越智氏の短歌を巡って

                      江尻 祥晃

【はじめに】

  二○○七年十二月八日(土)、風信五十七号が出来上がったということで、私は久しぶりに京都相国寺山内林光院で行われているFAS協会の平常道場に顔を出した。風信委員として、その日、参加の皆さんと共に出来上がったばかりの風信を全国の会員の皆さんに送付する仕事をするためである。この日の参加者(論究時)は私も含めて四名であった。論究の前に、参加者全員で封筒に会員の住所のラベルと切手を貼って、風信を一部ずつ入れる作業を行った。封をするのは各自家に帰ってからということで、一人三十部ほどずつ分担して持ち帰り、封をした後ポストに投函していただくことになった。作業が終わり、それから通常の論究に移った。今回は川崎先生が久松先生の『臨済録抄綱』についてお話された。四時過ぎに論究が終わり、引き続き実究(坐禅)であったが、私は越智さんと久しぶりにゆっくりとお話がしたくて、論究終了後、お暇して、二人で相国寺近くの喫茶店へ入った。かねがね、越智さんに風信掲載中の越智さんの短歌についてお話をお聴きしたいと思っていたので、これは良い機会と越智さんにいろいろとお尋ねしたのである。以下にその時のお話の内容をご紹介することにする。長い間、坐禅と基本的公案に生きてこられた越智さんの生き様が垣間見られて、私には有意義な一時であった。会員の皆様にも、是非、越智さんの短歌をもう一度より深く味わっていただきたいものである。

 

【越智さんと短歌】

江尻「風信五十号(二○○四年七月発行)に『直腸癌手術受けたり』と題して短歌を掲載されたのが、越智さんが短歌を風信に出された一番最初かなと思うんですけれども、そこに二○○四年六月十四日という日付が入っているんです。ここでは手術前のご心境であるとか、病院での思い、また手術後のご心境を詠っておられます。その一番最後の短歌に

『八十三なお大患を癒さるる

 何が故ぞと問いつつ生きむ』

というのがあるんですけれども、八十三歳の時に直腸癌の手術をされて治った。その時に、なぜまた生かされたのかと問いながら生きていこうと詠われているんですが、この時のご心境とはどういうものだったんでしょうか。」

 

越智「長生きしても八十三歳ぐらいで死ぬ人は多いでしょう。私は幸いに、女房にやかましく言われて、検査を受けましてね、内視鏡検査をしたらポリープが見つかったんです。これは早急に手術をしなければだめだということで、すぐ入院したんです。それで助かったわけです。自分は運良く現代の医学に助けられたわけです。それまでして生きている値打ちがあるのかなあと思うんですけれどもね。」

 

江尻「『何が故ぞと問いつつ生きむ』という短歌を詠まれたわけですが、何が故かと問うことは今も尚続いているんでしょうか。」

 

越智「それはもうずっとありますね。なぜ生きているのかということですね。数年ぐらい後輩の友達からも電話なんかで、あなたが元気でやっているということを聞くだけで自分達の励みになりますと、そういう風に言われるとね、逆にこちらが励まされて、それで長らえさせてもらっているという方が本当のところですよ。」

 

江尻「ご家族のことを詠んだ短歌もたくさん出てきますね。奥さんのこと、お子さんのこと、お孫さんのこと、非常に微笑ましいというか、暖かい感じが出ています。優しい家族に支えられているという感じがとてもいいですね。」

 

越智「家族に恵まれましたね。私は結婚が遅かったんです。私が四十で家内が三十一でしたかね。それから子どもが三人できましたからね。三人とも無事に育って、孫が今五人います。みんな順調に育っていますからね、本当に恵まれていると思います。それだけのことなんですけれどもね。」

 

江尻「奥様の献身的な介護というものがあったわけでしょう。」

 

越智「よく介護してくれました。一日に三回も病院へ来てくれたこともありました。」

 

江尻「越智さんは短歌でご自分の老いというものを詠われていますけれども、それと共に、奥様の老いというものも見つめておられますね。老いという問題を切実に感じておられると思うんですが。」

 

