昨年(二〇〇六)十一月八日、柳田さんは八四歳の生涯を閉じられた(一九二二、大正十一年十二月滋賀県愛知郡稲枝村、延寿寺で生まれられた)。今年二月十四日、花園大学がお別れの会を構内の教堂で執り行い、その後、出席者にとして学長名で大学から『洛南詩抄』(奥書によると、柳田聖山作、紙屋院発行二〇〇五年八月、明文舎印刷。刷数二百部)一部を送り届けていただいた。二百部を超えた分は、別にコピーを作成して参会者すべてに届けられたと仄聞する。この詩集は二〇〇四年十二月八日から腰痛で入院中の五十日前後の間に作成された五言絶句から選ばれた十首に解説、序、あとがきをつけ、静江夫人とご一緒に人生の最後を迎えるご自分の生涯を回顧して記されたものとのこと。始めに、其の中から少し紹介させていただく。
病床の窓の外に飛行機雲をみては宮沢賢治の銀河鉄道の夢に思い到り(「飛行雲」)、大蔵経を読む黄檗を臨済がみて冷やかすのは半夏中の「丁度今頃」と思い出し、重い古紙をかついで腰をいためた自分を顧み(「骨粗鬆症」)、終日天井を見ていると、「人生、此の閑有り」で、「限りなく妄想がわくが、それもやがて静まる。人生八十余年、私はいったい何をしていたのか。」と問い、「入院の少し前、中外日報の依頼で、国際日本文化研究所の山折哲雄さんと対談し、仏教徒の戦争責任を問われたが、今あらためてベッドの上でそのことを反芻すると、何と考えてみても、答えは出ないから、問う方も問われる方も、無駄である。閑字が、おもしろい」と記す。曇り空の多く続く洛南での入院生活の間に、一九九〇年八月、中国蛾眉山に良寛詩碑を建立のため中国を訪ねたときの、空模様のことを思い出す。「四川の成都は、一年中曇天で、たまに太陽が出ると、犬がほえる。奇態なものが、顔出したというのだ」と(「曇天良」)。詩碑の建立のほかにも、蛾眉山麓の小学校に柳田さんはずいぶんな寄付をされ、そのもとの校名に「良寛小学校」の名を添えられたと、ご帰国後に伺った。禅の祖師方の国に対して二十世紀に入り日本国は恩を仇で返す仕打ちをしたことを深く恥じる思いをそこに注がれたと思われる。蛾眉山に上がり下りする柳田さん夫妻一行の車を土地の警察署の車が先導したとお聞きした。「窓外即事」では、「窓外、帰鳥有り、飛翼連理の調べ」として、耳を患いながら補聴器を喜ばれず視覚が弱くて眼鏡がきかないご夫人との間に長らく対話を失いながら、「国師三喚の話」に見られる、すぐに役立つことのない侍者の存在の貴重さに柳田さんは思いを馳せる。「問疾品」では、見舞客がうとましく、維摩居士のことに思い至る、そして、久松真一先生が岐阜に帰られて「問疾無用」の看板をかかげながら本当は来客を待っておられたことなどを思う。退院し「洛北にかえって、紙屋川の庭をあるく。」「四山、皆な新鮮、」若葉に芭蕉とともに感動する。「木々の新鮮とは、泣くことでないか。」そして道元が最晩年、建長五年八月、上洛の途中、木芽峠で歌を詠み、京都に着き二十八日、遺偈を残してなくなったことに思いを寄せる(「蟹行」)。最後の偈「吉祥院」で柳田さんは、お世話になった十条病院の所在地、吉祥院町を含む洛南の地は、道元の深草荘、方丈記の鴨長明の草庵などで、今は空しいが由緒ある所として讃え、さらに遠い昔、中国からインドに帰ったとされるダルマの墓塔のあった地名、空廂(くうしょう、狭いあきや、の意)に言及する。
このようにして柳田さんは、『洛南詩抄』のなかで簡潔にご自分の一生に関わった大切なことどもに触れて、自ら別れの挨拶の言葉を残しておられる。なお、お独りになられた静江夫人は、聖山氏の主治医のご配慮のもとに、適当な施設への入居の機会を待っておられるとのこと。
