東洋的霊性と現代人の夢

                    鈴鹿 照子

           

 東洋的な霊性の意味するところは何かについて、鈴木大拙はいう。「霊性の意図は、知性をしてその前進性、対象的推論性を・・・捨てしめんとするのである。・・・仏者はこの転身一回を転依と云って、知性が、その自ら認めて基底としていたものの取替だとする。即ち知性的分別識が一蹈に蹈翻せられて霊性的自覚の本体に撞著したと云ふことになるのである。・・・。 霊性的自覚は、人間意識の全野にわたる、最も根源的な転回である」(『臨済の基本思想』)。この小論では東洋的霊性をこのような意味で使用する。

鈴木大拙、久松真一、玉城康四郎などと西欧の深層心理学者ユングとの間には、直接、間接の交流がある。大乗仏教においてはすでに2、3世紀にアーラヤ識という深層識が発見されているが、その一方、19、20世紀になって、フロイト、ユングなどが、夢などをつうじて、無意識=深層意識を「再発見」した。東洋と西洋がこの心の深層領域をめぐって、主として上記の人々を中心として、その異同を見つめ、接点をさぐりながら、模索が重ねられているのが現代であるといえよう。

 ユングは鈴木大拙の英文の『禅仏教入門』に序文を書いている。1958年には、久松真一とユングの対話がスイスで行われている。そのなかで久松は集合的無意識、集合的無意識に由来する繋縛からも自己を解放することができると考えるか否かをユングに問う。この対話では、そのような、根源的テーマが俎上に上ったのだが、残念なことに、翻訳の問題、準備不足、などにより、充分にかみ合ったものとはならなかった《その要点の的確な整理を阿部正雄が「ユングと禅における自己」(『イースタン・ブッディスト』1985・英文)でしている》。

 この対話の英文公表をユングは以下の如き理由で拒否する。「真の理解に到達するために欠かせない基礎的な作業がまだなされていないからです。私が、少なくとも一年間ですが、日本に参って、禅哲学を研究するか、それとも久松博士がスイスに来られて、私の仕事を徹底的に研究されるべきです。・・・私自身、久松博士と試みに言葉を交わすだけで禅に関する的確な見解を持てたなどとは夢にも思わないでしょう。・・・ヨーロッパの心理学についての本当の知識を先生にお伝えできたなどとは、少しも思っていません」(村本詔司『西洋と仏教の出会い』花園大学国際禅学研究所 研究報告)。この未完の対話は、時代が更に混迷を深めているといわざるを得ない現代の私たちが引き継ぐべきものであるといえよう。

 ある意味では、この課題を引き継ぐように、玉城康四郎は1966年、スイスのユング研究所で3ヶ月余の夢分析を受けている。そこには次のような問題意識があった。「仏教の領域はその大部分が無意識域からの発言であり、分析心理学はまさに近代の学の立場から、この領域に接近しようとしている。・・・仏教のこれまで気づかなかったさまざまな視点が発想されていることは容易に想像できる」。そして、その間に見た二つの夢が公表されているが、この夢体験を通して玉城は次のようにいう。「覚めてみれば意識の変革は何も起こっていない。夢は覚時に対して、どこまでも対象性の意味を持つに終始するものであるといわねばならない」(「分析心理学と全人格的思惟」『東西思想の根底にあるもの』)

  一方、夢と仏教ということにかんして、私たちはもう一つの流れをたどることができる。大まかにいえば、般舟三昧経・観無量寿経→善導→法然・親鸞・一遍、そしてこれら祖師たちだけでなく、中世一般庶民の間に広く普及した参籠して夢に神仏からのメッセージを求めるという浄土教系の流れである。善導は毎夜夢中に現れる一僧に導かれて『観経疏』を書き、同疏のなかには『夢定』という用語が使用されている。一遍もまた『語録』で、夢に仏を見るのは「実なる事も有べし。夢は六識を亡じて、無分別の位にみる故なり。ゆえに釈には『夢定』といへり」といっている。

 

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 夢の旅を通して東洋的霊性の世界にふれ、さまざまなとらわれから次第に自由になっていった一人の現代女性、中村隆子の軌跡を以下、辿ってゆく。これは彼女の晩年、4,5年間の記録である。彼女は今春、52歳で亡くなった。彼女の、夢に導かれての変容過程は、前述した夢をめぐる流れのそれぞれと接点を持っているように思う。

 まず、彼女がどのような思いで自らの人生を生きたのかを、彼女の文章を通して紹介しよう。

 

