島田美穂様の御冥福を祈願して

川�ｱ 幸夫

平成一九年の六月二日に会員の島田美穂様がおなくなりになっていたことが最近になって判明したので、ここに謹んで御哀悼の意を表明することにしたい。御令妹の恵美様から伺ったところによると、死因は解離性大動脈瘤で当日の朝、朝刊を取りに庭へ出たところで倒れられ、そのまま息を引取られたということである。島田さんは大正一○（一九二一）年九月二三日生れだったそうなので、享年は八五才と八ヶ月ということになる。

島田さんのことは会員の中でも御存知ない方が大半を占めるのではないかと思うが、私も平成一六年の初冬に突然例会の席にお出になったのが初めてだった。その席上で、長らく会員に名を連ね、しかも相国寺のすぐ近くに住んでおりながら、何となく近寄り難かったので、と御挨拶されたのが、平常道場で常連の方々にとってもまったくの初対面であったろう。

それから翌年（二○○五年）の一月の平常道場に出席された際には、比叡山の天台宗の全面的な支援を受けて、インドの民衆の間で大乗仏教復興のために献身的な努力を傾けているインド人青年僧サンガ師の活動についてとても熱心に話をされ、それに動かされて四月の委員会ではＦＡＳ協会としても支援をすることに決め、三十万円の寄付をすることにした。この間の経緯については同年七月発行の『風信』第五二号の「総会報告」において明らかにしている。

仏教界の現状を見渡すならば、過去の栄光は兎も角として、キリスト教やイスラム教と比較すると、制度化された実定的宗教としては世界を動かす力に甚しく欠けているということは誰も否定できないであろう。勿論西洋の知識人のなかにもキリスト教には飽足らずに、仏教に期待する人々も決して少なしとはしない。つまり自律に立脚した近代人にとっては、久松先生がいわれた信の宗教では自らの宗教的要求を十分に根拠づけるものとはなりえず、覚の宗教としての仏教においてこそ却って近代人にとっての究極の拠り処を見出しうると考える人々である。しかし仏教は現実的利害が全地球的規模で戦ぎ合う現代世界の唯中に根をおろすに至っておらず、大衆の苦悩に応えてゆくことができていないのでは、宗教としての使命を十分に果しているとは云えない。したがって私はエコノミック・アニマル化した東アジア世界に在って、体制に安住して、積極的に発言したり、社会参加してゆこうとはしない現状からみて、仏教が再び活力を恢復するためには、東アジアから発祥の地インドへ還流して、民衆の間から湧き起こった、生活と密着した宗教的要求として仏教が再興されることが何よりも必要ではないか、そしてそこから再び仏教東漸の再現、もしくは全世界に向けた波動が起ることがあり得るのでは、と以前から夢想していた。しかし中国政権によるウイグル族およびチベット族に対する侵略・征服の実態が明らかとなるにつれ、東漸への動きは予断を許さなくなった。そしてそれゆえにこそ、徹底した無力が却って真の正しい力の源泉となり得るという逆説の体現者であったマハトマ・ガンディー（一八六九―一九四八）を産んだインド人自身のなかから偉大な指導者が出現することが何よりも望ましい、と思っている。このような考えを長らく温めていたものだから、島田さんのお話をお聞きして我が意を得たりという気がした。その後平常道場に来られた会員の方々と話し合いを重ねた上で、四月の委員会で正式にお議（はか）りしたところ、すぐさま常盤さんが賛成して下さり、それでトントン拍子で話がまとまったのであるが、おそらく常盤さんも私と同じように考えておられたのではないかという気がしている。

以上縷説したような御縁によって、同年の十二月に出た『風信』五三号には「北山正迪先生のこと」という一文を掲載していただけた。しかしこの文章の標題とは裏腹に、むしろ英文学の道を生涯歩まれた御自身の足跡を辿ることの方に重点が置かれていて、北山さんが主役になっているとは云えないようであるが、私などには大正末期に御所に近い閑静な住宅街に生を享け、府立第一高女という女子の名門校に進まれた島田さんの生涯は興味深いし、また吉田山の急斜面に立っていた北山さんの住居のすぐ下の家に下宿していたために協会誌編輯に引摺り込まれ、その打合わせで、多い時には昼夜を問わずに吉田神社の参道を昇り降りし、時には激論を交えて怒らせたりして、北山さんのさまざまな側面を具さに知っている私には、北山さんの若き日の颯爽たる姿が島田さんによって生き生きと描かれている箇所は実に面白く、冥土へ電送できる手段はないものかと思ってしまうほどである。兎に角三十代の北山さんは意気軒昂としておそろしく鼻柱が強く、島田さんのように大人しい女性にとってはまるでラグビー選手がいきなり乱入してきたようなものだから、その困惑ぶりは想像外だったろう。大体北山さんをうら若き乙女たちの教師にするということは羊の群に狼を放つにひとしい。勿論セクハラはしなかったのだろうが、女子だからといって手加減することは一切お構いなしで、傍若無人ぶりにかけては他の追随を許さない人だったから、拒絶反応を呈した生徒も多かったことであろう。良家のお嬢さんが多かった府一の高等科の才媛たちは定家とヴァレリーという二つのボールを次々に繰り出されて目を廻し、なかでも島田さんは右往左往させられ、揚句の果に疲れはててしまったのであろう。その上に折角念願が適って京大の英文学科に合格した喜びまで叩き潰され、更に英文学そのものまで完膚なきまでに罵倒されてしまったので、そのショックは大変なものだったとみえ、かなり長期間にわたってトラウマになってしまわれたのではないかと推測される。それは先ほどから取上げている一文の終結部において、「自分が行き着いたところは英本国では…異端視され、無視されている作家、アングロ・アイリッシュのロレンス・ダレルであった」と述懐されているところにも、若き日に北山さんから受けた衝撃が尾を引いていたように私には思われるからである。

