ある相互参究の記録

  ―京都深草坐禅会の取り組み―

 

                         江尻  祥晃

 

[はじめに]

  私達は現在、大衆禅活動として、月三回、坐禅会を奈良(二回)と京都(一回)で開催している。   

  以下に現在に至るまでの経緯を簡略に示す。

 

  二○○○年七月から故藤井明灯師を中心に有志が集まり、奈良県の生駒山灯明岳の山荘で坐禅会【灯明岳坐禅会】を行ってきた。当時は月一回のペースで、参加者が集まりやすい日曜日に行っていたが、二○○二年六月から傾聴ボランティアの方々(主婦が多い)が参加されるようになり、平日の方が外出しやすいという強い要望もあり、平日(第三火曜日)に移行することになった。しかし、当然中には平日は仕事で参加できない方々もおり、そういう方々のために、要望があった場合は日曜日にも開催するという変則的な形で月一〜二回行っていた。二○○三年秋頃から、平日に二回して欲しいという要望が傾聴ボランティアの方々から出て、十一月から平日二回(第一金曜日・第三火曜日)開催することとなり、現在に至っている。このような経緯により、灯明岳坐禅会は、月二回、平日に行うということに定着したのであるが、やはり、平日に参加できない方々のために休みの日にも月一回は坐禅会を開催したいという思いもあり、検討した結果、藤井明灯師のご友人で、その頃、生駒有里の行基菩薩ゆかりの寺・竹林寺の管理者をしておられた方にお願いして、月一回日曜日にお寺をお借りして坐禅会を開かせていただく運びとなった【竹林寺坐禅会】(二○○四年十月〜二○○五年十月)。灯明岳坐禅会とは別に丸一年間、月一回日曜日に竹林寺で坐禅会を開催させていただいたが、ご高齢である管理者の健康状態のこともあり、存続することが不可能になってきた。そんな時、竹林寺坐禅会に参加しておられた京都深草在住の女性の方が、そういう理由ならば、月一回日曜日に自宅を開放してもよいと申し出て下さり、私達はその方のご好意に甘えることにした。それが【スペースローカヤ坐禅会】のはじまりである。ここは二○○五年十一月から二○○七年四月まで続いたが、その方のお家の事情で借りることが不可能になった。しかし、その方が近くにお住いのお友達(仕出し弁当屋・食堂をしておられる)に事情を説明し、月に一度、日曜日(第四日曜日)に、坐禅会のためにお店を貸しきりにしていただけるように交渉して下さった。現在(二○○七年五月から)はスペースローカヤから場所を移し、そちらで坐禅会をさせていただいている【京都深草坐禅会】。ご縁というものは本当に不思議なものである。

  竹林寺坐禅会での取り組みの様子は、風信五十二号に、灯明岳坐禅会での取り組みの様子は、風信五十三号に、それぞれ「ある相互参究の記録」として掲載させていただいた。今回は、京都深草坐禅会での取り組みの一端をご紹介したいと思う。読者の皆様の己事究明のための一助ともなればと願うものである。

  毎回、おことわりしていることであるが、この大衆禅活動は、あくまでも故藤井明灯師がはじめられた取り組みを大藪氏と私が継承し、継続してきたものであり、FAS協会の活動とは直接何の関係もない。

 

―京都深草坐禅会だより第十九号―

【第十九回報告】

  二○○七年八月二十六日(日)、京都市伏見区深草において第十九回京都深草坐禅会(元スペースローカヤ坐禅会)を開催した。今回は女性一名、男性七名、計八名の参加であった。午前十時三十分頃から参加者が集合し始め、みんなで茶礼(お茶を飲みながら自由に話し合う)を行った。十一時半頃から坐禅(二炷)。十二時半頃から昼食。午後は一時過ぎから三時頃まで相互参究がなされた。終了後、二名が都合のため退席された。三時過ぎから残った者で坐禅(二炷)。四時過ぎから五時頃まで最後の相互参究を行った。五時過ぎ終了。その後、簡単に後片付けをし閉会した。

                          (江尻記)