《要らない命と診断するのか》 

要る命、要らない命。命の選別。体外受精した受精卵の遺伝子を調べ、子どもがデュシェンヌ型筋ジストロフィーになる可能性を判断する受精卵診断(着床前診断)計画を、慶応大産婦人科チームが日本産科婦人科学会に申請したという記事を読んで、そんな思いが頭に浮かびました。あなたの命は生きるに値し、あなたの命はそうではない。治療の見込みのない遺伝性の病気になる可能性のある卵なら、抹殺してもかまわない。私にはその記事がそういっているように聞こえます。

 私は筋ジストロフィーです。もしかしたら不要だといわれたかもしれない命を持って生きています。命を物として見る時代。そんな時代に生まれあわせた私は、どのように生きていけばいいのでしょうか。たとえ要らないと言われても、私にはかけがえのない命です。それを粗末にしないで、自分なりに精一杯生きること。それが筋ジストロフィー患者としての私の務めかもしれません。そして、そのように生きることが、何より人として命を与えられたことへのお礼ではないでしょうか(朝日新聞大阪版 2004年2月1日 声欄)

 

  このころから、仏教的世界観が自らを救うかもしれないという予感が彼女に芽生え始めるが、彼女の半生は生きる意味を求めての、絶えざる問いの連続であった。あるときは答えを見出せないまま、絶望的な心境に陥り、あるときはかすかな灯が見えたように思えたこともあっただろう。そのようななかで、彼女の夢は次第に深まってゆく。

 

夢1【悲しみを知ったからこの駅で降り、私を救い人を救うためにこの街に来た】   

 私はある駅で電車を降り、ただ一人

街を歩いて行く。この街は、貧困はも

ちろん病や死がごろごろところがっ

ていそうな、あらゆるものが枯れはて

てしまったようなそんな街だ。ぶどう

畑のぶどうの木も枯れている。わたし

はよろよろと歩いていくが、疲れ果て

て、前のめりに倒れそうになる。その

とき、左の塀の奥に石造りのお城のよ

うなホテルが見える。私はそのホテル

のほうに歩いていく。以前この街に来

たときには、煉瓦造りのホテルに泊ま

って、元気になったことを思い出す

(2004年8月)

 

 この夢が自らの生死にとって根源的に重要な意味をもつ、そう直観した中村隆子は《私はなぜこの街で降りたのか。わたしはここへ何をしに来たのか》と、自らに問い、その問いを深化させながら、そのプロセスを文章化した。以下《  》内の言葉は彼女自身のものである。この夢のタイトルとした《悲しみを知ったからこの駅で降り、私を救い、人を救うためにこの街に来た》は、この問いを深めるなかで、彼女のえた答えといえる。

 彼女はどのような悲しみを知ったのか。《障害が重くなり、次第に自分の力ではできないことが多くなっている。いくら努力や熱意があっても無理なことがある。あらがえない現実、障害の進行に追いつけない私。病に凌駕されている私。今のわたしには内から自ずと湧いてくる力がない》。そして、自らの病の進行と、身心の諸機能の喪失過程を歩まなければならない「老」の課題とが深いところでつながっていることにも気づいていく。

《砂を焼いて固めた煉瓦造りと何億年もかかってできた岩石を積んだ石造り。近代の悲しみと永劫の悲しみ。それとも、1軒目は私の(個人的)悲しみを癒す場所、2軒目は私と、私につながる人々の(普遍的)悲しみを癒す場所なのだろうか。私はここに泊まるだけではなく、ここで働くことになるのだろうか》。

ぶどうの木は〈死んで甦る神〉の聖樹とされることがあるという。〈生命の樹〉を象徴することもある(『世界シンボル辞典』)。その木はいま枯れている。けれど《私が石造りのホテルに泊まり、そこで安らぐことができたとき、そして、もしかしたらそこで働き始めたとき、ぶどうの木は甦り、豊かな果実を再び実らせるだろう》。

 

夢2【印鑑ケースの贈り物】

知人からケース入りの印鑑を贈り物にもらった。ケースを開けると中に印鑑は入っていなかった(2004年12月)

 

自分の力ではどうすることもできないことがある、ということに気づかないと=気づかされないと開けてこない世界がある。それに突き当たって、もがき、あがき、絶望して疲れ果て、その果てに開けてくる世界。絶望から再生へ。そのプロセスを示しているのが夢1である。そのプロセスを経て、再生した私がまずもらった贈り物は空(から)の印鑑ケース。