それから暫くは島田さんとはあまりお会いする機会がなかったが、明る年の平成一八（二○○六）年の初夏の頃になって、島田さんが体調を崩され、老人ホームに入所されるらしいという風に大藪さんから知らされたので、林光院からすぐ近くにお住いだということなのだから常盤さんと御一緒にお見舞に伺うことにした。常盤さんの手控えによると、夏休み明けの平常道場で常盤さんが担当されるのが九月二日（土）に当たっていたので、論究が終ってから私も一緒に島田さん宅へ参上したのである。相国寺の東門を出てすぐのところに薩摩藩士を葬った広い墓地があるが、島田さんのお住いはそのすぐ東に隣接する幼稚園の角を北へ曲って少し歩いたところにある「ヴィラ塔の段」という三階建の古い木造建築だと大藪さんから聞いていたので、簡単に分るだろうと多寡を括っていたのに意外に分りにくく、袋小路に何度も突当ったり、時には怪しまれて居丈高に追返えされる憂目に遭ったりして、一時間ほども彷徨した末に漸くのことで辿りついた。着いてみたらどうしてこれがそんなに分らなかったのかが不可解なほどの特色のある建築で、可成り古色を帯びてはいるものの片仮名のロの字型の構造になっていて、大きな中庭があって、何となくヨーロッパ的な趣を秘めていて、なかなか洒落た空間を構成している。完成当初は随分ハイカラな建築として注目を惹いた筈なのに、現在では長らく住んでいそうに思われる近隣住民たちにまったく関心がもたれていないらしいのも、都市住民の共同体意識が分断されているのに気づき、そのことに改めて驚かされた。島田さんのお部屋は二階の南向きにあって、街中としては結構展望がよくて、そこを快適な勉強部屋として使っておられるとのことであった。

お部屋に通された時にはもう薄っすらと黄昏の気配が忍寄っていた。最初は「ヴィラ塔の段」の設計者についての話や、島田さんがここに入居されるまでのいきさつなどから話が始まって行ったように思う。それから老人ホームの話になったが、当分は入居の御気持ちはなく、もう少し南に下って御所の近くの家におられる妹さんと助合いながら暮しておられたようであった。それから後はどんな風に話題が展開していったかはよく憶えていないのだが、サンガ師と出会われた比叡山で行なわれているインド仏教への支援活動の話や、北山さんに連れられて久松先生にお会いになった時のことも話しておられたような気がする。やがて夕闇があたり一帯に立ちこめ、時刻も遅くなったので、そろそろ失礼をせねばと思っている内に近くの仕出屋から夕食を届けさせて下さったので、御馳走になった。相国寺から二 三丁ほど東には洛中を南北に貫く寺町通と河原町通とがずっと併走しており、それを御所の北辺を東西に区切っている今出川通と、林光院と向い側にある専門道場との間を伸びる上立売通で区切られた長方形の区域は出町に接しており、若狭から下りてきた嘗ての鯖街道の終点の雰囲気を未だに留めているから、自家製の鯖寿司を並べている店が一二軒あり、また改進亭といって、冬が近づくと猪や鹿の肉を売る精肉屋があったりして、海と山の幸に直結した独特な商店街を形成しているが、島田さんが注文して下さった店にも、古風な顔付をした腕の立つ小父さんが立ち働いている。しかし折角お食事を振舞って下さったにも拘らず、話題はやがて現代日本の政治に移ってしまい、常盤さんと私とは自民党の言いなりになっている公明党が日本の政治をいつまでも閉塞させ、腐敗させている大きな原因になっているということで意見が一致した。しかし島田さんはどうやら自民党贔屓（ひいき）だったらしく、小泉はよくやっていると反論された。それを聞いた男二人は思わずくわっとなり、口を揃えて島田さんの意見を真向から否定してしまい、これでは未だにどちらも色男にはなれなかった筈だと、今時分になって反省しきりである。