越智「そうですね。以前に大藪さんに話したことがあったんですけれども、私のカトリックの友達で、神戸大学の先生をしていた人がいるんです。退官してから灘神戸生協に行ったんですが、賀川豊彦が始めた生協なんですね。賀川さんというのはキリスト者ですね。それがずーっと今日発展して、、今はもう百万世帯は超えているでしょう。それどころか二百万世帯にまでなっているんでしょうかね。神戸生協というのは今一番大きな生協になっているんですね。『一人は万人のために、万人は一人のために!』ということで活動しているんですね。野尻さんという人なんですが、そこの理事長をずっとしていた人なんです。経済学者なんです。それでカトリックの人なんです。その人が私が風信の中で書いているようなものを見て、老いということがいっぱい出てくると言うんです。年を取って段々衰えるということがよく出てきますねと言われるわけですよ。彼自身は、一ヶ月前に電話で話した時でも、彼ももう八十二〜三なんですけれどもね、まだやることがいっぱいあると言うんですよ。兵庫県のいろんな高齢者問題に対する研究機構があって、高齢者だけじゃなくて、ヒューマンの問題について、神戸には子供の事件もありましたからね、ヒューマン機構というのがあって、それの理事長なんかもずーっとやっていたんですよ。だから、とにかく忙しく働いているんですよ。そんなに体が強いわけでもないんですけれどもね。その人は今でもやることがいっぱいあるということで、バリバリやっているわけです。彼がこの間、生協のことについて書いた本にね、彼が出逢った神父のことを書いているんです。その方はウイーン大学の業績も多い社会学者でもあるらしいですけれどもね。その人に二十年ぐらい前に会った時に、その人はその時、八十ぐらいだったんですかね、やることがいっぱいあるので三度の食事を一度に減らして仕事をしていると言われたそうです。それを聞いた時に、野尻さんは非常にショックを受けたと言うんですね。輝いて死ぬというんですかね、死ぬまで輝くという姿を見た。その神父さんは九十何歳かで亡くなったらしいですけれども、輝いて死ぬということが自分の目標だと彼はそういうことを書いているんですね。」

 

江尻「その神父さんを見習って自分もそういう風に生きたいと思われたわけですね。」

 

越智「食事を減らしてまでも仕事に没頭していると聞いて、背筋がゾクッとしたと、深い感銘を受けたわけですね。それが今も忘れられないと言っているわけです。だから、今も、自分にはやることがいっぱいあると、だから、週に数回は会合にも出ているそうです。神戸生協はこの六月に辞めたらしいですけれどもね。彼は、人のために役に立つことに喜びを感じると、そういうことをしみじみと味わっていると、そう言うんですね。随分若い時から奉仕的なことはやってきたみたいですけれどもね。」

 

江尻「キリスト者ですからね。」

 

越智「彼は戦時中の人間ですからね。学徒出陣で出て、予備将校ですけれどもね、大阪湾の掃海をやったんです。敵が落としていった不発の爆弾を処理していた。戦争が終わって戻って来た時にですね、まだ大学の途中だったので、もう一回勉強をし直そうというので、神戸大学へ入ったわけですね。当時は暢気なことでね、豊中で中学校の先生をしながらね、神戸大学に通ったんですよ。ところが飲んべえでね、ある晩、酒を飲んでね、駐在所の巡査を殴ったそうなんです。それで自分は何かブレーキがないとだめだと思った。彼が受けていたゼミの先生が、五百旗頭さんという教授だった。息子さんは今防衛大学の校長をしています。外交史の有名な先生です。その人のお父さんだったんですね。そのお父さんがカトリックだったんですよ。それで、経済政策か何かのゼミだった。その中で、彼はカトリックの感化を受けたわけですね。その先生に勧められてカトリックに入っていった。はじめは抵抗があったが、徹底的な理性的究明も重ねた末に、最後には信仰に入ったと、そう言っています。その動機の一つは、自分に歯止めがいるということでもあったと言うんですね。そういうこともあって、現在ボランティア的な活動も随分やっています。そういう生き様をしているわけです。」

 

江尻「そういう方を見ておられて、自分もそういう風な生き方をしたいと思っておられるわけですか。」

 

越智「自分はそんな風には思っていないんです。そこがキリスト教と禅の違いかなあ。禅の場合は、【悲体智用】でしょう。だから、社会のため、人のためとか言う前に、自分が本当に真実の自己に目覚める。目覚めたらあわれみ深い心になるということで、それまでは己事究明ということで、人のことよりは自分のことをしっかりやるということだから、そういう傾向が禅には強いですね。そうじゃなくても、私はあんまり人の役に立とうというような考えは薄いわけです。今でもそうですけれどもね。」

 