印鑑は私が私であることを証明するために使用される。アイデンティティを象徴している。アイデンティティ・常住なる実体的存在としての自己の証明。そのようなものはほんとうは存在しない。それ自身で独立して存在する我、自性としての我が実体としてあると思うところに執着が生まれ、思い通りにしようとする態度が生まれる。彼女がその真実を直覚しえた、ということが、その直覚の成立がこのような贈り物として表現された。空の印鑑ケースが自己であるというイメージのなかには、無自性ということとあわせて、無自性であるがゆえに外の世界とも自在につながっているというイメージも含まれているだろう。ケースは自在に開閉できる。(この夢に非常に明瞭に現されているように、夢は空の印鑑ケースのような具象物を通して、内的世界のありようを象徴的に表現する)

 

夢3【無相の私が見た世界】

私はYさんに左手をひっぱられて、あれよあれよという感じで、すごいスピードで、闇の中を走ってゆく。つながれている手はとても暖かい。手を離された私は前のめりになってばたりと倒れる。顔を上げると家の中。父母姉妹が体操をしている。皆が同じ格好をして、同じ体操をしている。それを見て私はなんだかおかしくて、笑ってしまう。

 私は部屋の隅にいるが、母の足の指が私に当たる。何もいないはずなのに何かを感じた母はなんだろうとより足を伸ばし、私の足にさらに触れる。父に「何かいる」というが、二人には何も見えない。部屋には蚊が飛んでいる。父は蚊取り線香をカンから取り出す。

 私は階段を下りて、玄関の外にでる。入り口のポーチに石か粘土でできたねずみのような猫のような像が並んでいる。外は夜。私は再びYさんに手を引かれて、ずんずん前へ進んでゆく。動物園で、ライオンがいる前を通る。でもそのライオンが生きているのか、絵に描いたものなのかわからない。Yさんが「ライオンの絵が描いてありますね」という。やっぱりライオンは絵だったと思う(2005年5月)

 

 この夢で、彼女は目に見えない存在として登場する。私が母の足に触っても、母は気配を感ずるだけ。同じ部屋にいるのに、父も母も彼女の姿が見えない。

彼女は、Yさんと繋ぎ合っていた手を離し、「前のめりになって、ぱたりと倒れる」という象徴的な身体表現をして、夢の始めにいた領域と、これから入る領域との境界を通過する。入った領域は家族がいる「家の中」。家族が住んでいる家は、それまで彼女もまた住んでいた場所である。「転倒」することで、その世界に入る。この身体表現は大変示唆的である。無相の姿のままに、これから入っていこうとしている世界(=これまで属していた世界)が「転倒」した世界、転倒妄想の世界であることを暗示する。その世界の住人は自分の住んでいる世界が転倒したものであることに気づかない。

ここに登場している家族は、現実の彼女の家族を意味してはいない。家族皆が同じ体操をしているという具象表現はある共通の文化的・社会的・自然的背景の中で、共通の価値観や、通念が形成される、その基盤のことを意味している。現世的な世俗社会の社会通念にしたがって行動し、価値観や秩序を共有する共同的存在。彼女がこれまで属していた世界。それが転倒した価値観を有しているとはどういうことか。この世界の内実を示すのが夢の次のシーン。他の生き物たちの生命がどのように人間の都合によって恣意的に扱われるかを彼女は目のあたりにする。いうまでもなく、他の生き物の〈扱われよう〉を通して、人間同士の関係をも照射している。三場面に分かれて表現されている。

1、家の中では「人間にとって邪魔な」蚊が、蚊取り線香で殺されようとしている。選別の対象。

2、家の入り口に立っている猫のようなねずみのような像。猫かねずみか判別し難いようである。両者の共通性が暗示されているのだろう。両者は人間にとっての好悪の対象。一般的に猫は好かれて「飼われ」ねずみは嫌われて「駆除」される。

3、動物園のライオンや他の動物。檻に入れられ、絵のように一方的に対象として見られる存在。

 

  自分の都合によって他存在を自らの思い通りに扱おうとする。主体としての私が対象としての他者を自分の恣意的なまなざしを通してとらえる。虚妄分別の世界。二元対立の世界。そこではあらゆる存在は命の根源から切り離され、ばらばらの存在として自己を体験せざるを得ない。対象として恣意的に扱われる生き物のありようを通して、虚妄分別の世界で生きる人間同士の関係性のありようをもこの夢は照射している。その世界の虚妄分別性を彼女が見抜くことができたことをこの夢は物語る。そしてそれを見抜くことができる私のありようは《無相の私》である。そして、そこでの自他の分け隔てをしない無分別のありようを彼女とYさんが手を握り合っていて、その手は暖かいということで伝える。このような形で彼女のありようの根本的転換が暗示されている。

