「東洋的無の性格」
平田高士氏ドイツ語訳
常盤 義伸
"Die
Fülle des Nichts" (常盤試訳ー『無の無量さ』、副題「禅の本質についての抱石・久松真一による体系的解明」)平田高士・Johanna
Fischer 共訳、ドイツ、Neske社一九七五年発行、一九八〇年再版。
平田精耕氏(花園大学教員名簿、学術書著者名、協会名簿では「平田高士」)が今二〇〇八年一月九日死去され、三月四日天龍寺葬が行なわれた。平田氏は一九五三年に花園大学講師となり、一九七一から九一年まで教授、ただし教授会に出席義務のない嘱託教員の身分であられたため、禅文化研究所理事長(一九八〇ー九四)、同所長(一九八九ー九四)に就かれたが、私が直接交流することは殆どなかった。協会誌は、平田氏が一九六〇年四月から六一年十月まで協会の平常道場(毎週土曜日午後、北野、選佛寺)での論究を担当され、東嶺円慈の『宗門無尽燈論』をテキストに使っておられたこと、十一月十日、留学のため「俄に伊丹発北極まわりで渡独され」たことを、伝えている。(一九九九年度の時点で『論集』1が全会員に発送されるさいに、FAS協会への反応を示されない旧会員のなかに平田氏も含まれていることを知った。)しかし国際交流の関係では、平田氏から私になにかとご配慮いただいたことを思い出す。
アメリカのミシガン大学がジャパン・ファウンデーション、即ち国際交流基金、のワシントン支部から補助金を得て、一九八二年秋冬学期から九三年春学期に亘る仏教学(禅思想)の講義のために私を極東言語文学学部(FELL)の客員教授として招くということがあった。外国留学の経験の全くない私だったが、全学部から集まった受講学生たちの熱意に支えられてなんとか講義を進めていた八二年晩秋のころ、学部長のルイス
O・ゴメス教授が京都の禅文化研究所の主催する国際会議に招かれたと云って出張された。一〇日間ほどして帰国されたゴメス教授は喉を痛めて長い間声が出ない状態で、会議のことは何も聞けなかったが、日本への出張を楽しまれた様子だった。帰国後の翌年、一九八四年十月中旬の一週間インド、ニューデリーで開かれた国際仏教学会に出席する機会を、天龍寺僧堂師家として招待を受けておられた平田氏が、英語による発表だからと私に譲って推薦してくださった。帰国直後、開会・閉会式に出席されて真近でお声とお姿とに接していたインディラ・ガンジー首相が暗殺されたとの報に接して、暗澹たる気持ちになったことを鮮明に思い出す。しかし会議主催者からは、推薦者・平田氏への丁寧な謝辞とともに、私がお土産に持参した『絶観論』英訳本に対して、主催者自身ボダイダルマについての論文を書く用意をしていたので有難かったと、熱烈なお礼の言葉を綴った手紙が届けられた。
私は、「東洋的無の性格」を含む久松先生の論文の既英訳六点の改訂版を今年二月に協会の名で協会ウエブサイトで発表させていただいた(別稿、協会声明文総会報告参照)あと、最近平田氏のこのドイツ語訳に接することができたので、読後の所感を『風信』に寄稿することで平田氏への追悼の意を表することにしたい。
禅文化研究所からいただいた「臨済宗天龍寺派管長 平田精耕 略歴」によると、平田氏は一九二四年八月二六日、天龍寺塔頭「松巌寺」で生まれ、一九五〇年京都大学文学部哲学科卒業、天龍寺専門道場に掛塔、一九五四年に松巌寺住職、一九六一年十一月から二年間ドイツ、ハイデルベルグ大学に留学、一九六七年臨済宗天龍寺派宗務総長、一九七一年天龍寺専門道場師家、一九八三年から九八年まで谷口国際シンポジウム哲学部門(京都禅シンポジウム)を計一六回、禅文化研究所理事長として主催、同じ八三年から九四年まで東西霊性交流を主催。一九九一年臨済宗天龍寺派第九代管長に就任された。ご著書多数のなかで私が利用させていただいているものは、筑摩書房一九六九年発行、禅の語録一八『無門関』である。訳書には私が未見の「東洋的無」ドイツ語訳、西ドイツ、ネスケ社(出版年次など不明)があるとされるが、確認できない。スイスの出版社発行の久松先生の論文「悟り」と「無神論」のドイツ語訳(後者は滝沢克己氏訳)、そしてその他の久松先生の著作文献目録を載せる書物
Shinichi Hisamatsu: PHILOSOPHIE DES ERWACHENS Satori und Atheismus, Theseus-Verlag