江尻「話は変わりますけれども、風信五十号に短歌を掲載されて、しばらく間が空きましたが、その後、五十三号から雑詠ということで続けて短歌を出され始めましたよね。五十四号に

『なんとあれ心地よきかな結跏趺坐

五十五年の余慶なるかや』

という短歌を掲載しておられますね。越智さんは八十を過ぎても尚、坐禅を続けておられるわけなんですけれども、五十五年の余慶というのは、これまでの蓄積といいますか、しっかりと坐禅をやってきたものがあるからこそ、今の自分があるんだということを詠われているんじゃないかと思うんですが、その辺どうでしょうか。」

 

越智「無所得と言いながら、恵まれた坐禅の功徳といいますかね、無功徳の功徳とでも言いましょうか。」

 

江尻「やっぱり若い時から坐禅を一生懸命にやってきた、その結果が今の坐を支えているという思いかなあと思うんですけれどもね。」

 

越智「若い時に一生懸命やってきたと言うけれども、私はもともと腹の疾患がありましてね、坐禅によって腹の疾患がおさまったということがありましてね。精神的な不安もあったけれども、それも坐禅によって解けたということがあったわけです。精神衛生ですね。体と心の衛生のために続けてきたということです。悟りだとかなんとか、そういう難しいことのために続けてきたんじゃないんです。」

 

江尻「はじめの頃の思いとしては、身心衛生のためにという事だったでしょうけれどもね。」

 

越智「身心衛生のためにということですが、身心共に行き詰まった戦後の絶望の状態で、坐らざるを得なかったわけです。私は神道の家に生まれましたからね。天皇は神だということでそれまで来た。それが戦後コロッとひっくり返ってしまった。これは何だという思いで、自分の外のものも、それから自分自身も信じることができない。今まで教えられてきた道徳とか倫理が何の支えにもならない。盲腸を手術した後、癒着しましてね、時々発作を起こして、その都度おさまるまでに二十四時間くらい苦しんだ。そういう状況の中で池長さんに会ってね、彼が学道道場へ連れてきてくれたわけです。それが昭和二十六年でしたからね。戦後、復員してきたのが二十二年の暮れですからね。日本に着いた時なんか、もう半病人のようでしたからね。舞鶴に上がった時には担架で担がれて、病院ですぐに手術をしなければならないような状態だった。そんなことで、疾患と絶望を坐禅によって救われてきたということですね。だから、人のためというよりも坐らざるを得なかったという感じですね。それがずーっと今まで続いてきた。それを余慶という言葉が当たっているのか分からないけれども、無功徳の功徳と言いますかね。」

 

江尻「越智さんが身心衛生のために坐らざるを得なかったとおっしゃいましたけれども、そういう思いから始めた坐禅であったわけですね。それは今に至っても変わらないわけですか。途中で変化してきたということはなかったんですか。」

 

越智「最近に作った短歌にもあるんですけれどもね、自分が考えることとかね、本でいろいろ読むこととかね、そんなことよりは、ただ坐ることが、そこにこそ真実があるような、今はもうそんな感じですよ。」

 

江尻「若い時には詰めて坐られたわけでしょう。しかし現在には現在の坐り方というものがあると思うんです。年を取ってくると詰めて坐るということはできなくなってくると思うんですが、そうした時にどう坐るか、その辺はどうでしょうか。」

 

越智「坐ると足が痛くて痛くてたまらんということが三十年ぐらい続いたですかね。それが痛みがなくなったというような感じになって、それからというものは二時間ぐらい続けて坐ってもね、なんともなくなった。今でも一時間ぐらい坐るとやっと気持ちが良くなる。だから今でも、一旦坐ったら四〜五十分から一時間は坐っています。毎日までは行かないにしても、一週間に四〜五回は坐っています。」

 

江尻「一回坐ったとなったらそれだけの時間は坐を立たない。」

 

越智「ええ、足の痛みというものはなくなりましたね。足がもうバカになっているのかも知れないけれどもね。」

 

江尻「越智さんに私の家に来ていただいて、一緒に坐禅や相互参究をした事がありましたね(二○○四年一月三十一日)。その時に越智さんが【不耐の耐】ということをおっしゃいました。【不耐の耐】というところにたどり着いた以降は変わらず今に至っているということですか。」

 

