苦しみを聴く(三)

〈傾聴ボランティア活動〉 

大薮 利男

 

バラバラで一緒

私はここ数年、傾聴ボランティア活動を通して多くのお年寄りや終末期患者の方々など、ターミナル・ステージのみなさん方にお会いしてきました。そして現在もいろいろなお話を聴かせていただいていますが、この活動を続ける中で常々思うことがあります。それは当然といえば当然のことでありますが、お会いするお一人おひとり、まさに違うということです。その人の身辺状況から健康状態、そして家族や周りの人たちとの関係、その人の人生経験や生き様、そして今・ここにおける苦悩や気がかり等々、共通点といえるようなものはないといってもよいでしょう。よくもこんなにいろいろあるものだとさえ思います。

しかし、また思うのです。同じだなあ…と、私もまさにそうだ…と。

それは何かといえば、人間としての苦悩です。釈尊は「生きることは苦しみだ」と言いましたが、人間存在として誰もが持ち合わせている根元的な苦悩(スピリチュアル・ペイン)です。この問題は切羽詰まったターミナル・ステージのなかでより先鋭化しています。個別的で現実的な瑣末な苦悩を超えて、生きてきたことの意味、今を生きることの意味を、自分自身を通して生々しく真剣に問わざるを得なくなっておられるのです。このことは認知症の方であっても同じです。(この事実は、意識しておられる、しておられないに関わりません)

まさに人間の普遍が、傾聴をすればするほど見えてくるのです。私はお互い、バラバラであって一緒なのだ…という共感のなかで傾聴をさせていただいています。今日もまた深い苦しみを聴きました。

 

「あいたくて」

だれかに あいたくて

なにかに あいたくて

生まれてきた―

そんな気がするのだけど

 

それがだれなのか なになのか

あえるのは いつなのか―

おつかいの とちゅうで

迷ってしまった子どもみたい

とほうに くれている

 

それでも 手のなかに

みえないことづけを

にぎりしめているような気がするから

それを手わたさなくちゃ

だから

 

あいたくて

(工藤直子)

 

 

私たちには誰もが、あわずにはおれない恋人がいるのだと思います。私の「あいたい」ものを明らかにして、一度「あって」みない限り、今・ここを生きる私が落ち着けないのです。そして、安心して死ぬことさえできないのです。こんなにも重大な私にとっての「あいたい」ものとは、一体「何もの」なのでしょうか。

人間が「生きる」ということは、「だれか」や「なにか」を求め続けることなのだともいえるでしょう。しかし、「だれか」や「なにか」はわかったようで、わからないから困るのです。まず「だれか」をさがします。友達や恋人や結婚をして…、そして先生や人生の師を…。そして「なにか」を…、仕事やお金や権力や名誉や、そして宗教や…、もっともっとと止めどもなく探し続けます。だけど、どこまで行っても満たされない。このような世俗のものでは真に満たされたことにはならないのです。そして「とほうに くれて」しまうのです。

私自身の「あいたくて」の思いの意味を誰もが、今・ここで私自身の苦悩を通して、私自身の現場からしっかりと見直してみる必要があるのです。あちこちと周りのものを詮索することをやめて、脚下の事実から見直してみる必要があるのです。

 

輝いて生きる

最近、私はこんなことを考えています。人間が生きる生き方には、大まかに二つの方向があるのではないかと思うのです。その一つは、日常のあらゆるものに感謝を持って生きるという生き方です。もう一つは、目の前の一々が不足で不満に充ちており、常に愚痴と不平を持って生きるという生き方です。私たちの日常はこの両極を生きるというのではなく、その時々の状況にゆれながら生きているというのが普通でありましょう。

老いを生きる、あるいはターミナル・ステージのみなさん方は、この二つの生き方がある面では際立ち、極端化するのだと思います。日常の事々に感謝を持って生きるという生き方、何事にも「ありがたい」と素直に思え、そして言えるところに立たれた人たちが確かにおられるのです。このような方たちは、ある輝きを持って生きておられます。

これらの方々の「ありがたい」は、通常の私たちの感謝と不平が交差しているような不定な状態は超えていて、徹底した「ありがたさ」の中におられるのです。そしてご自身の人生が、いかなる悲惨、苦渋の人生であったとしても、また今まさに死を前にしておられても、どこかですべてが肯定されており、赦されており、感謝に充ちているのです。この深い自己肯定と感謝の念はどこから来るのでしょうか。人間のこの事実は本当の「幸せとは何か」を考える上で非常に重要だと思います。

ターミナル・ステージとは、いわば不平と不満から、感謝と肯定の人への変革を求めていくステージだともいえると思うのです。そして「死の受容」はここで成立するのです。そして誰もがここに向かって成長していくのが人間の自然の姿であり、人間の凄さだと思うのです。私たち傾聴ボランティアは人間が持つ、この過程への成長、成熟の力を信頼し、聴くことをとおして自己変革への援助をさせていただくのだと、私は今、そう思っています。