柳田さんの壮大なご研究については、私は門前の小僧同然で、系統だったことは何も言えないが、花園大学の文学部長として、一九六九年に私を教授会員に迎えてくださり、直後に大学を支える妙心寺派教団が抱える問題を火種にして学生集団が起こした教授会・理事会への糾弾闘争に対処する中で、問題をともに克服しようとされ、宗門人から阻害されるようなことのないように私など宗門外の教員には特に気を配っていただき、その後も、主催される禅語録の研究会に門外漢の私の参加を勧められ、最後まで啓蒙の機会を提供してくださり、しかもその間、学道道場道人、のち協会会員として、ともに久松先生を中心に真実の自己に参究するものという謙虚な姿勢を維持され、私は、その点でおそらく他に例をみない関わりに恵まれたので、余計に、追悼の言葉としてどこに焦点を絞ってよいのか分からないというのが正直な所である。
この拙文を書くために柳田さんの書物をいくつか読んだなかのどこかに、柳田さんが滋賀県立彦根中学校の三年生のときすでに宇井伯寿『禅宗史研究』(昭和十年、一九三五)の敦煌出土の初期禅宗史書のどれかを中学校の図書館でノートに書写したことを書いておられるのを見て、さすがはと感心したが、その箇所が思い出せない。島崎義孝氏著『蔭涼軒後藤瑞巌老師事蹟』(ふくろう出版、二〇〇五年)に柳田さんが、大学生の制服と角帽の四人の一人で、他に僧一人、女性二人と、妙心寺東海庵門前で立ち姿で、中央、椅子席の後藤瑞巌老師を囲んで記念写真に収まっておられる(p. 147)。柳田さんは立ち姿の他の人々より頭分が高く抜きでて、帽子の中身もずいぶん大きく見える。私が初めてお会いしたのは、柳田さん(当時まだ横井姓)が学道道場の会員になられ、京都大学文学部聴講生として久松先生の講義を聴講しておられたころで、厳しく自己を律する雲水の身のこなしをされていた様子が記憶に残っている。このころ柳田さんは、久松先生の講義や講演を丁寧に筆記され、それらが著作集の重要な原稿となったことは、周知のことである。敗戦の年一九四五年十月から翌年三月まで臨済学院専門学校でなされた久松先生の特別講義「禅学即今の課題」は一九六九年三月発行の『禅文化研究所紀要』第一号に発表された(『仏教講義』第四巻所収)。講演「煩悩」(一九四七年五月、三回、京都大学学術普及会主催、『仏教講義』第三巻所収)の柳田さんによる丁寧な手書き原稿のコピーを私は見ている。筆記されたものをすぐ其の後清書しておられたとのこと。一九八八年発行の花園大学国際禅学研究所・研究報告第一冊(ポール・ドミエヴィル禅学論集、林信明氏訳編)総説で所長の柳田さんは、「戦中戦後の数年間、久松真一の人と学問を、唯一の生き甲斐としていた。私たちの坐禅仲間から、柴田増實が俄にフランスに留学すると言う」として、次の言葉を述べておられる。
「その頃の私たちは、自分自身の生存が精一杯のことで、謂わゆる東洋学とはほど遠い処にいる。生まれながら仏縁があって、禅寺に育った私は、宗門の学校に進み、宗門の学問を修めることに、曾って疑いを抱くことがなかった。漸くものごころがついて、戦中戦後の日本国と、日本仏教の動きに対して、次第に疑いの目を向けはじめると、到底従来の生き方に満足できない。そんな挫折と逡巡の時期、私たちの生存を支えてくれたのが、久松真一の人と学問である。毎日打坐にうちこむことで、私たちは辛うじて生きのびた。