さて話が変な方向に流れてしまったので、先ほど少し触れかけたロレンス・ダレルに話を戻すことにし、島田さんをＦＡＳ協会に向わせた伏流のような働きをした作家について憶測を巡らせてみることにしたい。ところでそもそも憶測とは一体どういう働きをするものであろうか。漢字では「憶測」と書いたり、「臆測」と書いたりするが、どちらでも大した違いはないらしいが、通常は十分な根拠を確かめないまま、当てずっぽうで推測することを指す、と理解されているであろうから、今のような寝言同然のことを云おうとすると、そんな当て途もない意見に附合わされるのは資源の無駄に過ぎないと叱責されるかも知れぬので、これから暫くは私の考えている憶測の方法論とでもいうべきテーマを少々開陳することにしたい。

英語では憶測のことをconjectureと綴るが、そこで思考が停止してしまうと、なぜそういう意味になるかも分らないまま鵜呑みにするだけに畢る。そういう悲しいことではいつまでたっても受験英語から脱却できないので、そういう段階から一歩踏み出すためには、まず辞書を隅々まで丹念に見ることである。私の持っている研究社の『新英和辞典』には一三八四年頃古フランス語から移植されたとあり、更にそれはラテン語のconjecturaに遡る。このラテン語はtogetherを意味するconという前綴語とthrowingを意味する動詞とが結合してできた合成語であるから a throwing together（一緒に投げること）を意味すると書かれている。この程度の説明は大抵の辞書には出ているが、問題は説明が必ずしも正確ではないことであって、throwingはいうまでもなく現在分詞をそのままの形で名詞に転用した語である。それに対してconjecturaという形は未来分詞の中性複数形なのである。未来分詞というのはラテン語にだけある形で、ギリシャ語にもない。もう一つコンパクトなので普段使っている小学館の『プログレッブ英和辞典』には（con-共に＋jacere 投げる＋tus 過去分詞＋ura-ure＝事実を集めること→それに基づき推測すること）という風に一寸見たところ要領のいい説明がなされているように思われるかも知れない。しかし第一に、ラテン語やギリシャ語には過去分詞というものはなく、完了分詞と云うのである。一々粗探しするのはやめるが、これでは噴飯物というほかはない。試みにグレア編のオックスフォードの新版ではCONIECTURAという見出語の右側には［CONICIO＋VRA］と誌してある。URAではなくVRAとなっているのは、古典ラテン語ではしばしば U と V とは入替っており、発音はどちらも似通っていたらしい。それからIとJもほとんど同じように発音されていたので、表記は必ずしも一定していない。それに未来分詞の形が完了分詞から派生する筈はなく、この点に疑問のある方は南江堂刊の松平千秋・国原吉之助共著になる『新ラテン文法』の一五一頁を参照して頂ければ、「未来分詞はsupinum幹に-urusをつける」と書かれているのを見出すであろう。Spinumというのは適訳がないのでラテン語の名称が使われているが、ラテン語動詞の第四基本形とされ、松平・国原の文法書では仮に目的分詞とされている。そしてconicioのspinumはconjectumとなるが、supinum幹というのはそこから語尾のumを除いたconjectとなり、それにurusをつけるとconjecturusとなる。但しこれは男性単数主格の場合である。そして分詞をそのままの形で形容詞と見做して、それに基づいて名詞を作る場合には通常中性複数主格を当てるので、この場合にも同様であろう。しかし一旦名詞になってしまうと語形からみて女性単数と規定されてしまう。『プログレッシブ英和中辞典』はかなり良い辞典だと思うが、それでもこんな間違いをしているから、何でも一○○パーセント信用してはいけないのである。

以上のようにconjecturaという単語を純粋に語の成り立ちに添って検討した結果、それは一往「一緒に投げられるべきもの」および「これからそうしてゆくこと」を意味することになる。話がそうと決まると、次に問題になるのはまず「一緒に」とはどういうことを指しているのかということであり、次いで何を何に向って、どういう風に投げるのか、ということを考え、更にそもそも人間にとって「投げる」ということはどういう意味があるのか、ということを考えることも必要になる。しかしこんな雲を掴むようなことを、ただ腕組みをしているだけではろくな考えも浮かんでこないから、言語学者ならば当然ラテン語の文献を渉猟して、能うる限り数多くの用例を見つけ、その意味を分類して相互に関連づけることによって、先ほど提示した問に対する答を示せるように工夫し、かくして出来上った成果を集大成したのが辞書ということになろう。したがって辞書を使う側にも編纂者のさまざまな努力を追体験して行くことが求められるであろう。