 

夢4【聖所で不思議な数珠を拾う】

私は一人の女性と、土地神が祀ってあるような古い社にお参りに行く。お参りをすませて行きかけると、地面に数珠が落ちている。同行の女性がそれを私に手渡してくれる。数珠は水晶でできていて、二重になっている。真ん中の母珠は翡翠でできていて、壺型になっている。壺の入口を覗くと、なかに仏様が見えそうな気がする。(2006年5月)

 

夢5【私は聖所で突然倒れ、土に埋まり、そして甦った】

 やはり、土地神が祀ってあるような古い社。その前に一かたまりの巫女のような女性が集まっていて、そのうちの何人かが、お参りの仕方を他の人たちに教えている。

 私も女性たちのところへ行って、教えてもらう。社の正面に立った私に、一人の初老の女性が「そこまで行って拝むんです」と、手で前方の地面を指す。地面には敷石が敷かれ、ところどころ半透明の白い色の小石のようなものが落ちている。敷石の上をひざまずいた姿勢のまま進んでいく。一番奥まで進んでいくと、社のすぐ手前に足跡のマークがある。ここで拝めばいいのだと、“えいやっ”と一思いに何かを超えるような、最奥部に引き込まれるような感じで足跡の上に乗り、目をつぶって、手をあわせる。

 すると突然、その姿勢(ひざまずいた姿勢)のまま後ろに倒れ、屈葬のような形で地中に埋まる。ここは土の中だと思いながら拝み続ける。拝み終わって再び地面に出た私は、後ろへ下がって、迎えてくれた女性たちのいるところに戻った(2006年5月)

 

 夢4と夢5は、約2週間の間をおいて見られており、共通のテーマをもつ連続的な夢と考えられる。古神道的な《社》を場とし、生と死をめぐる始原の宗教性の重層的なイメージが現れている。 

この社は墓所にして拝所であるという性格をもっている。夢5で、境内の所々に、白色半透明で四角い、小石のようなものが落ちているが、それは死者の骨や歯であるだろう。「わが国の古神道には、中国の古代信仰との間の親縁を思わせる事実が多い」。そして「卜文によると、死は残骨を拝する象である。・・・鳥葬・野葬とよばれる屍体の一時的投棄であり、いまもその俗を行うところがある。その屍体の風化を待ち、残骨を収めてこれを祀った。残は(がつ)の形声字、歹がその象形、死とは歹を拝跪する形である」(『漢字の世界』白川静)

この夢には、死という文字が誕生してくるような太古の場に彼女がおり、そのこと自身を儀礼行為として行っているような情景が現れている。彼女は境内に散在する骨を、跪いてあがめながら、敷石の上を進んでいく。

縄文人の宗教性ともつながる。縄文人は「墓はこの世からあの世への入り口と考えていた。墓の上に霊の依り代となる石を敷き、あの世とこの世の境界にもした」。「人びとは祖先の骨を掘り起こしてきて、環状に巡らした配石の要所要所に墓穴を堀り、そのまま、あるいは壷に入れて埋め、祖先の霊を埋め込んだ祭りの場を設置しようと考えたものと思われる」(『縄文の生活誌』改訂版 岡村道雄)

エリアーデはいう「死者をほとんど胎児の姿勢で埋葬する風習は、死とイニシエーションと胎内帰還の間の神秘的な相互関連から説明できる。胎児の姿勢で葬るのは新しい生命の始まりを強く希望することにもなる。・・・新しさのもっとも印象ぶかい表現は誕生である。霊の発見は生命の出現と一つと」(『生と再生』)なる。オーストラリアのある部族の成人式儀礼では修練者(ノヴィス)は「日頃なじんできた環境から遠くへ連れ去られ、地面の上にねかされ、小枝で覆われる。・・・この祭儀のまさしく最初の行事が、すでに死の体験を意味していることを強調しておく必要がある」()

夢4の壺は時に死体をいれ、時に死体や骨を入れるものとして、死のイメージと結びつく。と同時に子宮を象徴するものとして胎児―誕生のイメージとも結びついていく。壺そのものが生と死の二重の意味を表し、二つの輪(これも生と死を表す)が一つに結び付けられていることの中に、その不可分性が象徴されているだろう。生死一如の世界。夢5では彼女自身が自らの儀礼行為を通して、死と再生を象徴的に体験する

