういう表明がなされたのか見当もつかなかった。そこで、お恥ずかしいことながら従来読み通したことのない『八千頌般若波羅蜜経』梵文テキスト全三二章を読むことにしました。和訳、大乗仏典2、中央公論社一九七四年梶山雄一氏訳、3、七五年丹治昭義氏訳、がありますが、そちらには失礼して、一九六〇年インド、ミティラ研究所発行、ヴァイドヤ博士校訂版梵本で読み進み、第三一章冒頭で次の表現に出会いました(二五三ページ)。

 「如来たちはどこから来るのでもなく、去りもしません。如性は不動だからです。そしてその如性が如来なのです。」「不生は来ることも去ることもしません。そしてその不生が如来なのです。…」「空性には来ることも去ることも知られません。その空性が如来なのです。…」「不滅*には来ることも去ることも知られません、そしてその不滅*が如来なのです。…」「これらの目覚めた真理の如性も、すべてのものの如性も、如来の如性も、すべてその如性においては一つです、如性に第二はありません。」

 漢訳では、クマーラジーヴァ訳の『摩訶般若波羅蜜経』の相当箇所が同じ訳者の『大智度論』第八九品(大正蔵経巻二五、七四四下)に次のように見られます。

「善男子、諸仏無所従来、去亦無所至。何以故、諸法如不動相。諸法如即是仏。善男子、無生法無来無去、無生法即是仏。無滅法無来無去。無滅法即是仏。空無来無去、空即是仏。… 諸仏如諸法如、一如無分別。善男子、是如常一無二。」

 *梵文テキストは「滅」とするが、文脈から「不滅」に訂正した。同じこの章の少し後に次の表現がある。

「善男子よ、貴方は、このように如来もすべて何かであるものも不生であり不滅であると知るでしょう。」(二五五ページ)

 楞伽経の同じ第一〇七段で、言葉の音声とその意味との区別に言及する箇所について「意味」と私が訳した言葉 artha の意味を吟味する機会をもつことができました。漢字では文字、字句、言葉などに対する「義」と云われるもの、句義、梵語で「パダ・アルタ」と云われるものは、語の意味、または語の意味に対応するもの、対象物または人、当体、を意味します。楞伽経のこの段では、次のように音声と意味とを区別します。

「音声は生じ滅するのに対して、意味は不生不滅です。」「音声は文字に属するが意味は属さない。意味は有と無とを離れているため、生じたものでなく形がない。」「如来が一字すら言葉を発しない理由は、すべて何かであるものが文字を離れているからです。」「意味に確信をもつべきです。文字にではありません。文字に依存すれば、自分を究極の意味から遠ざけ、他人をも目覚めさせることができない。」「存在の意味と理由とに通暁しておれば、人々は自分自身正しい仕方で無相であることへの喜びをもって満足するだけでなく、他の人々をも正しく大乗に導く。」「音声通りに音声を捉え執着することがあってはならない。真の現実は文字を離れているから。」「普通の無智者は音声通りに指先に執着して一生を終わるでしょう。かれらは音声通りに指先に注意を向けることを止めて究極の真実の意味に達することがない。」「不生不滅は、音声通りに指先を見るようなことであってはいけない。真の現実としての意味について不断の修行が必要です。」「真の現実としての意味は極めて深く、涅槃の因です。… それは深く学んだ人々に参ずることから得られる。深く学ぶとは、音声ではなく意味に通じていることです。」