さて以上のような労苦を重ねた結果、私がもっとも信頼するクロッツの独羅辞典は名詞conjecturaの一般的な意味を、意識が向っている対象の側から示された「さまざまな指標（Merkmale）を組合わせること（Zusammenstellung）によって獲得された推測または臆測（Muthmassung,Vermuthung）であり、謬った仕方で行なわれた推理（Schluss）」を指す、と説明している。次に特殊な意味で用いられた場合には、夢判断（Traumdeutung）、或いは占い、もしくは占星術（Zeichendeutung）による推定」を意味する、と説明される。

これに対してオックスフォード刊の新旧の羅英辞典はもう少し理性的契機を加味しようとしており、グレア編の新版においては、coniecturaという名詞の基になっているconicio（コンイキオ）という動詞では「或る量の対象（objects）やその構成要素（material）などを、或る一つの容器（a container）もしくは別途に指定された場所か空間（other limited space）に投げ込むこと」と説明した上で、coniecturaを「（或る事実を他の事実から）推理すること（inferring）」とか、或る結論を引出すこと」（to draw a conclusion）を第一に挙げている。勿論クロッツの場合と同様に夢判断なども挙げられているが、全体としては合理的推理の方に重きを置いていると云えるであろう。

以上のように原義に遡って考えるならば、「臆測」とは決してただ出鱈目に投げることではなく、ぼやけた形でしか見えない的に向って、それどころか輪郭もよく分らず、所在すらも判然としない標的に向って、最初は輪郭と距離を計るところから始めてゆき、次第に目標に近づくように投げてゆくこととして想定できるように思われる。肩と腕の力が強く、目もよく、絶妙のコントロールを誇る投手であれば、快晴無風の条件のもとでは一発で仕止められる。高度に鍛え上げた直観力と明晰判明な思弁力に恵まれていて瞬時に事柄の本質が認識される場合ならば、推論という過程を経ることもなく、直ちに判断が下されるであろう。しかしそういう幸運がすべて薄暮のなかに沈んだ場合に取るべき方法がconjecturaなのである。勿論相手が敏感に反応する野生動物ならば通用しない。そうすると、臆測とは電波探知機のなかった時代に、姿の見えない敵の潜水艦を狙って、次々に爆雷を投下したような方法である、と云えよう。

西洋においては、言語表現には「投げる」という行為が深く絡まっているように思われる。たとえば形容詞のことを英語ではadjective、副詞のことはadverbという程度のことは誰でも知っているであろうが、ラテン語文法を初めて学んだ時に、ラテン語によるフルネームでは形容詞をAd nominativum jectivum（名詞に向って投げられたもの）、副詞をAd verbum jectivum（動詞に向って投げられたもの）と云うが、長過ぎるので、形容詞の場合には「名詞」を、副詞の場合には「投げられたもの」を省いたことを知った。これならば一目瞭然である。しかし日本人の使う漢語表現は詩的に表示されるので、こういう風に明快には把握できない。尤も印欧語ではしばしば味も素気もないことになるのだが…。

それから序なので、言語表現と「投げる」という行為との密接なつながりを物語る例をもう一つだけ挙げてみたい。それは近頃の言語学を賑わしている記号論の主役となっているsignum（sign）の共演者symbol（記号、象徴）である。このsymbolという語はギリシア語のsymbolonをほとんどそのままの形で引継いできているが、これは語の成立ちからいって今まで取扱ってきたconjicio（con＋jacio）にぴったりと対応する。つまりそれはsymballo（syn＝con＋ballo＝jacio）の第二不限（aorist）というギリシア語特有の時制の分詞として成立した語形であるから、やはりconjecturaと略々同じく、原義は「一緒に投げられたもの」を意味する。「不限」という時制は理解に苦しむ名称であろうが、語頭のa-は否定詞であり、oristというのはhorizo（限定する）という動詞の現在分詞に由来し、過現未のいずれの時制にも限定されず、さまざまな時制で使用されるからこのような名称がついている。ところが原義は同じでもギリシア語のsymbolonはラテン語とは非常に懸け離れた意味で用いられ、古くは「一緒に投げられた結果、二つに割れた半分のそれぞれ（片割れ）」ということから「割符」を意味し、プラトンの『饗宴』篇に用例があり、所謂ベター・ハーフの考えの本になっている。そこから「身分証明書」だの「受取証」、或いは「前兆」などとつづくが、「記号」とか「象徴」という意味で語られるようになったのはいつ頃からなのかは、まだ確めていない。

ところで万有引力の法則下では、投げられたものはすべて放物線を描いて地上に落下するが、この放物線がギリシア語ではParaboleと名づけられ、原義としては「傍らに投げられたもの」を指す。オックスフォードの辞書によると、プラトンやアリストテレスでは「対置」とか「比較」または「類比」を意味したらしいが、新約聖書ではイエスが弟子や民衆に語った「比喩」の意味に用いられたが、もっと後代になって物理学などが発達したアレクサンドリア期に至って、幾何学の用語に採用されたらしい。