【相互参究の記録】

(昼食後の相互参究を収録)

【仏性問答】

A「人間には仏性があるのだろうか?」

 

B「あると思う人にはあるし、ないと思う人にはない。自分の心の中のことだからね。仏教では【自内証】(自己内心の証悟した相)と言う。」

 

C「Aさん自身は自分に仏性があると思いますか?」

 

A「よく分からない。しかし、あるんだったら、あまり難しいことは考えないで、仏性に素直に従っていたら、それでいいんじゃないかなあと思う。」

 

D「盤珪禅師は『人をかわゆく思うが仏』と言っている。人が好きで好きでたまらないということである。」

 

C「それはGさんが言われた、人を百パーセント肯定するということにつながってくる。自分に対してよくしてくれるからかわいいというのではなく、どうしようもないようなことをする人でも、それでもかわいいと思える心であろう。この二つは全然違う。人間のどうしようもなさを見据えた上で、それでも(それだからこそ)かわいいという、そういう深さがあると思う。その人の表面だけで見ずに、その人の深さ(底)を見るということが大事なのではないかと思う。」

 

E「Bさんを頼って、電話を何度でもかけてくる人がいる。そういう人の中にもかわいさが見える。だからこそBさんはその人に一生懸命に関わっているのであろう。まさにBさんには仏性があるわけである。」

 

B「ほっておくことができないのだ。」

 

E「それがまさに仏性である。その人がかわいい、ほっておけないというのは、まさに仏性の働きである。Aさんは、仏性があるかないかと言われたが、仏性は誰にでもある。仏性のない人はいないのだ。」

 

D「日常生活の中で仏性が発現するということはなかなかない。しかし、映画を観ていても、ドラマを観ていても、やはり涙が出てきたり、ハッとさせられたりする。そういう気持ちが出てくるということは、まさに仏性の働きだと思う。」

 

C「灯明岳坐禅会に参加しているTさんは、いつも、自然を見て素晴らしいと感動するとか、無垢(ピュア)な人を見ると自然と涙が流れるとか言われる。そういう思いが人間にはあるわけである。」

 

D「仏教では【同事】と言うのだが、その人と同じ気持ちになるということは、まさに仏性がないと、そういう心は出てこないだろう。」

 

C「私は傾聴ボランティアの皆さんが傾聴に行くのも仏性の働きだと思っている。」

 

E「まさにそうである。何の得にもならないのに、行かざるを得ないというのは、まさに仏性の働きである。しかし、その働きはチョロチョロッとしかないから、横へ捨てようとする。」

 

C「チョロチョロとしか感じられないというのは、この私(我)の部分がそのように感じているだけの話で、本当は怒濤のように押し寄せているのである。それなのに、この私(我)のところではチョロチョロッとしか感じられないという、そこが大きな問題なのだ。この私(我)のところではチョロチョロッとしか感じられなくても、それを本当に大事にしていけば、こんなにも自分に対して怒濤のように押し寄せていたのかと分かる時が来る。それまではチョロチョロでもあるということを大事にしていくべきである。」

 

E「そのことに精一杯やり切っていく、没頭していった時に、まさにそうだと思える時が来る。こんなにも激しく突き上げていたのかと分かる。」

 

C「これまでもずっと自分に対して、こんなにも激しく(辛抱強く)押し寄せていたのかということが分かってくる。チョロチョロさえもなかったという時でさえ、ちゃんと働いていたということが分かってくる。」

 

E「その時に、こんな悩み続けた『自分をほめてやりたい』ということも出てくる。」

 

【Fさんの疑問】

F「人間の社会的行為というのは、それだけでは満足というのはできないのだろうか。」

 

E「満足できないだろう。アメリカの大菩薩禅堂(ニューヨーク)にやってくるアメリカ人が、胸にポッカリ大きな穴が空いていると訴えるらしい。どれだけ社会的に成功してもそういうものがあるのだろう。」

 