 これに関連してナーガールジュナ(竜樹)の『中論』冒頭の帰敬偈、クマーラジーヴァ訳を私の訓読で示します。

「不生また不滅、不常また不断、不一また不異、不来また不出と、この因縁(縁起)の善く諸戯論を滅せるを、能く説きたまえり、我れ稽首礼す、仏に、諸説中の第一に。」

 (一〇八)この段は前段から引き続いての展開で、特に興味を惹くのは終りの三〇ある偈頌 (八〜三七) の内容です。生硬な訳文ですが、その約半分を挙げます。

「…集合体を離れてはどんな存在も知力によって認められない…。」一○

「集合体の一つ一つは存在として現れているだけなので、存在しない。非仏教者が主張するように劫末の大破壊時にだけ集合体がなくなるのではない。」

一一

「有為のものが因なしに生じるのでもなく因に由来するのでもないと見るとき、生と滅とを主張する見解が止む。」一四―二

「因と縁とを離れあらゆる手段を斥ける、心だけであることが安定していること、思惟されるものと思惟するものとを離れ、所依の意識分別が止むことを私は不生という。」一八

「外にものがあるのでもなく、ないのでもなく、心によって捉えることもなく、すべての見解を捨てること、これが不生の特徴なのだ。」一九

「空、無自性などの句もすべて同じように知るべきだ。空だから空なのではなく、不生だから空なのだと。」二○

「因と縁との全体が生じそして滅する。全体を離れてはなにものも生じまたは滅することがない。」二一

「じっさい全体を離れてどこかに何かの存在があるのではない。一つずつ別々にあるというのは非仏教者の分別するところだ。」二二

「申し合わせに外ならないこの諸縁の全体は、相互に期待し拘束する鎖だ。しかも諸縁という鎖と離れて生じることは理由がない。」二四

「灯火がさまざまのものを照らすものとして、鎖だとしよう。諸縁という鎖とは別にどこかに何ものであれ自分の存在をもつものがあることになろう。」

二七

「人々が鎖であるこの世間のすべてがじっさい鎖を離れていることを見るとき、心が自己集中(サマーディ)を得る。」三○

「無智、渇愛、業などは内面的な鎖ということになり、火を起こす道具、泥の塊、ろくろ、その他、種子などは外的な鎖だろう。」三一

「諸縁による以外の仕方で生じるものがどこかにあるとすれば、これは鎖の意味ではない。それらは道理にも教えにも適わない。」三二

「もしも生まれてくる存在がないとすれば、鎖に拘束されているというその知覚は誰の諸縁からくるのかといえば、これらの諸縁がお互いに相手を生むのだ。」三三

 (一〇九)梵文テキスト、私の区分で第八五段から始まる「無常」と題する長い内容の第三章のこの最後の段は、仏教以外で理解される無常観を批判的に七つ挙げ、最後に仏教で云う無常の理解を示す。梵文テキストと私の和訳・英訳とをずいぶん修正して読みましたが、いま改めて読み直し、訳の訂正をさらに一カ所追加しました。私としては、これで初めて全体の理解が得られるようになりました。梵文テキストで(7)「不生の無常」(2カ所)を「生の無常」としたことは出席者に申し上げました。今度、訳では(5)の最後の段落で「もしも無常が存在であるとすれば」を「もしも無常性が存在であることだとすれば」としました。

 ここ第一〇九段で主要な関心の的は、非仏教者による物質要素の分析です。仏教では色(ルーパ、色・形)は、物質を構成する「四大」すなわち地(堅さ)、水(湿気)、火(熱さ)、風(動き)を本質とする作用をもつ四元素と、「四大所造の色」(四元素からなる色・形)すなわち五根(眼、耳、鼻、舌,身)とその対象の五境(色、声、香、味、触)と、からなるとされます。ところでサーンキャ学派では、仏教で云う「四大」は五種類ある「タンマートラ(それだけ)」、そして「四大所造色」は「[五]大」と云います。「タンマートラ(それだけ)」とは、知覚されない微妙な要素のことです。声だけ(声を可能にする潜在要素)、触だけ(接触の潜在要素)、香りだけ(香りの潜在要素)、色・形だけ(色・形の潜在要素)、味だけ(味の潜在要素)のこと。これら五種の「タンマートラ」は上に挙げた順に次の「五大」(五種の粗大な要素)、虚空、風、地、光(または火)、水、を生じます。そしてこの「生ずる」という動きの展開をサーンキャ学派は、「プラクリティ」(原自然)(創造者「プラダーナ」とも云う)から始まるとします。楞伽経編集とほぼ同時代の作と考えられるイーシュヴァラクリシュナの『サーンキャ・カーリカー』約七〇偈のうち第三偈がこの生成展開のことを取り上げます。プラクリティは、作って作られることのない原理として、自らのなかに潜む、それ自体作ることもせず作られることもない精神原理「プルシャ」を束縛から開放させるためのやむを得ぬ動きとして、七つの原理を作り出します。偉「大」なものである知性は「自我」を、「自我」は上記の五種の「タンマートラ」を作りだします。したがって、これら七種は作られて作るものです。次の一六種は、作られるだけで、自らは他を作る力をもちません。すなわち五種の「タンマートラ」からは上記の五種の粗大な要素が作り出され、五種の知覚器官、視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、と五種の運動器官、談話をする口のなか、把握と運動をする手と脚、排泄する肛門、生殖作用の性器、そして意識作用をする意との一一種は、「自我」から作り出されます。プラクリティが以上の生成作用を終えて姿を隠すのは、プルシャがプラクリティを離れて解脱するときだとされます。プラクリティが世界の生成消滅を繰り返すのは、奇妙にもプルシャが単一ではなく無数にあるからだとされます。

 楞伽経が非仏教者の無常観として取り上げるものの第一「始められた営みが終わることが無常」だとは、サーンキャ学派の創造説の最後の段階、作られるだけで作る働きのない粗大な物質構成要素などについて云われることです。第二の無常観「形が消滅することが無常」だというものは、物質構成要素については妥当しない考えで結局は「サーンキャの主張に陥る」ものだと、楞伽経は「サーンキャ」の名を明言します。第三は「具体的な形そのものが無常」、第四は「具体的な形が変化する前後の中間に、人の知らない間に変化が起きるところに無常がある」とし、第五は「何かであることが無常」、第六は「何かであるものがないことが無常」、そして第七は「すべて何かであるものに生の無常が潜んでいる」とすると云います。この第七の考えを批判して楞伽経は、現実が常住でも無常でもないこと、すべて何かであるものは有も無もそれ自体の特徴は認められないこと、そのことを不生と云うのだということ、無常を云うとすればその本当の意味は生自体が不生だと云うこと、したがってそれは、外の存在と非存在という二様の見解を離れて、外の対象として見られているものが外ではなく「自心」すなわち私自身だと悟ることだ云います。