しかし臆測の場合に投げられるものは物体的なものではなく、精神が朧気ながら認識の対象として自らの前に現れてきたものに向かって、その輪郭が少しでも判然となるのに役立つように企図された観念である。勿論一発だけでその姿を蔽っている薄靄を雲散霧消させるわけにはゆかないので、試行錯誤しながら投げ続けてゆくわけであるが、これらが描く何本もの放物線を、すべて対象の近くへ誘導し、束ねる働きをするのがsyn-とか、con-の発する力ということになるのではなかろうか。

いつの間にか、話がまた外れてしまったので、今度こそ島田さんのロレンス・ダレルに戻ることにしよう。島田さんがダレルについて「英本国では歓迎されていない、異端視され、無視されている作家」ではあるが「フランス始め他の国で愛された作家。ヨーロッパのモダニズムからポストモダニズムに亙り、背景にインドやチベット文化をもつ、チラリと東洋の禅や日本の鈴木大拙の名を覗かせる四部作、五部作の大作の著者」と。この箇所を読むまで私はロレンス・ダレルという名に接したことはなく、したがって彼の「四部作」とか「五部作」といわれても何のことだか分らないのだが、「モダニズム」というのはヨーロッパの文学用語ではＷ・Ｂ・イエーツ（一八六五―一九三九）、エズラ・パウンド（一八八五―一九七二）やＴ・Ｓ・エリオット（一八八八―一九六五）、それに多分ジェイムズ・ジョイス（一八八二―一九四一）という、二十世紀ヨーロッパの最高峰に位置づけられる詩人を中心として、第一次世界大戦後から第二次世界大戦後にかけて展開された文学運動ということになろう。しかし「ポストモダニズム」というと普通はサルトル以後、即ち二十世紀後半のフランスの思想界を席巻している一群の哲学者をさす。尤もこの学派に属する人々は極めて多才であって、哲学者とはいっても半ばは文学者でもあり、また美術論にも長（た）けているから、ダレルの没年次第では接点があったかも知れない。しかしモダニストのなかにはインドだけでなく、中国や日本にまで深い造詣をもつ人が目につくが、ポストモダニストたちの間には東洋への息吹は左程感じられない。

モダニストのなかでもエリオットの場合は本格的であって、ハーヴァード大学の学生時代からサンスクリットを習得し、丁度出講中だった姉崎正治による華厳・真言・天台に関する講義を一年間聴講したということである。戦後わが国の前衛的な詩人たちに多大の影響を与えたといわれる彼の詩集『荒地』（The Waste Land）の訳者西脇順三郎は、第五巻「雷神の言葉」（What the Thunder said）には仏教の無常感の深い表出が見出される、と述べている。特に「ここ（＝水のない岩山）では立つことも、ころがることも また坐わることも出来ないのだ。（one can neither stand nor lie nor sit.）山の静けさすらない 雨を降らさない不毛な雷がなるだけだ また山の孤独すらない」はロマン主義者の幻想を徹底的に打ち砕いただけでなく、久松先生の云われた「総不可道」、寝てもいけなければ起きてもいけない、に通ずるところがあるのではなかろうか。このようなところから「大拙の名をチラリと覗かせ」たダレルがモダニストと深い交渉があったというのは分るような気がする。しかしポストモダニストたちからも愛されたといわれるのには、やや怪訝な感じがする。

さて「ポストモダニズム」を代表する人といえば、十人くらいはすぐに名前があがるほどだが、私が多少とも読んだことがあるといえるのはレヴィナスとクリステーヴァくらいである。日本ではこの人たちの翻訳は目白押しの状態だが、無責任な悪訳だらけで、原書と対照しないと、とんでもない間違いをする。それは兎も角、この学派の人たちは哲学の基盤をフッサール後期の生の現象学に置いているが、同時にサルトルのengagement（社会参加）の志を継承して現実世界に関与しようとする意欲も旺盛で、そのためにマルクシズムにも傾斜する面があって、現象学と弁証法という氷炭相容れざる二つの論理学を同時に操るという、私には不可解な離れ技を演じている。勿論、哲学上の本籍は現象学だが、ヒューマニストとしては心情左翼であるというのであれば私の疑念も氷釈するのであるが、サルトルのように『全体性の現象学』という大著を出して、ヘーゲルの亜流たらんとする擬態を呈した時期があったから、哲学理論としては構造計算を謬ってるところがあるのではないかという感じが拭去れずにいる。いずれにせよ彼らは近世哲学の根幹をなしてきた「主体」概念の解体を目指しており、その限りでは脱近世的な側面をもちながら、モダニズムの人々に見られるような、インドから中国、日本まで含めたアジア全域から起った高度な文明に対する高い理解と深い尊敬を懐いていることはなさそうである。このことはまた彼らの好む心理学が自我に拘わるフロイトであって、禅仏教に親近感をもったユングを嫌うところにも現れているように思われる。そして彼らに共通するキイ・ワードである「他者」とか「身体」といった観念はやはり近世哲学の遺産である自我と裏合せになっており、ツァラトゥストラとともに舞踏する身体に高まったり、ましてや臨済が喝破した「一無位の真人」がその上に有って、自らの顔面から出入している「赤肉の団（かたまり）」と化するようなエネルギーを潜めているとはとても思えない。そのほか彼らの「眼差」理論も西洋演劇には有効かも知れぬが、それを世阿弥の「離見の見」に応用しようとするのは多分賢（さか）しらな見当外れに畢るのではなかろうか。以上列挙したような理由から「ポストモダニズム」とダレルとの交渉の席に、東洋は姿を見せていなかったと思う。