1990 は「東洋的無」の翻訳には言及しない。なお一九九三年、ベルリン国立民族博物館に海外初の『禅ー仏教』常設展示場を開設されたとのことで、平田氏がそこで墨跡の筆をおろされるところを紹介する写真が当時の新聞に載せられていたことを思い出す。
ドイツ文に慣れない私は、禅文化研究所に共訳者ヨハンナ・フィッシャーさんから署名入りで寄贈されてあったこの訳書の再版をコピーさせてもらい、ランゲンシャイト社の新カレッジ版ドイツ語辞書で殆ど一語残らず英語に直し、見事な表現に感嘆しながらなんとか読み通して、その内容を確認することができた。平田氏は、京大でインド哲学を専攻される前に外国語大学を出ておられるので、優れたドイツ人共訳者の協力を得て作成されたこの訳書は、貴重である。
訳書のジャケット表紙折り返し部分には、以心伝心・不立文字を本質とし言葉による説明を必要としない禅が、なぜここに紹介されるような思想表現を産み出したのかと問い、その答えを原著者の生き方そのものに見ようとする。すなわち、近代における東西の思想対決のなかに生を受けた、京都大学名誉教授(仏教と宗教哲学)抱石・久松真一は、伝統に根ざした仏教研究と、外から摂取された西洋の精神財とを相互に比較検討した結果、精神科学の灰色の理論に深く絶望し、異郷と家郷との両方の道を通り抜け、道を絶したところで大悟に到った人である。この人が、禅仏教の云う「無」の学問的な定義をもって禅教義の出発点を新たに確立し、日本での教師、禅師、そして禅教義の改革者、となった。その人の著述の中核となるものがここに紹介される論文である、と。
ジャケットの裏表紙折り返し部分に記されている著者の略歴は、一九五〇年代に欧米での講演旅行でパウル・ティリッヒ、マルティン・ブーバー、ガブリエル・マルセル、ルドルフ・ブルトマン、マルティン・ハイデッガーと会談したとするところで終わっている。
目次の前のページには、著者の墨跡「凡情脱落 聖意皆空」(十牛図、人牛倶忘、序八の言葉、辻村公一氏所有)の写真と訳者による解説がある。このあと、訳文が九〜五六ページ、続いて訳文中の固有名詞や術語四五項目の簡単な解説五七〜六五ページ、そして「著者」についてジャケット折り返し部分での紹介の元になる解説六六〜六七ページ、が「FAS禅協会」の略字の説明と、最初の著書二冊、『東洋的無』と『絶対主体道』と、の名を挙げるところで終わっている。(「東洋的無」の訳文への言及はない。)
以下に私がこの訳書を読み通して得たお粗末な感想を紹介しますが、貧しいドイツ語理解力による誤読・誤解によって大変な無礼を犯してはいないかを恐れます。
(1)訳者が久松先生の代表的な論文著作の一つをドイツ語文化圏の人々に生き生きとした現代ドイツ語表現で紹介されたことは、大きな貢献である。私自身、初めてドイツ語による久松論文を、リズムを楽しみながら丹念に読み返すことができた喜びは大きい。
(2)訳書の初版発表は一九七五年だが、『真人 久松真一』春秋社一九八五年、ご寄稿文「超仏越祖の人」によると、平田氏は一九六二年夏学期にベルリン自由大学東洋学研究室で、一九六三年冬学期にはハイデルベルグ大学神学部で、「拙訳」を基底に禅学を講じられたとのこと。「東洋的無の性格」の英訳は一九六〇年十一月に
Philosophical Studies of Japan 2 (UNESCO)
に発表されている。(私は一九六二年一月に英訳コピーを久松先生から郵送していただいた。)英訳と比較して知られることは、このドイツ語訳が英訳をもとにして作成されたこと、しかし仏教や禅からの引用文の訳出にさいしては、英訳とは別の理解を示し、しかも残念なことに、原典に当たっていないため誤読が少なからず見られることである。
ただ、柳田聖山氏が入矢義高先生のご協力を得て筑摩書房から禅の語録シリーズを続けさまに発表された、その第一巻『達摩の語録』の発行は一九六九年三月で、禅の文献を正確に読む試みが始まるよりずっと前のこのドイツ語訳に、禅テキストの読み方に間違いが見られるのはやむをえないことだが、英訳は久松先生に近い人たちの作品なので、その読み方を敢て無視する理由はなかったはずである。