C「Fさんの場合、社会的(世間的)な価値観に自分を百パーセント合わせていこう、合わせなくてはならないと思った時に辛くなったのではないのか。その思い固めの中でどうしようもなくなってしまったのではないのか。誰にでもチョロチョロ(深さの私の思い=仏性)というものがあるので、そのことに気づいて、そのことが気になり出すと、百パーセントどっぷりと社会的(世間的)価値観の中だけにはいられなくなるものである。」

 

F「私にはどちらも大事なのだ。」

 

E「確かにどちらも大事だけれど、脱社会的(出世間的)なものをできるだけ見ないでおこうとして、苦しみを持って生きているのではないだろうか。」

 

F「やはりそれを見ないといけないのだろうか。」

 

E「それをはっきりと見た時に人間の二面性というものがまざまざと分かる(どちらも大事ということが本当にわかる)。その中で生きていかざるを得ない自分が分かる。釈尊が如何にそのことで悩み苦しんだかが分かる。そのことをはっきり見ないことには分からないのだ。その時にやはり大死というものが必要になる。もういいという思い、他人に対していいかっこなどする必要がないという思い、そういう思いが必要なんだ。それはのたれ死にしてもかまわないという思いに他ならない。」

 

【死に方問答】

A「のたれ死にしていいとはなかなか思えない。」

 

E「しかし、そういう側面を持っているのも確かだろう。」

 

G「畳の上で死ぬか、路上で死ぬか、暴漢に刺されて死ぬか、交通事故にあって死ぬか、それは誰にも分からない。畳の上で愛する家族に囲まれて大往生するのはごくわずかでしかない。どんな死に方になるか分からないということは覚悟しておくべきである。自分は五十過ぎまで何とか生きてこられてよしとしなければいけないなと思っている。」

 

D「最後の死に方というのは自分で選ぶことができない。」

 

G「最後は任さなければしょうがない。何に任すかということは、また難しい問題だけれども、どんな死に方でもいいんだと腹をくくる以外にない。」

 

A「自分はホームレスになっても生きられるだろうかと真剣に思ったことがあるが、なかなか難しいのではないだろうか。」

 

G「私はホームレスの人と話をすることが嫌いではない。以前あるホームレスの人と話をした時に思ったことは、全く私達と同じであるということである。違いはないのだ。自分はたまたま職について何とかやっているけれども、それはたまたまに過ぎない。」

 

A「ここに来ている人は最期に死ぬ時は大往生で死ねるのと違うだろうか。私はそんな感じがする。」

 

B「何回も何回もここでこういう話をしていると、段々と心の中に刷り込まれていくのである。坐禅もそうだけれども、日常生活の中で悪いことはせず、いいことをしていたら、心が清くなっていく。それが諸仏の教えである。」

 

E「ここで話し合ったり坐禅したりすることが無駄だという人もいるだろうが、そういう人は後で辛い思いをすることになるだろう。こういうことは常日頃から考えていないと、死というものを前にした時に耐えられないだろう。

 

G「考えていても耐えられないだろう。それでもいいと思えるかどうかだ。どんな死に方になってもそれはそれで仕方がないと思えるかどうかである。」

 

E「それはこういう話し合いをしているから言えるのであろう。」

 

G「ある程度、自分を見つめていないと、そういう発想も出てこないだろう。」

 

C「先程、Aさんが『のたれ死になんかできない(根性がいる)』と言われたけれども、のたれ死になんかできないという自分は確かにいるのだ。Aさんだけではなく、みんなの思いの中にそれはある。それは根性がないからそう思っているのではなく、この私の部分(我の私)はのたれ死になど絶対にしたくないのである。畳の上で大往生したいのである。そういう自分がいることを誤魔化してはならない。しかし、そういう自分がありながら、のたれ死にしても構わないという自分もいるのである。それはこの私(我の私)のところからは分からない。Aさんにものたれ死にしても構わないという思いがちゃんとあるのだ。しかし、今のAさんにはまだそれが見えないだけなのだ。自分の奥底からチョロチョロと出てくるものをはっきりと見ることができたら、それもまたよしと思えるようになるだろう。」

 