ここまできたところで、モダニストの詩人たちの間に、かくも真剣な東洋志向への熱情があったことの淵源を探るために、ゲーテにまで遡って近代詩におけるオリエント志向の歩みを一瞥しておきたい。

ヨーロッパの詩人の内で、最初に東方への憧れを手放しで披瀝したのはおそらく『西東詩集』 Westöstlicher Divan を遺したゲーテであろう。岩波文庫の訳者小牧健夫によると、新興の軍事国家であったプロイセンの圧力から脱出するために、頼みとしたナポレオンが敗戦したために苦境に立たされたワイマール公国の行末を憂慮して、ゲーテは自らの詩精神を封殺される不安から逃れるための安住の地を求めた。しかし七十を過ぎた老齢の彼にとって、逃走（hegire）の行為はもはや地理上の空間移動ではありえなかった。それは『西東詩集』の冒頭に掲げた詩「逃走」において、「逃れよ 清き東方にて（Flüchte du, in reinen Osten） 族長の邦の大気を味

わわんために 恋しつ 酒くみつ

歌うたいつ きみは不老（キーゼル）の泉に若やがん」と謡ったように、「おんみの歌は星みつる穹蒼（あおぞら）（das Sterngewölbe）のごとく循環し 初めと終りとはつねに同じくして」（「ハーフィスの巻・窮りなく」岩波文庫三九頁）と讃えた十四世紀ペルシアの詩人ハーフィスの詩に沈潜することであった。そして「険しき岩道の登り降り」（Bösen Felsweg auf und nieder）を重ねた末に到り着く「かしこ清く正しきところに われは人類の（menschlichen Geschlechten）原始の深奥を窮めなん（In des Ursprungs Tiefe dringen,）」とすることであった。

ゲーテは「逃げる」という行動を詩の中ではflüchtenという生粋のドイツ語で表しているが、ヘルマン・パウルの辞書によると、この語は古高ドイツ語時代（八○○―一一○○）にはsich zu retten suchen（自らを救う、助かることを求める→逃げる、逃れる）を意味した。したがってこの語から派生された名詞Fluchtは「急いで、不安に駆られながら（且つひそかに）（危険から）立去る、逃げ出す（Sichdavonmachen）こと」を意味したと説明されている。ところがこの詩の標題にはHegire（ヘギーレ）という語が掲げられているのはなぜか。この語はもともと外来語であって、フランス語のhégire（エジール）をドイツ語風の書式に改めたものであるが、実はこれはムハンマドが西暦六二二年にメッカからメジナへ逃走した事を表すアラブ語のヘジラをフランス語風に綴ったものであって、イスラム圏ではこの年を以て回教紀元としている。したがってイスラム教徒にとっては、ヘジラは単なる逃走ではなく、新生への発足である。オリエント全域に対して親近感をもったゲーテはムハンマドも大いなる宗教者として尊敬していたので、訳者小牧健夫はこの標題には「精神的な東方への逃走と新生面の開拓の意を託していると解される」（岩波文庫四五三頁）と述べている。ゲーテが逃れんとしたプロイセン侯国は急速に強大となり、一八七一年には普仏戦争を勝利に導いた余勢を駆ってドイツ全土を統一し、ドイツ帝国を建国するに到り、結局は第一次世界大戦という大いなる悲劇に突入した。偏狭な国家の立場を嫌悪して、「人類」という普遍性の地平に立つことを希求したゲーテが「清き東方」に見出していたのは、自らと同じ精神の持主であった詩人ハーフィスの歌であり、詩集全巻の終りに近い『天国の巻・より高いものと最高のもの』（岩波文庫二三○頁）で謡われたように、「すべての友を一とところに集めて」、「美しい花園」で耳にした「天国の言葉をドイツ語でつぶやきたい」（in deutscher Sprache/Paradiesworte stammeln,）というのが彼の願いであった。