しかも、そんな戦後十年がすぎる。私たちの暗い彷徨にも、一往の目鼻がついてくる。生存の悩みが完全に解けたわけでないが、各自の好みにしたがって、ぼつぼつと基礎的な学習をはじめた。あるものは、サンスクリットの勉強に、あるものはフランス語の短期学習に、身を入れるようになる。柴田はパリに渡って、第二の鈴木大拙を夢みた。私も当時はなお目新しかった、敦煌の禅文献を集めたり、「祖堂集」の本文研究に頭をつっこむ。初期禅宗史の姿を確かめることで、今の宗門の混乱と逸脱を、じっくり批判しようというのだ。既成のドグマを、私はもはや信用できない。何よりも、自分自身が問われている。戦後いちはやく試みられた、久松真一の「禅学即今の課題」のおかげで、謂わゆる求道と学問研究を総合する、私なりの新しい方法と青写真もできた。私が大切にしていた講義ノートは、先に財団法人禅文化研究所が発足したとき、その研究紀要第一号に提供した。」(pp. 3-4)
柳田さんの一九四〇〜八六年の略年譜を『禅文化研究所紀要』第二十四号柳田聖山教授喜寿記念論集(一九九八年十二月)によって略述する。
一九四〇年四月臨済学院専門学校入学、四二年九月卒業。同年十月永源僧堂掛塔、一九四三年九月まで万松関老師に参禅。同年九月〜四四年七月臨済学院専門学校書記兼舎監補。一九四四年四月大谷大学本科入学、一九四八年三月卒業。同年四月〜五〇年京都大学文学部聴講生。一九四九年四月花園大学仏教学部助手。一九五〇年四月〜五四年三月花園大学仏教学部講師、花園高等学校嘱託教諭併任。一九五四年四月花園大学仏教学部助教授(禅仏教)。同年十月柳田静江さんと結婚、横井姓を改め柳田姓を名のる。一九六〇年四月花園大学仏教学部教授。一九六二年五月印度学仏教学会賞を受賞。一九六四年一月以降禅文化研究所所員・評議員。一九六八年四月〜七〇年三月花園大学文学部長・花園学園理事。一九七〇年十月〜七六年三月京都大学人文科学研究所非常勤講師。一九七六年四月〜八六年三月京都大学人文科学研究所教授(宗教史)。一九八一年二月第三十二回読売文学賞 第六・翻訳研究部門(「一休・狂雲集の世界」)を受賞。一九八五年四月京都大学人文科学研究所長・京都大学評議委員。一九八六年三月京都大学人文科学研究所教授定年退官、京都大学名誉教授。
このあと喜寿記念論集の略年譜から九八年現在までの大学、研究機関、研究受賞を挙げる。
一九八六年四月〜八八年三月中部大学国際関係学部教授。一九八八年四月花園大学文学部専攻科教授、花園大学国際禅学研究所所長。一九九一年四月紫綬褒章を受賞(「中国仏教の研究」)。一九九三年三月第二十七回仏教伝道文化賞を受賞(「中国仏教」)。一九九六年三月花園大学国際禅学研究所長を退任、四月同研究所終身所員となる。
柳田さんは、上に言及したポール・ ドミエヴィル禅学論集の総説で、ご自分の処女論文「祖堂集の資料価値」(「禅学研究』第四十四号、一九五三年、柳田聖山全集第一巻『禅仏教の研究』法蔵館一九九九年、所収)がドミエヴィル(Paul Demieville パリ、コレージュ・ド・フランスの東洋学教授一八九四〜一九七九年)の注意を引きつけたことに触れ、それと「灯史の系譜」(「日本佛教学会年報」第十九号、一九五四年、同全集一所収)との二つの相互に関連する論文の趣旨を説明しておられる。柳田さんの禅仏教研究に深く立ち入ることは拙文の役割を逸脱することになるが、中を垣間見ることを可能にする箇所のように思うので、引用させていただく。