E「誰ものたれ死になんかしたくない。しかし、どんなことでのたれ死にするかも知れない。人間はどんな死に方をするかなんて誰も分からない。そういうものとしてあることを許しているのが仏性である。」

 

A「私はいいかっこをしてのたれ死にしたくないと言っているわけではない。ただ根性がないのだ。のたれ死にするには根性がいると思う。」

 

C「のたれ死にするのに根性は関係ない。根性があってもなくても、のたれ死にする時はのたれ死にするのだ。問題は、その時にそれもよしと思えるかどうかだ。そして、死ぬ時は誰でも(根性のあるなしに関わらず)それでよしとして死ねるのである。」

 

 

―京都深草坐禅会だより第二十号―

【第二十回報告】

  二○○七年九月二十三日(日)、京都市伏見区深草において第二十回京都深草坐禅会(元スペースローカヤ坐禅会)を開催した。今回は女性二名、男性五名、計七名の参加であった。午前十時三十分頃から参加者が集合し始め、みんなで茶礼(お茶を飲みながら自由に話し合う)を行った。十二時前から坐禅(一炷)。十二時半頃から昼食。午後は一時過ぎから三時頃まで相互参究がなされた。三時過ぎから坐禅(二炷)。四時過ぎから五時頃まで最後の相互参究を行った。五時過ぎ終了。その後、簡単に後片付けをし閉会した。

                          (江尻記)

【相互参究の記録】

(最後の相互参究を収録)

【仏道をならうというは…】

仏道をならうというは  自己をならうなり

自己をならうというは  自己を忘るるなり

自己を忘るるというは  万法に証せらるるなり

万法に証せらるるというは  自己の身心および佗己(たこ)の身心をして脱落せしむるなり

      「正法眼蔵・現成公案」の巻より

 

A「ここに出てくる【脱落】というのは、道元が中国の宋に修行に行っていた時に、師匠の如浄禅師に、自分が悟った時に『身心脱落、脱落身心』と言ったんですね。それでOKをもらった。身も心も脱落した、抜け出したということです。この現成公案の巻は、正法眼蔵の中でも一番難しいと言われているんです。これが分かれば全て分かるというようなものなんです。しかし、一見、難しいように思うけれども、極めて簡単で、いつもお唱えしている般若心経とか、ここで言っている波と水の心とか、それをまさに道元さん流に短い言葉で表現しているわけです。これは深く味わっていけば、ものすごく意味のある言葉です。『身心脱落、脱落身心』とは、道元さんがお悟りを開いた時の自分の心境を言って、師匠に印可してもらった言葉なんです。それは、自分の心と他人の心というのは不二一体だということです。なんだこだわりのない素直な心ということで、一点の曇りもありませんということを言っているわけです。ダルマさんだって、禅の悟りの心境というのは、言葉や文章で言い表せるものではないと、まさに言葉を超えていると言っている。私達は妄念というものに絶えず眩まされるけれども、そういう妄念を払拭して、自分と他人と一体、自分と自然と一体、自分と宇宙と一体、家族関係で言えば、嫁さんといがみ合いもするけれども、喧嘩する嫁さんとも一体だと気づく。そういう風な意味に解したらどうでしょうか。」

 

B「ここで言う自己とは何かということが問題になるんですね。」

 

A「自分に執着する心、ものに執着する心がクリアーされた、般若心経でいうところの空の心というか、素直な心というか、そういうことなんです。」

 

B「やっぱり自己とは何かという話になると思うんです。仏道を習うということは自己を習うということなんだということは、禅ではよく己事究明ということを言いますが、自分を学ぶということなんだということです。そして、自己を習うということはどういうことかと言った時に、道元さんは自己を忘れることなんだと言っているわけです。この自己を忘れるという時の自己とはどういう自己なのかということがあると思います。そこをはっきりとさせないといけないわけです。先程、一念と二念・三念の話をした時に、自分(人間)には一念というものがあって、深いところから一念というものが出てくるんだけれども、その後から二念・三念というものが出てきてしまうんだというような話をしました。二念・三念というものが出てきてしまうという、そこのところですね。それが出てこなければ、一念というものがそのままスッと働き出すことができるんだけれども、人間には我があるから、我の部分が二念・三念というものを生み出してしまって、本来、自分の深いところから出てくる一念を眩ましてしまっている。眩ます自分というものがなくなったら(自己を忘れることができたら)、万法に証せられるんだと、道元さんは言っているんだと思います。」