かくして彼の「東方」とは決してヨーロッパから離れた異郷ではなく、『西東詩集』の続篇「遺稿から」のなかで高らかに謡われたように「東の国と西の国（Orient und Okzident）とはもはや離すべきにあら」ざるものであり、したがって「心ぶかく（Sinnig）両つの世界のあいだを 往き来するをわれはよしとうべなう」（同二四○頁）と含蓄を込めて語っている。「われは善しと諾なう」に相当する原文は”sei zum Besten! “

であり、私ならば「往き来することこそ最善ならん！」と訳したであろう。ここに到って、ゲーテにとって「東方への逃走」とは世界文化が最高水準において融合する場に立つことであった。そしてこのような東方への憧れは老年期に到ってゲーテに俄かに訪れたことではなく、子供の頃にモーセの伝記に興味を懐いてヘブライ語を学んだことから始まっており、「西東詩集のよりよき理解のために」彼が書き誌した「註記・論考」（岩波文庫二六三頁―四五二頁）に目を通すならば、彼の東方への視野はアラビアからペルシアへと移り、更にインドから中国にまで拡がって行った。しかもそれは芸術家的興味に尽きるものではなく、文字どおりに研究したのであって、その刻苦精励ぶりは生半可な学者の及ぶところではない。

ゲーテはペルシアの詩人に自らと等質な精神を見出し得たことによって、東西を隔てる障壁がすべて視界から没し去り、世界は心の赴くままに自由に往来できるものとなった。政治の場から逃れ去ることは「神のみ手の平和のうちに憩う」（護符・岩波文庫一二頁）喜びをもたらすことを可能にした。これに対してゲーテから約一五○年の歳月を隔てて登場したモダニストたちも、アジアの生み出した高度な精神文化に対する敬意と親近感という点では、ゲーテの再来といえるかも知れない。イエーツは能楽に深く感動して、自らも能の作品を書き、それは時偶日本でも上演されるほどであるし、パウンドは中国の古典に対する造詣が深いし、エリオットはハーヴァードの大学院生の時に中観仏教に熱中したほどである。しかしそれにも拘らず、彼らにとって東方との邂逅はゲーテのような幸福感に溢れたものとはならず、苦味を含んだものであったろう。

その理由を知るためには、まず第一に彼らの作品に当ってみなければならないことは今更いうまでもないことであるが、その用意のない私には先に述べた臆測の術に頼るしか道はないので、手探りしながら一往尤もらしいことを述べることにしよう。

第一に考えられるのは、モダニストたちは青年時代に第一次世界大戦に遭遇し、ヨーロッパにおいて軍人のみならず一般民衆までもが戦争の犠牲者となることを経験した。更にパウンドとエリオットはスペイン内戦と第二次世界大戦もくぐり抜け、全地球的に文明および人間性そのものをも破壊しつくすような悪魔的衝動に身を委ねるのになんの歯止めもかからなかったことを知らされた。第二に、理性の時代を切り開いた筈の近世ヨーロッパがアフリカのみならず、アジアに対しても極悪非道の限りを尽して、それによって富と繁栄を築き、そのことになんの羞いも持たなかった。技術の発達によって強力な武力を手に入れたヨーロッパは地球上の到る処を植民地化したが、列強のなかで最も巧妙且つ悪辣だったのがほかならぬ自国のイギリスであった。彼らが支配と経営を計るために、実利的観点と知的関心とからアジア研究を熱心に推進したことは確かであり、この点において後れてきた侵略者であった明治以後の日本よりは遙かに知慮にすぐれていた。しかしモダニスト以前のヨーロッパ人によるアジアの高度文明の受容が果してどの程度のものであったかは知悉していないが、少数の例外を除けば侮蔑的だったのではなかろうか。それを示すのがムンバイ生れで三十年ほどインドで過したというキップリング（一八六五―一九三六）が作った「東と西の歌」の冒頭にある「ああ、東は東、西は西、両者の出会うことあらず、大地と空と忽ちに最後大審判（さばき）の御座（みざ）に立つ日まで。」（中村為治訳・岩波文庫）であろう。これなどはまさしくゲーテとは対極をなす態度といわねばならぬ。

第三に、ゲーテ以後のドイツの精神界はゲーテの古典主義に反抗したロマン派の全盛期となったが、彼らは自らの陥った近代的自意識の深坑から脱出するために、二つの方向を目指した。その一つはノヴァーリス（一七七二―一八○一）に見られるように、中世のキリスト教神秘主義への傾倒であり、もう一つはＥ・Ｔ・Ａ・ホフマン（一七七六―一八二二）のように、幻想こそ真実と見做す芸術至上主義的な方向である。そしてそこにはアラビヤ文化に対するエキゾティックな憧れがあり、この点はフランスの画家アングルやドラクロワにも見出される。尤もホフマンの作品を読んだのは今から六十年も昔のことであり、記憶は必ずしも定かではない。ロマン派のように、東方がエキゾティシズムの対象である限り、彼らの夢見た東方は未だヨーロッパに対しては外在的な他者の域を脱し得なかったといわねばなるまい。