「二つの論文は、相互に関連があって、初期禅宗の形成過程を、敦煌資料と「祖堂集」によって洗い直し、とくに当の事柄を伝える禅宗史書の、虚構と意味を考えようとする、勇みにみちた仕事であった。今となると、気恥ずかしい限りであるが、当時としては、なりふりかまう余裕がなかった。とりわけ、中国の胡適が、新発現の敦煌資料によって、荷澤神会(かたく・じんね)の史実と思想を確認し、後の禅宗史の伝承を偽史とよび、信ずるに足らずと論断するのに、もの言いをつけたい気分がある。偽史こそが、禅宗史書の本領である。胡適が信頼できる資料とする、神会関係の文書のすべてが、すでに偽史の一つであることを、論証しようというのである。
だいいち、灯史という言葉は、後代のそうした偽史の総称である。北宋初期の「景徳伝灯録」と、これにつづく五種の禅宗史書のすべてに、禅の法灯を伝えるという意味での、「灯」という語が用いられるのによって、禅宗史関係の書を総括して、灯史の書とよぶのである。伝灯とは、伝統のことであるが、灯の文字には、生きて燃え動く、人法の感じが強い。灯史という言葉は、一般には耳新しいが、禅宗史の研究者にとっては、ほぼすでに定着している、含蓄の深い学術用語の一つである。」(p. 4)
荷澤[寺]神会(六八四〜七五八)とは、初期禅宗の系譜を書き改める主張を時流に反して貫いた異色の禅者のこと。つまり、禅宗は、達摩ー慧可ー僧璨ー道信ー弘忍ー神秀と伝えられたと当時公認されていたのを、第六代は神秀ではなく慧能でなければならないと、公然と抗議をし、後の禅宗史ではそれが当然のことと認められるにいたった、神会の直接の記録を、パリ国立図書館、ロンドン大英博物館の敦煌文書の中から最初に発見した人が、胡適(一八九一〜一九六二年)である。この方は、上海に生まれ、米国コロンビア大学で教育学を John Dewey のもとで学び、のち、北京大学教授、駐米大使、北平大学長、そして政変で台湾、米国に移り、その間に鈴木大拙と相互批判の交流を重ね、また入矢義高氏と文通し、入矢氏を通して柳田さんの業績を高く評価した(『胡適禅學案』柳田聖山編著、中文出版社一九七五年)。
「祖堂集」とは、禅宗の「祖師たちの道奥を集める意」(柳田氏訳、中央公論社『大乗仏典』中国・日本篇第十三巻一九九〇年の凡例による)の「灯史」の記録のことで、「韓国海印寺の高麗版大蔵経の蔵外補版の中から発見され、中国およびわが国の仏教史学上に全く知られなかった」もの(柳田氏「祖堂集」資料価値、緒言から)。もと海印寺住持・林幻鏡和上の手沢本で、緒方宗博氏が貰い受けられ、寄贈されて花園大学図書館所蔵となっている一冊から二百部を油印(謄写印刷)され、その後(一九七二年)京都、中文出版社から柳田さん監修のもとに影印版を発行され、私はこの影印版をいただいて研究会に参加した次第である。したがって、柳田さんは自らガリ板をきられた油印本を使ってこの「灯史」を研究され「『祖堂集』の資料価値」という論文を書かれたわけである。
「祖堂集」二十巻は、18字・14行、769頁、193,000字の大冊で、これを手書きで謄写印刷することは協力者がおられたにしても、大変な作業である。私が花園大学の教授会に受け入れられることが決まったあとかと思うが、『禅門拈頌集』(三十巻、高麗朝の禅僧が、『景徳伝灯録』その他の灯史、語録をもとに千百二十五則の公案を選び、古来の諸家の拈古、頌古などをつけたもの、一二二六年完成)の油印版を入手しないかと誘われ、実費と引き換えに郵送で受け取った、五冊づつ二つの帙入り計十冊の美しい和綴じ本は、すべて柳田さんの手書きでできており、ずっと愛用している貴重な書物である。協会の平常道場で久松先生が黄檗の『伝心法要』の提綱をされたさいに(一九五五年九月以降、選佛寺で)出席者の一人としていただいた褐色の紙表紙のテキストも、間違いなく柳田さんの手書きであった。この小文で初めに言及したように、当初『風信』が柳田さんの用意された謄写印刷だった。おそらく睡眠をほとんど取っておられなかったのではないか。柳田さんは、禅のテキストをまず丁寧に手で写して研究された。