 

苦しみの意味

老いを生きる、ターミナル・ステージを生きるということは、世俗の価値観(健康、豊かさ、能力、金、権力など)から見放されていくということです。「すべてがうまくいかない」「何で私が、こんなことに…」という「まさか、まさか」の下り坂に追い込まれるなかで、人生をもう一度、「できる」私からではなく、「できない」私から見据える必要が生じてくるのです。下の世話さえ他人の介護を受けなければならないという、ままならぬ現実の身の私をとおして、根底から私の生きる意味、存在意味が問われてくるということなのです。

私たちには「窮通」(窮して変じ、変じて通ずる)ということが起こり得ます。ことごとく逃げ道を断たれ、ごまかしようのないない悲痛な苦しみが押し寄せるなかで、はじめて活路は開かれるのです。禅では「大死一番」というように、死を真正面から引き受けようと決心した、そのとき、私が私としてきた既存の枠組みがはじけて、今まで見失っていた真なる私、新しい本当の私に出会うというこの大事、これを第一義とします。

ターミナル・ステージを生きるということは、日常を世俗の風に吹かれてのほほんと生きるというようなことではないのです。まさに「窮通」のなかに必然的に追い込まれていくのです。(しかし、私たちは窮通をターミナル・ステージまで持ち越すような生き方をすべきではありません。今・ここで窮通を透過して、「生きながら、死人となって生きる」べきなのです)

たとえば傾聴をとおして、こんなことを経験します。ある人が心の中に満ちている、くやしさ、不満、うらみ、憎しみなど、否定的な生身の感情をあらいざらい打ち明け、話されるなかで、長い間、自分が自分に傷つけてきた秘め事を吐き出されて、「なんと、どうしようもない私であったか…」「なんと、罪深い私であったか…」と懺悔、悔悛されるとき、人は変わるのです。

どうしようもない私、罪深い私と言わしめる「もの」、こんなにも私自身を苦しめてきた「そのもの」、「そのもの」とは一体、何であったのか。その「何か」に気づくとき、人は新しい世界に超え出ていくのです。この事実、これこそがスピリチュアル・ケアでありましょう。私が苦しみから救われるというのではなく、苦しみそのものが私を救うのです。

 

「悲しみの意味」

冬があり 夏があり 

  昼と夜があり

晴れた日と雨の日があって

  ひとつの花が咲くように

悲しみも苦しみもあって 

  私は 私になっていく

(星野富弘)

 

 

 

元気に死ぬ

傾聴を続けてきたAさん(男性)はこの春、87歳でお亡くなりになりました。私にとって忘れることのできない方でした。Aさんは首から上は動かすことができますが、首から下は全く動かず、ただベッドに横たわっておられる人でした。常にラジオを聞き、世の中の動向はよく知っておられました。また時に短歌を詠み、投書をしては入選をしたり、口に絵筆をくわえて、素晴らしい絵を描かれたりしました。

しかし、Aさんが自身の身体の不自由を言われるようなことはありませんでした。現実のすべてを受け入れ、何時も口から出てくる言葉は「ありがたい」「ありがたい」でした。そして前向きに元気に今・ここを生きておられました。Aさんは全ての出会いと事々物々に感謝の心で接しておられました。「朝太陽が出て、今日もまた日が沈んでいく、それがありがたい」と言われました。

Aさんは時に、こんなことも言われました。「今は極楽だ。元気に仕事で走り回っていた時代、あれこそが地獄だった」と、また「不幸なことは不幸のままで、ありがたいのだ」とも言われました。それらの言葉は不自然なものではなく、素直な本心からの表現でした。

小さな私という既成の枠を超えて、大いなるものの中に生かされてあった私、本当の私自身に目覚められたAさんは元気に生き、そして元気に死んでいかれました。

亡くなる数日前にお会いしたときも、ニコニコと笑顔で「また会いたい」と言われました。そして自然に枯れるようにして逝かれました。Aさんを想うとき、人間の不思議さ、凄さを思わずにはおれません。

私はこう思っています。私たちは誰もがAさんのようになれるのだと。またなることを願っているのだと。さらに言うなら、なれることを私たちの深さの私はすでに知っていて、それがために騒ぎ、もがき苦しむのだと。人間はもがき苦しんでこそ、開けるものがあるのです。その人間が持つ崇高なコーピング・プロセスを全面的に支え尽くす、それが傾聴なのだと思っています。

 

〈ターミナル・ステージ〉

人間の終末時期、たとえば、病院の末期患者や高齢者の方々

〈コーピング・プロセス〉

自分が自分自身で対応していく、自己治癒の対処過程