第四に、ヨーロッパ人の生み出した作品によってではなく、アジア人自身の作り出した文化遺産によって、アジアの精神文化がヨーロッパに劣らぬ優れたものであるだけでなく、優美、繊細、高雅といった点ではヨーロッパが遙かに及ばない高度な水準に到していたことに驚かされたのは紛れもなく芸術の分野であり、そのことを一九世紀のヨーロッパ人に認めさせたのは、一つはインドから中央アジア、更に敦煌から西安に及ぶシルクロード探検の成果であり、もう一つは一九世紀末にフランスを中心として美術界を風靡したジャポニズムであろう。しかしこれだけではロマン主義の残滓であるエキゾティシズム的オリエント観を除去するには十分ではなく、このような役割を果したのが、まづボードレールを先頭にしたフランスのサンボリスム（象徴主義）であり、これにつづく第二弾となったのがモダニストたちであり、更に第三弾としてドイツの表現主義も挙げられよう。

最後に、モダニストによるロマン主義批判を私の三高時代の恩師である深瀬基�ｪ先生の『エリオットの詩学』（創元文庫・昭和二八年刊）の行文を、かいつまんだ形で紹介することにしよう。古典古代においては「詩人」は物を作る「工人」とか「制作者」と同じくpoietesと呼ばれ、それを意味にしたがって英訳すればmakerとかworkmanに過ぎない。それゆえによきpoietesとなるためには只管師匠の技術を「模倣」し、且つ次世代へ「伝承」してゆくことが唯一の道であり、したがって近世初頭までの西洋の芸術観の根底にはアリストテレスによって規定された「模倣」mimesisの観念が揺ぎなき地位を保っていた。ところが二千年の長きに亘って敬意を払われてきた「模倣」imitationの概念がシェイクスピア（一五六四―一六一六）の作品の解釈をめぐって次第に崩落し、一七世紀から一八世紀にかけて群生した「独創」originality―「創造」creation―「霊感」inspiration―「天才」geniusという観念の連鎖に取って代わられ、ロマン主義運動に革命的勝利をもたらす原動力となった。このような事態を惹き起した原因はシェイクスピアの描いた自然のなかには「余りにも空霊な捕捉し難いもの」airy nothing―妖精、魔女、亡霊―が含まれ、それは自然の外にはみ出たものであって、原型がないために模倣できないものであり、それがむしろ自然を動かす原理として、すべて形あるものの内部からその姿態を衝き動かす。そしてこのような捕捉し難い霊的なものを捕捉せんとする文芸用語として登場してきたのが、神のみに具わっていると見做されてきた「創造」であり、ここにロマン主義の「枠組」paradigmaが出来上ったのである。彼らにおいては詩人は自らの世界の創造主となり、神の位置に昇った芸術家と、生活に役立つ実用品を造る職人とが峻別されるに到った。私見によればロマン主義者たちの連合艦隊の旗艦になったのはワーグナーであり、いち早くこれに痛撃を加えて大破させたのが若き同時代者ニイチェであった。

私は大学一回生の或る午後に、偶々前の晩に酒席を共にした深瀬先生と三高の図書館の一隅でばったりお会いし、昨夜の椿事の顛末をお聞かせいただいた後に、Ｄ・Ｈ・ロレンス（一八八五―一九三○）やオーデン（一九○七―一九七三）がキルケゴーアやニイチェによって、ニヒリズムの哲学の洗礼を強く受けていた、ということを教えて頂いた。文芸活動の於いてある場所として、伝統を再建することを課題としていたエリオットにとっては、その背骨をなしてきたカトリック的正統を、ニイチェをも上廻る一切皆空の哲学という鉄槌で鍛え直す必要を感じてはいなかったであろうか。深瀬先生の御在世中にこんな愚問を発してみる機会を逃してしまったことを、今となって悔んでみても後の祭でしかない。

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島田さんの追悼文を書こうと努めている内に、いつの間にか島田さんから遺された問題を追いかける方に気を取られ、深い森の奥へどんどん迷込んでしまった。そのために半可通でしかない領域に次々に手を染めてゆくことになり、多くの誤りを犯したに違いあるまい。もし御叱正を賜れば大変有難い。私は今年で丁度男の平均寿命に達したのであるが、もし閻魔大王から平均余命に加えて更に十年ほど奮発していただけ、その上に認知症を免れ、且つ一定時間は椅子に坐っていられるだけの筋骨が保たれるという僥幸に恵まれるならば、今後に活用してみたい。