(3)「超仏越祖の人」によると、一九七五年、平田氏が岐阜のお宅にこの訳書を届けられたとき、久松先生は、自分は白内障で、もはや文字を読むことができない、今は文字を読まないことを楽しみにしている、という趣旨のことを云われたとのこと。ご自分の著述がドイツ語で紹介されたことは、ドイツの哲学・宗教に親しんでこられた原著者には大変な喜びであったに違いないが、平田氏が訳出にさいして疑問の点を直接久松先生にお尋ねして理解を確かめる機会を得られなかったことが残念である。
(4)平田氏は、ドイツ留学を終えて帰国後、久松先生に報告に行かれたときのことにも言及しておられる(同書)。『碧巌録』のドイツ語訳者で「東洋学の権威」ウイルヘルム・グンデルト教授は、「東洋的無の性格」の論文を素直には認められなかったという。その理由の第一は、「この論文は歴史学を無視している」、なぜなら、古人の言葉の引用の仕方が「その出てくる人物の順序が歴史を無視している。これは学術論文にはなりません」と。久松先生はこれに対して一言も答えられなかったということである。確かにこの論文に引用される禅者の語録や仏教の経典・論書などは、ドイツ文化圏の人々には殆どなじみのないもので、当惑することばかりではあったであろう。しかし、それらがすべて主題の解明のために自在に言及されるところに意味があることは、承認されなければならない。『碧巌録』に親しまれた―あるいは、悩まされたであろう―グンデルト教授のお言葉としては、意外な感想である。
(5)グンデルト教授が接しられた平田氏の講義原稿と同一線上にあるこのドイツ語訳を読み通して注目される大きい特徴は、「東洋的無」の語の扱いである。平田氏は「序」で「東洋的無あるいは禅仏教的無」として、説明を含む訳語を与えておられる。そして、この後、「東洋的」の訳語をいっさい用いずに、すべて「禅仏教的」あるいは「禅的」という意味の訳語を最後まで一貫して用いておられる。この訳書の最終六八ページで訳者は、これが久松真一著作集巻一『東洋的無』、京都一九七〇年版に収める、一九四六年著作の論文、「トーヨーテキムノセイカク」、すなわち禅的無の根本的性格、のドイツ語訳であること、「トーヨーテキ」とは一般的には「極東の」「東アジアの」または「東洋的」「東方の」という意味をもつが、ここでは著者との合意で、同義である「禅仏教的」の語で訳した、と記されている。
平田氏は、一カ所で「生き生きとした無量さのこの無」という意味の訳語(dieses Nichts der lebendigen Fülle)
を与えておられ、これがこの訳書の書名『久松 無の無量さ』(hisamatsu die fülle
des nichts) に繋がっているようである。
平田氏にとって「東洋的無」とは「禅仏教的無」「禅的無」と互換性をもつ言葉であったので、その等置に何の問題もなかったかに見える。しかし、原名を別の言葉で言い換えたままで終わっては久松先生の著述の意図が正しく受け止められないのではないか。久松先生が東洋の歴史のなかで自覚されてきた人間の本来のあり方を「禅的無」ではなく「東洋的無」とされたのは、それが宗派や宗教の対立を超えるだけでなく、東洋・西洋の区別をも超えていながら、たまたま東洋において発見されたことを敗戦の直後に世界に宣言する必要があると思われたからではないか。しかし先生ご自身は、この論文のあと著作の題名に「東洋的」の語を冠せられることは全くなく、洋の東西を超えたFAS構想を展開されたことは、周知の通り。
ドイツ語訳は、英訳が一貫して訳出した「東洋的無」の語を敢て避けながら、その理由を挙げることは全くない。平田氏は、「東洋的」という言葉をヨーロッパの読者のためにドイツ国内で出版する書物のタイトルに使用することには問題があると考えられたようである。平田氏は、後の著書でも久松先生を「小衲の恩師久松抱石居士」と呼んで深い敬意を表しておられる(集英社、『高僧伝6 栄西』一九八五年、あとがき)。集英社のこの『栄西』伝で平田氏は、協会が一九六〇年六月九日付けで発表した「全人類倫理アッピール―世界の危機に直面して―」を全文掲げ、ご自分の青春時代のまっただ中で感激してこれを読まれたことに言及し、「全人類の倫理をもとにした政治体制を今や確立すべきである、という抱石居士の主張は、あたかも栄西が、僧は固く戒律を持ち、それを手本として一般庶民が道義を固く守る。その上に天子が菩薩の慈悲をもって政治の根本方針とする、という「興禅護国論」の中で説く禅の国家論と、理論的にまったく一つになるのではないでしょうか」と述べておられる(一五七ページ)。栄西の『興禅護国論』は、私が仏教伝道協会の英訳大蔵経企画事業のために英語全訳を発表させてもらった(ZEN TEXTS, 2005)ので、私も栄西の著書の歴史的意義を平田氏と共感することができる。栄西と久松先生との比較の当否はさておき、平田氏が久松先生のご意向に反することを意図されたとは考えられない。