 

A「脱落というのは難しい言葉なので、言い換えると、蝉の抜け殻でもいいと思うんです。脱落のイメージというのは、蝉の抜け殻みたいに、脱皮して自分が変化していくというか、煩悩まみれの自分が清浄な仏の姿に変わっていくというように考えてもよい。脱落というのは、そういうような転換というか、仏教では【転迷得智(開悟)】と言うんです。それは禅で言うところの【大死一番】、死んで生きるということです。蝉のように殻を抜け出して飛んでいくというような意味で脱落というものを捉えたらどうでしょうか。」

 

C「Aさんは大死一番も同じことだと言われるわけですか?」

 

A「そうです。古いものに執着しないで新しい私になる。だから一緒だと思います。そこのところを盤珪禅師などは【不生】と言うわけです。」

 

D「自己を忘るるなりって、私達はほとんど忘れて生きているんですよ。現実は、自己を忘れて呼吸している。忘れて坐禅もしないといけないわけだけれども、意識があるからおかしくなる。山登りするとか、ピアノを弾くとか、それはみんな自己を忘れてやらなければ、できるわけがないんです。その時は自己を忘れているわけです。その時、万法に証せられているわけです。」

 

A「だから、白隠の『坐禅和讃』で言えば、水の中におりながら渇を叫ぶとか、長者の家の子供なのに貧里に迷うとか、それと同じことだと思うんです。」

 

D「大体、忘れているということを忘れているんだ。現実は自己を忘れてやっているから成り立っているのに、意識している私を私だと思う、その矛盾の中に生きている。」

 

A「白隠さんの『坐禅和讃』の中に、これに相当する部分がいっぱいあるんです。」

 

B「今言われたように、みんな水の中にいて潤っているのに、喉が渇いたと渇を叫び、長者の子であるのに、非常に豊かにいろんな物が揃っているのに、何もないんだと不平不満を言っている。さまよい歩いている。そういうことを白隠は言っているわけです。本来、人間は全て調って素晴らしい存在であるのに、そうじゃないと思ってしまっているという、そこが問題なわけです。Eさんはこれを読まれて、どう思いますか。」

 

E「山登りをしている時、一歩一歩ただ歩いている、それだけが全てである。その内に頂上に着くという感じですかね。」

 

B「山登りをしている時には自分がない。」

 

E「そうです。」

 

C「ただ登ることだけに集中して、他のことは真っ白になっているわけですね。」

 

B「自己を忘れて、ただただ山に登っている。」

 

C「三昧の境地です。」

 

B「そういう時に、山の勇壮な自然を見ると、非常に感動するということも起こってくるわけでしょう。つまり、万法に証せられるということになる。」

 

D「そういう時、自己の身心も他己の身心もない。だから、道元はとてつもない世界のことを言っているわけではないわけです。現実に生きている自分をもう一遍、見直したところから言ったら、まさにそうだということです。そういう中に生きながら、そうじゃないんだと思う間違いを言っているわけです。深さの私を自然に習うことが仏道だ。」

 

A「習うと言ったら、お勉強するみたいに思ってしまうから、生活する(生きる)と言った方がいいかも知れない。」

 

C「仏教とか仏法とは言わず、仏道と言っているわけですからね。」

 

D「道というのは、八正道をただ歩むということで、理屈は何もないわけです。八正道の中に自分を投げ込んでいくことだけなんです。それが道と言うことです。やはり、この頭ではなく、行動なんです。」

 

C「お釈迦さんは行住坐臥において、仏法を守って生きることが修行だと言っている。生活全般が道であるわけです。」

 