 この議論は、このあと「現証」「如来は常住か無常かであればどうなるか」と続きます。そのあとに「如来の母胎・アーラヤ識」という重要なテーマが取り上げられます。これは明らかにサーンキャ説であるプラクリティとプルシャの二元論の批判を通して仏教の立場を宣言するものですが、仏教思想内だけで考える立場に留まる研究者には敬遠されがちな立場です。

 

二、二〇〇七年一二月二三日、相互参究の時間に出席者のご了解をえて、勝手でしたが、中国宋代の禅者・大慧宗杲の集めた公案集『正法眼蔵』のなかで、禅文化研究所の研究会で私がそのころ当番で読みました一則(下一五九)、翠巌可真(慈明楚円の法嗣で黄龍慧南、楊岐法会と同門)の示衆と問答、を紹介することと、久松先生の著作の英文改訂の作業を通して、特に「相互参究」と「坐ということ」と(著作集第三巻所収)で私たちがこれまで抱いてきた理解をもう一度考え直す必要があると感じた箇所を先生の原文を引いて紹介しました。

 ここでは詳しい報告を省略します。禅公案については、ただでさえ文脈を辿ることの難しいものの一つを取り出すため、初めての方に問題の所在を把握していただくことが容易でないことを知りました。後者については、共感を得られたと思いますが、改めて著作集から引用文を掲げることは、周知されている会員の皆様に失礼なことと考えます。ただ私としましては、何気なく読み過ごしていた表現に英訳を通して改めて注意を喚起されることが多かったことですので、「相互参究」についてのみ、一部を記します。

1、「相互参究」というこの言葉の指し示す事柄が一体何処で成立するのかが、この言葉だけでは見当もつかないことでした。「相互」ということは、初めからあるのではなく、それがなくなるという仕方で初めて成立すると知りました。

「相互といわれる場合のこのお互いというものが、それ自身の根源、つまり、相(かたち)なき自己というものに覚めた時、その時が相互参究というものの本当の在り方であります。つまり、相互参究の一方が一方になる、お互いに自他がなくなるということが、本当の相互参究であります。」(六○○ページ)

2、「相互参究」ということが「協会独特の参禅の仕方」と考えられていることに対して久松先生は、この考えを覆すためにも、この提綱をされたと認識しました。

「ある特定の団体とか、ある特定の僧堂の中で参究するというのではなくて、人類全体が本当をいうと本来一つに結びついているわけでありますからして、そこで全人類が結びついている真の自己の在り方というところが、相互参究の本当の場でなければなりません。」(六○一ページ)

3、相互参究を可能にするものは「己事究明」と云われることであって、その逆ではなく、そのためには方法が確立していなくてはならない。

「悟るということはだれでもの本来の自己というものを悟るということであ

りまして、決して他から教えてもらうことのできるものであるとか、あるいは他から譲られるものであるとか、そういうものではないのであります。その人自身の本来の相(すがた)、本来の在り方が何であるか、何時でも何処ででもそのことに覚める、いわば可能性というものがなくてはならないのであります。」(五九六ページ)

「だれでも、何時でも、何処でも自分から覚める方法というものがなくてはならない。他によって与えられるとか教えられるということではなしに、他によって開発されるということを俟たないで、自分自身でそれに覚める、そして自分自身に覚めたものが、自ら証明される、自分自身でそれを証明するということがなければならない。それがむしろ根本の方法というものではないかと思います。」(五九七ページ)

「そういう方法とはどういう方法かということは、また別の機会に申し述べたいと思いますが、とにかくそういうものが根本にないことには、他との関係において悟る、つまり相互に参究することによって悟るというようなことは、実は成り立たないと思うのであります。」(五九八ページ)

4、協会は己事究明が同時に全人類・世界究明と繋がることを志して集まる会員の相互参究の場となることを標榜していると私は思いますが、久松先生は会員の間にありえる「危惧の念」「つまり、悟っていない者同士で相互に参究しても、それは結局めくらがめくらを引っ張っていくということになりはしないか、という疑問」について答えておられ、これは読むたびに感動します。

「これは一応もっともなことであると思うのでありますが、しかし、めくらというものは、それは本来の自己ではないのであります。本来の自己というものは、実は先ほどから申しておりますように、何処ででも、何時でも、だれにでも現前しておるものであります。それが現前しておるということが本当の在り方である。めくらというものは真の在り方ではない、真の在り方というものはめあきなのであります。でありますからして、この真の在り方の覚めというものが、どういう機会に、どういう場合に、開発してくるかもしれないわけであります。めくら同志が手を取りあって、そこでめあきになるということも、実は可能であるというよりは、それが本当の在り方なのであります。手をつないでいる者が本当はめくらでなくして真の人間である、こういうところにかえって本当の相互参究というようなことがあるわけであります。」(五九八〜五九九ページ) 以上。