「祖堂集」の内容は、釈迦牟尼までの七人の仏陀、大迦葉から般若多羅までの西天二十七祖、菩提達摩から慧能までの東土六祖を取り上げる則と頌、そのあと二百七祖のうち十一祖師のばあいは則と頌、他は則のみ、を中心にして、なかには他の人によるコメント(拈、代語、別語など)のつくものもある。これらの頌の作者、泉州招慶寺主・浄修禅師文僜は「祖堂集序」を記して、自分は招慶寺の二人の禅者、静と筠が最近編集して「祖堂集」と名づけた本を読ませてもらって心が清まる思いがした、とし、第七釈迦牟尼仏の項では、如来が涅槃にはいられてから今、[南]唐の保大十年壬子歳(九五二年)までは千九百十二年とし、第二十八祖菩提達摩和尚の項では、和尚が遷化されてから今壬子歳まで四百十三年、、、、第三十三祖慧能和尚の項では、和尚の遷化から今[南]唐保大十年壬子歳まで二百三十九年を経た、とする。柳田さんは、この年代とそのときの泉州の地のおかれた歴史的地理的状況のなかで形成された「祖堂集」という作品の性格を、序文と頌との作者、編者の解明などを通して克明に紹介される。時代は、唐が滅び宋が起きるまでの、中原では五代が入れ替わり辺境では十国が立ち代わる、九〇七年〜九六〇年の短い間である。柳田さんは云う、
「唐末五代の社会と人間との真の意味で全生命的な苦悩と救いとの忠実なる記録として、それを生のままでわれわれに示してくれるものの一つの場合として、わたくしは『祖堂集』をみることが出来、次の時代の官撰の『伝灯録』以下の灯史との相違を、そうした所に考えたいと思うのであって、『祖堂集』の宗教はもはや印度の宗教としての仏教ではなくして、どこまでも中国の土地と人間との苦悩が、自ら産み出した宗教的要求の結晶であって、それは徹底した中国宗教であったとみたいのである。」(前編、一から)
柳田さんの次の説明は、「祖堂集」の内容を明らかにする上で重要である。
「唐中期までに全盛を極めた長安洛陽の仏教圏は、次第に唐室の衰退と共に、新たに興起し来った江南の仏教圏に、その主導権を譲らざるを得なかった、、、六祖慧能(六三八ー七一三)の没後、南宗禅の主導権を握ったものは長安荷沢寺に住し、「曹渓之嫡嗣」をもって自認したる神会(六六八ー七六〇*)およびその門下であり、胡適博士によって、、、、と称せられる所であるが、荷沢正嫡の系譜を大成したものは、実際的には「終南山草堂寺沙門宗密」、および終南山の仏教圏であった。ところが、晩唐以後江南仏教圏のめざましい進展は、宗密が七宗の一としてあげた洪州宗と、かれがその名すら挙げなかった「青原石頭之一枝」とによって、遂に交替せしめられ、曹渓正嫡の系譜は完全に書き替えられることとなったのである。しかして『祖堂集』の一書は、此の「青原石頭之一枝」が曹渓正嫡たるの系譜を語れるものに外ならない。」(前編、三から。*神会の年代は、一九八三年十二月発見された墓のなかから出土した塔銘によって、宗密が示していた六八四〜七五八と確認された。田中良昭氏「神会塔銘と侯莫陳寿塔銘の出現とその意義」柳田聖山教授喜寿記念論文集、一九九八年、pp. 221--236、『神会の語録 壇語』禅文化研究所、唐代語録研究班編、二〇〇六年、pp. 259--261 など参照)