B「普通、私達は修行と言ったら、どこか特別なところへ行って、そこで特別なことをすることが修行なんだと思ってしまっているところがあるが、そうではなくて、日常生活を営む中にこそ修行があるというのが本来だと思うんです。修行道場に行かなければ道が修められないのではなく、今・ここで、日常生活の中でいろんなことが起きる、その中で道を究めていく、それが本当だと思うんです。今・ここで自己を習う、本当の自分に気づいていく、それが大事だと思うんです。」

 

A「まさに日常生活は忍辱(にんにく)行です。」

 

B「前回、Aさんが、盤珪禅師の言葉を紹介して、『人をかわゆく思うが仏なり』と言われましたが、その辺はどうですか。」

 

A「人をかわゆく思うとは、別に相手が自分に対して優しいことをしてくれるからとか、なんとかいうことじゃなくて、逆の場合だって、例えば、きついことを言われて、それでこちらが襟を正すということもあるわけだからね。」

 

C「道元の現成公案とは違った面から言うと、マイスターエックハルト(キリスト教・神秘主義)という人がいたんですが、その人が、『私(自分)がなくなればなくなるほど、そこに神が来たって満たす』と言っているんです。この私がなくなると、そこに神が満たされてきて、私じゃなくて、神を生きているということになる。その状態が万法に証せられている状態とも言えると思います。自己を忘れたらダンマが充満するんです。」

 

A「俗っぽい言い方をしたら、『正直者の頭(こうべ)に神宿る』だと思う。素直な心に神が宿るんです。」

 

C「『仏法は無我にて候』と蓮如が言っています。それもちょっと関連してくると思います。」

 

A「一緒のことです。蓮如は一休さんと同時代の人ですものね。」

 

  ―以下、省略―

 

 

《参考資料》

☆道元禅師「正法眼蔵・現成公案」

                        (江尻意訳)

  仏の道をならうというは、深さの私(水)に気づくことである。

  深さの私(水)に気づくというは、我の私(波)を手放す(手放さざるを得ないと気づく)ことである。

  我の私を手放すというは、水(天地一杯の生命)の方から自分も水であることを証明されることである。

  水の方から証明されるとは、自分の身心(私という波)も他者の身心(あなたという波)も実のところ水の働きであるということに目覚めることである。

 

※【脱落】とは、私という波、あなたという波の形相を超えて、無相の水としての自他不二(真の主体)を徹見・体得することである。

 

☆如浄禅師(道元禅師の師匠)の言葉

「参禅は身心脱落なり。焼香・礼拝・念仏・修懺(懺悔のための修法を行うこと)・看経を用いず。只管に打坐するのみ。」

「身心脱落とは坐禅なり。只管に坐禅する時、五欲を離れ、五蓋(ごがい…貪欲・怒り・睡眠・心の不安や悩み・疑惑という五つの煩悩)を除くなり。」

 

※如浄の語録には「心塵脱落」とあるらしい。

 

☆インド以来の仏教の伝統的な理解

「自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)、客塵煩悩染(かくじんぼんのうぜん)」

 

※人間の心は生まれながら本来清浄であるが、たまたま偶発的に外から取りついた(外来の客のような)塵のごとき煩悩によって染められ汚されている。

 

☆道元禅師開悟の話

  ある日、早暁の坐禅中、一僧が居眠りしているのを見て、如浄が「参禅はすべからく身心脱落なるべし。只管打睡してどうするというのだ!」と大喝したのを聞いて、道元は豁然として大悟した。早速に如浄の方丈に参じ、焼香・礼拝したところ、「なぜ焼香する」と問う。「身心脱落いたしました」と答えると、如浄はそれを聞いて「身心脱落、脱落身心」と言って、道元の体験を認めたので、道元が「これはちょっとしたはずみの悟りです。みだりに印可なさらないでください」と謙遜し、如浄は「吾、汝をみだりに印可せず」と答えた。道元が更に突っ込んで、「如何なるか、これ、みだりに印可せざるところ」とたたみかけ、如浄は、重ねて「脱落、脱落」と答えた。傍らで広平という侍者が「外国の人があの大事をよく得たことよ」と感嘆した。