越智「そうですね。それまでは痛くて坐りきれなかった。そういうことがあったけれども、それ以降はもうそれがないんですよ。痛さのために坐るのをやめるということはなくなった。それから、人のために役に立とうと思ったのはね、以前、オランダに行った時(FAS摂心)に、五十人ぐらいの人達のために直日をやったんですね。自分のリードが五十人に影響すると思うとね、その責任の重さに果たして耐えられるのかということで、それに耐えるためにはもう自分を捨てるしかないと、その時にね、はじめて『懸崖に手を撒して大死一番絶後に甦える』という気持ちになった。普通は崖に手をかけた、その手がなかなか放せないんですね。オランダで直日をやりながらね、座布団上で死ぬということはありがたいことで、名誉なことであって、本当にここで死んでもいいと思った。そういう気持ちで直日を勤めたわけです。」

 

江尻「越智さんにとってオランダでの直日体験は大きかったわけですね。」

 

越智「大きかったです。識らぬ間に崖から手が放れていた。海面にガーンと叩きつけられると思った。ところが、いつまで経っても海面がやってこない。当たり前ですよ、坐っていて海面がやってくるわけがない。だけど、その時に海面に叩きつけられるはずの自分が海面に叩きつけられない、ああ、これが永遠というものかと、そういう思いが出たんですね。またその次の年は、『どうしてもいけなければどうするか!』と一心に坐っていたら、本当に『もう何にも言うことはない!』という感じを味わいましたね。自分と周りの境がなくなったような感じでしたね。オランダでの二回のFAS摂心での体験というのは、私にとっては大きかったですね。」

 

江尻「風信五十四号に、

『学と行一如たり得ず年経るも

 貫くものは矛盾そのもの』

という短歌を載せておられるんですね。」

 

越智「どうしてもいけないということが貫くということです。」

 

江尻「そういうものはいつまで経ってもなくならないということですか。」

 

越智「理屈としても、自分の問題がなくなったとしても、世界の問題がある。」

 

江尻「越智さんの短歌の中には、ご自分のこと、老いのこと、ご家族のこと以外に、世界の情勢というものを憂えているものがありますね。自分の問題が解決したらもうそれでいいというんじゃなしに、世界中至るところでいろんな問題が発生しており、それは自分と無関係ではないということなんでしょうか。」

 

越智「イスラエルとアラブとの争いにしてもね、その前のヘルセゴビナの問題にしても、アフリカの部族間の問題とかね、世界ではいろんなことが起きているでしょう。やっぱりそういうことに無関心というわけにはいかないでしょう。国内だって、親が子を殺し、子が親を殺し、いっぱい問題をかかえているでしょう。」

 

江尻「越智さんはそういうものをテレビや新聞でお知りになって、でも、どうすることもできないわけですよね。自分がそういう問題に対してどう働きかけるかとなった時に、為す術がない。そういう時に、自分はどうするのかということが問われてくると思うんですが、その辺はいかがお考えでしょうか。」

 

越智「ただ悲しむといいますかね、人間の愚かさを自ら嘆くというか、もうそれしかないですね。それから、せめて少しでもね、役に立つことをと思って、ユニセフにわずかな金額を寄付したりね、そんなところですかね。」

 

江尻「もう一つ、五十四号に載せておられる短歌で

『どうしてもいけなければどうするか

  責務に窮し我を離れき』

というのがあるんですね。」

 

越智「これがオランダでの体験ですね。自分のことを思っていたんじゃ、恐くて崖から手が離れない。」

 

江尻「これはオランダでの深い体験が短歌になっているんですか。」

 

越智「そうです。オランダで直日をやって、あるいは全員との相互参究とかね、そこで、私はFAS協会から行っているということでね、向こうから求められるわけです。そういう責務に耐えきれない。窮して、そこで我が身心を放ち忘れるしかないということになったわけです。」

 

江尻「ああ、そういうことだったんですか。ここで言う責務とは、オランダでの直日だったり、向こうの人との相互参究であったわけですね。」

 

越智「はい、そうです。」

 

江尻「風信五十五号の中に

『基本的公案開示の大悲用

  世界の人に伝えたきもの』

という短歌があるんですけれども、これはどういうお気持ちで作られたんでしょうか。」

 

越智「久松先生は素晴らしい公案を開示されたというか、この公案というのは、『総不可之時作麼生』ですが、いっぱいある中国の公案の中からとりだして、それを基本的公案という人類の公案という形で出された。これはまさに久松先生の大悲用ということだと思うんです。私は、そのことをもっと世界の人に伝えたいと思うんです。」