平田氏のドイツ語訳書が出版されてまもなくイギリスで、「オリエント(東洋)」「オリエンタル(東洋風)」「オリエンタルズ(東洋人)」など、何気なしに西欧の白人社会で使われているこれらの言葉に西欧諸国によるアジア植民地政策の匂いを嗅ぎ取るとする厳しい批判の書物がアラブ・パレスチナ人でアメリカ、コロンビア大学教授によって出版されている。Edward
W. Said, ORIENTALISM, Routledge & Kegan Paul, London 1978, (Peregrine Books 1985, 368 pp.). その本文最後のページで著者は云う、「何としてでも、オリエントをオリエンタルなものにする目標を達成しようと繰り返すことは避けなければならない、そういう回避の努力のあるところには必ず知識は洗練され[オリエントを救ってやろうという]学者の思い上がりは少なくなろう。オリエントという言葉がなくても、学者、批評家、知識人、人間は存在するわけだ。こういう人々にとって、人種、民族、国家の区別は人間共同体を促進しようという共通の企てほど重要ではないからだ。」
これは、しかし、主としてアジアにおける西欧植民地政策の現実を無視して優雅な研究を続ける種類の白人の東洋学研究者に向かって発せられた言葉である。東洋人による東洋学研究において気遣いする性質の事柄ではない。むしろ、はっきり自己主張をしないのがオリエンタルズの特徴だとして白人社会において軽蔑されていると、サイード教授はこの著書で云う。『オリエンタリズム』の内容は、論文や講演等を通して出版前にすでに西欧世界において評判になっていたと思われる。しかしまだ正確にはこの著者の主張の内容が確かめられない状況の中で、ドイツでの「東洋的無の性格」の訳書出版を無事に果たしたいお気持ちから、平田氏は「オリエンタル」の語を避ける決意をされたのではないか。余計なお世話だ、と訳者から叱られそうだが。
(6)久松先生の「東洋的無の性格」の英訳の内容がインドの仏教学術論文集のうち、編集責任者の論文に取り上げられて、高い評価を与えられていることに言及したい。論文集は、『中観派の弁証法とナーガールジュナの哲学』(Madhyamika Dialectic and the Philosophy of Nagarjuna), published by
Central Institute of Higher Tibetan Studies, Sarnath, Varanasi, 1977, 1985
(xxxii, 301 pp.). 序文筆者は、ナーガールジュナ研究の第一人者、T.R.V. Murti
論文の数は、ヒンディーで一七、英語で一二。すべて、一九七三年十二月サールナートで開催された全インド企画のセミナーに由来するものとされる。「東洋的無の性格」を取り上げた論文は、C.
Mani, "Relativity and Man's Image in Nagarjuna."
論者マニ氏は云う、久松は、普通に「無」と云われる語の意味を五つ挙げて、そのどれも本来の意味で「無」と云うことはできないとし、さらに起信論、黄檗の宛陵録、その他の資料を挙げて東洋的無が一切の限定と叙述とを絶することを説く。久松は東洋的無の虚空性が示す一〇の意味に関心を示したあと、東洋的無の即心性、自己性、自在性を強調する、として、さいごに水が主体で波から水に還るところに東洋的無の能造性を見る「久松真一の結論は賞讃に値する」、と云う。マニ氏は、中国で展開した禅が、菩提達摩を通してナーガールジュナの思想に由来すると考えており、「東洋的無」の理解の仕方も、それが禅的であって同時に、より包括的に、東洋的性格のもの、とする。これは久松先生のご意図に一歩近づいていると云ってよい。
久松先生のご縁で、数少ないが貴重な交流をさせていただいた平田高士氏への追悼を兼ねた拙文をおわります。