その儀礼へと彼女を導くのは、先輩の巫女的女性たちである。

沖縄久高島では女性たちの成巫式がつい最近まで受け継がれてきた。「琉球弧の島々は太古代の日本民俗文化の多くがよく保存されてきている島々といわれている。・・・琉球弧は仏教以前の姿が濃厚に見られる島々であるといえよう。・・・古代からほとんど変わることなく存続してきた神や拝所、祭祀、司祭者などは、その村の歴史的過程や地理的過程の具象化したものといえると思われる」(『神と村』仲松弥秀)といわれるが、この成巫式はイザイホーといわれ、久高島に生まれ、一定の条件をそなえた新入りの女性たちが島のいろいろな神事を行う神女の仲間入りをするため4日間にわたって行われる儀礼である。中村隆子のこの夢は、非常にシンプルな形で、イザイホーにおいて行われる儀礼の祖形のような意味をもっていると考えてよいだろう。以下、両者の共通点をあげると、

1、すでに儀礼を済ませた先輩女性に導かれて、一定の型に則った儀礼に加わること。

2、聖界と俗界の境を超えて、聖域に入り、そこで象徴的な死の体験をすること。

3、そこから再び「日常」レベルに帰還していること。(イザイホーについては例えば『宗教人類学』佐々木宏幹 に詳しい)

 

さらに、この数珠にはもう一つのメッセージが含まれているように思う。《仏教以前》と《仏教》のつながり。数珠には仏教的なイメージがあるが、それを拾った場所は古神道的な《社》。そして、二重の輪を一つにつなぐ壺は翡翠でできていて、なかには仏がいるように感じられている。二つの世界が混在している。

考古学者 森浩一は遺跡の発掘の経験の積み重ねのなかで、つぎのような思いを抱く。「縄文時代や弥生時代の遺跡を掘ってみると、死者を埋めた墓の跡にぶつかる。・・・骨がなくなって歯だけが残っているような墓を掘ったとき、なにが他に残っているかといえばやはりヒスイの玉である。ヒスイの硬さも輝きも失われないまま当時の姿を保っている。このことを昔の人も知っていたのではないか」。硬玉ヒスイの玉は装身具というより「さらに深い、人間の生命の問題、あるいは死後の世界観にかかわるような」財であった。

そして、縄文時代前期にヒスイの使用が始まっているが、仏教が広まり始めた六世紀後半には、それにたいする価値観が急速に衰えていったと指摘している(『ぼくの考古古代学』)

ヒスイに「永遠の生命」のイメージを託す時代から、仏教的世界観のなかで生死のテーマが深められる時代への移り変わり。そして、〈仏教以前〉と生死一如の〈仏教的世界観〉は推移はしても、連続的につながっている。夢4の数珠はそのことをも伝えようとしているのではないだろうか。

夢4、夢5で中村隆子が内的に経験したことは、個人性を超えた太古の宗教性に触れるものである。自己存在の源底、無意識の最深奥における生命の経験である。唯識は「アーラヤ識は、無限の過去からの全経験を貯蔵している」と説き、ユングは「集合的―無意識的内容には、太古的・・・な型がある。すなわち太古から存在している普遍的な像(かたどり)がある」(『元型論』)とする。この内的体験は彼女に何をもたらしただろうか。

彼女は目覚めてから、その日一日中、《これまで体験したことがないような満ち足りた気持ちが続いていた。空気でできたカプセルにやわらかく包まれて、そこでは時間が止まっているように感じられた》と語る。このヌミノーゼ的体験は一時的なものに終わってしまうのか。それとも根源的変容へとつながるのだろうか。次の夢がそれを語る。

 

夢6【不安と恐怖が、自宅マンションの部屋の前を通り過ぎていく】

私の住んでいるマンションの階段を、不安や恐怖を音にしたらそんな音になるんだろうなと思えるような音の固まりが上ってくる。私は部屋で怯えている。静かになって若者たちの声がきこえる。

そして不安と恐怖の音は部屋の前を通り過ぎていく。しばらくして例の若者たちが集まってきて、私の部屋の前で、この音をすっかり追い出す相談をしている。(2007年1月)

 

 不安と恐怖の音を聞いて、彼女はおびえるが、その音は彼女の部屋には入り込まず、通り過ぎる。人である限り避けることのできない「老・病・死」はもはやかつてのように、彼女を絶望の淵に追い込むことはない。「私の部屋」=わが心は進行する病の不安と恐怖に支配されてしまうことはない。自己と世界を実体として捉え、それに執着する態度から自由になり始めていなければ成立しえない境位である。

(注・筆者は中村隆子の夢の旅の同行者。夢と日常の関わりのありようが昔と異なる現代では、夢の旅の経験をもつ同行者なしの一人旅は時に困難であり、時に危険であるだろう)