 

江尻「基本的公案というものは越智さん自身にとっても非常に大事なものであるし、また全人類にとっても大事なものであるから、何とかもっと基本的公案というものを多くの人に知ってもらいたい、伝えていきたいということですか。」

 

越智「基本的公案とは人間の基本的公案なわけです。人類の基本的公案なんです。そういうことをはっきりさせたというのが、久松先生に現れた悲用だろうと思うんですね。そのことをもっと世界の人に知ってほしい。まあ、なかなかそんなことを言っても難しいですけれどもね。」

 

江尻「基本的公案というものは非常に大事なものだという思いはあるんだけれども、それをいろんな人に伝えようと思っても、どう伝えたらいいのかという問題もありますしね。」

 

越智「まあ、しかし、誰だって今、身近なひどい事件を見聞きしているわけでしょう。親が子を殺したり、子が親を殺したりね、いろんなそういう事件を見たら、どうしようもなさをみんな感じていると思うんですね。そこでどうするかということを考えざるを得ない。一歩踏み出す。一歩踏み出せなくてもね、何か工夫する。それが人間の宿命というかね。」

 

江尻「基本的公案というものは誰か特定の人達だけのものではない。全ての人間が解かなくてはいけない公案であるということの気づきですよね。大体、基本的公案と言ったらFAS協会の中だけのものみたいに思われているけれども、実際はそうじゃなくて、人類の公案なんだという、そこをもっとはっきりと言っていかなければだめですね。」

 

越智「ええ、そういうことなんですね。今、平常道場で常盤さんがやっておられますが、楞伽経は禅の元になった経典ということですが、その中に繰り返し出てくるのは、外に見えているものは自分の心なんだということです。その事を繰り返し説いている。常盤さんが一つの例を引かれたんですが、誰でも海をじーっと見たり、あるいは空をじーっと見ていると、そこへ吸い込まれそうになる。それは自分と海、自分と空というものが一つであるという証拠だと言われたんです。そういうものは誰でも持っているわけでしょう。それは【衆生本来仏也】ということの一つの現れだと見ることができる。外の世界は自分の心なんだというね、そういう考え方が楞伽経の中にはあるんです。」

 

江尻「私達は、外の世界だとばかり思っているけれども、実は自分の心が現れているんだと言うわけですね。」

 

越智「主客未分ということですけれどもね。そういう話は分かりやすい。誰でも吸い込まれるような感じはありますね。他にも、花を見たら美しいと思うし、共通の思いというんですかね、それはありますね。それを人類ははっきりと認識しないとだめだ。そうしないとアメリカのブッシュみたいになってしまう。ブッシュは『アメリカが世界を良くした』なんてことを言っているでしょう。イラクとの戦争でも神のご加護があると言っていた。大きな間違いです。結局、人間の極悪深重性が分からないというんですかね。」

 

江尻「風信五十五号に

『気づくたび形無き自己生きるべし

  時空際無く湧きくるままに』

という短歌が出ています。越智さんの場合、こういうことは坐禅中に感じることが多いわけですか。」

 

越智「坐禅中に限らず、いつでも気づけば、形無き自己というのはそこにあるわけです。」

 

江尻「日常の中でいつでもですか。」

 

越智「いつでも。坐っている時に味わったその感じはそのまま消えない。いつでもどこでも消えないですよ。坐禅を立ってもその思いは消えないし、いつでも気づけばそこへ行くことができる。我が身心を放ち忘れるという、ただそれだけのことなんです。風信五十七号に

『坐にありて我が身と心捨つるごと

惜し気を捨てて身近に尽さむ』

という短歌を出したんですが、なかなか自分は人のために尽くすということはできない性格なんですね。しかし、何か人のためにできることはないかと考える。例えば、家で飯を食った後に、後片付けをする。スッと立ってやれば何でもないことなんですよね。スッと立つことが我が身心を放ち忘れることなんですよね。なかなかそういうことはできないですけれどもね。我が身心を放ち忘れて、(仏の家)に投げ入れる。その同じ気持ちを日常生活の中で惜し気を捨てて、我が身を惜しいと思わずにするということですね。私は最近、そういう風に身近なことに尽くしたいと思っているわけです。思うだけで、なかなかできませんけれどもね。『飯を食ったら茶碗を洗え』という公案もありましたね。そういうことで私もそれはしているんですけれどもね。女房はこの頃、飯を食った後にすぐ立って洗い物をするのがしんどいらしいんですよ。だけど、一時間以上もかけて飯の支度をしてくれているわけですからね。」

 

江尻「後片付けぐらいは自分がしようと思われたわけですね。」

 

越智「それだけじゃなしにね、子供や孫や、身近の人達のために少しでも役に立ちたいと思っているんです。カトリックの人達は人のために尽くすことに喜びを感じているわけです。それが生き甲斐ということになるんでしょうね。生きている喜びを感じる。そこで輝いて生き、輝いて死ぬというんですかね。老い込むんじゃなしにね、やっぱり最後まで輝いて生きる(そして死ぬ)ということが大事なんでしょうね。財産が無くても、七つの施しがあると言いますよね。最後はニコニコするだけでもいいんですよ。だから自分のためにと言うことじゃなしに、少しでも人のためにという気持ちを失わないで生きていく。学者だったら社会に役に立つ学問をするということも一つでしょう。人のために、世の中のためにという、その事を喜びとすることが、老い込まずに輝いて生きる(または死ぬ)ことになるんだろうと思うわけです。」

 

江尻「越智さんが先程、キリスト教では人のためにということを非常に重視するというようなことを言われましたね。しかし、禅は人のためにというよりも、自分を究明することを重要視する。ちょっと違うように思うけれども、最終的に禅であっても人のためにということが出てくるわけですね。それが【悲体智用】ということなんですね。」

 

越智「基本的公案の開示は大悲用ということになるわけでしょう。」

 

江尻「基本的公案を本当に透過した時に、働きとして悲が出てくるということですね。そこまで行かなければ本物ではないということですね。」

 

越智「人類の愚かさというものをはっきりと自覚するということが大事ですね。」

 

江尻「もちろん人類の愚かさというのは自分の愚かさでもあるわけですね。」

 

越智「そうですね。」

 

江尻「自分とは別にそういう愚かな人間がいるということではなくて、人類が犯す愚かさを自分の中にも見て、自分の愚かさを誤魔化さないということですよね。」

 

越智「人類全体の愚かさを知るといいますかね、自覚する。もちろん自分も含めての話です。人類の愚かさをはっきり自覚したらね、少しでもバカなことをするのをやめるでしょう。野上弥生子が、大東亜戦争が始まる頃ですかね、『コレラやペストは流行ってもいいが、しかし戦争だけにはなるな』と言ったというようなことを先日の天声人語に書いていましたね。やっぱり戦争の悲惨さというものを知っていたんでしょうね。」

 

江尻「最後になりますけれども、越智さんは今現在ね、これからどう生きていこうと思っておられますか。」

 

越智「お恥ずかしいことです。最後の勤めみたいなものですね。自分の坐を少しでも人のために向けたいと、そういう気持ちはありますね。しかし、正直なところは、こんなことを話したり、本を読んだり、そんなことはさておいて、ただ坐っているだけが気持ちがいいと、それが本音ですかね。」

 

江尻「短歌の中に、なかなか坐禅をすることも難しくなってきたというようなことを詠っておられますが、やっぱり越智さんにとって坐禅というものは最後まで欠かすことのできないものだという思いがおありになるわけですか。」

 

越智「そんな感じですね。たくさん坐るわけでもないんですけれどもね。」

 

江尻「現在でも一旦坐ったら四〜五十分は坐られるというのをお聞きして正直驚きました。この短歌を見る限り、あまり長くは坐っておられないんだろうと思っていたので、びっくりしました。」

 

越智「やっぱり長く坐ってくると慣れなんでしょうね。とにかく、他に何もないけれども、坐ることだけは気持ちがいいんです。そんな感じですね。」

 

江尻「やっぱり越智さんは坐禅の人ですね。」

 

越智「それだけです。他は何もない。」

 

江尻「今日はありがとうございました。」

 

越智「お恥ずかしいことで。」

 

江尻「やっぱりこうやって実際にご本人にお聞きしないと、短歌だけ見ても分からない部分がありますからね。今日はお話が聞けて大変良かったです。これからも引き続き、風信に短歌を載せていって下さいね。」

 

越智「こんなしょうもない短歌を載せるのは本当に申し訳ない。」

 

江尻「とんでもないです。この短歌をご覧になって励まされている方がいっぱいいると思います。どうもありがとうございました。」

 

越智「ありがとうございました。」