「洪州宗」とは、南岳懐譲を受ける馬祖道一とその法嗣を指し、そのあと臨済宗、潙仰宗に展開する禅宗の系譜であり、「青原石頭之一枝」とは、青原行思、石頭希遷に始まり、後世、曹洞宗、法眼宗、雲門宗と呼ばれるものとして展開した禅宗の系譜のことである。内容の詳細に亘ることは省略するが、「祖堂集」は編集者たちの属する青原石頭の系譜に重点をおくところに特徴がある。それと同時に、そこに記録される拈や代別を見ると、違った系統の禅者たちとの横の交流が実に活溌だったことが知られる。柳田さんの「祖堂集」研究が明らかにした極めて重要な事柄の一つは、禅宗史研究が日本の禅宗内の臨済宗、曹洞宗などの宗派の枠内に留まっていては成立しない、もっと開かれたものでなければならない、ということだった。それの解明には、禅思想に関心をもつ宗門内外のすべての人に関わってもらわなければならない、そのためにはお互いが協力を惜しんではいけない、少なくとも自分はいかなる協力も惜しまない、というのが柳田さんが初めから抱かれた深い決意だったようである。入矢先生が禅文献の俗語表現の理解について終始積極的な協力をされたのも、柳田さんのそういう決意と願心に応えられたものと思われる。上に言及したポール・ドミエヴィル禅学論集の総説によると、京都の日仏会館から、花園大学の『禅学研究』誌既刊分を一括購入したいというドミエヴィル教授からの要請に基づく申し入れがあり、在庫分数十冊をフランスに留学する柴田増實氏に託して大学からパリのコレージュ・ド・フランスに届けられたが、一番の執心が柳田さんの論文「祖堂集の資料価値」にあったことが分かったとのこと。私も今度この論文を通読して、よくもこの早い段階でこの膨大な資料を読みこなし、ここまで究明されたものと、深い感銘を受けた。
柳田さんの研究活動はこの論文のあと、ご自分の研究と他の多くの研究者たちとの共同作業とを介して、ますます広く大きく展開する。私が花園大学教員として採用された時点で訓注『臨済録』(其中堂、一九六一年)、『初期禅宗史書研究』(法蔵館、一九六七年)、『達摩の語録』(筑摩書房『禅の語録』一、一九六九年三月)が既刊に属していたわけで、それらを始め、次々と著書あるいは編著書をいただいたことである。それらの書物に接し、また研究会への参加を通して私は、中国・日本の禅者たちが深い関心を寄せた大乗経典、なかでも『入楞伽経』に眼を開かされ、その未整理の梵文テキストに取り組む長く拙い苦闘の末、現行の梵文を校訂するうえで禅者たちが重要視した一番古い四巻本の漢訳が最終的な拠り所であることに漸く気づいて今日にいたった。そしてこの四巻本にみられる思想がインド大乗仏教思想の最も完成した明快な総括であり、中国の禅者たちが修行のうえでこれをもっとも信頼できるテキストと見極めたのはきわめて適切だったと納得している次第で、柳田さんから蒙った学恩に今更ながら深謝するものである。
(二〇〇七、六、一〇)
〈訂正 補足三点〉 常盤義伸
二点(『風信』第五五号「阿部正雄氏を悼み捧げる賛辞」)
(1)(仏教とキリスト教との神学対話の場所) (5) at Los Angeles, を at Xilai Temple,
L.A.,に、
(2)土井正俊先生を 土居真俊先生 に訂正。
『キリスト教と仏教 土居真俊宗教論集』(八木誠一氏編集、法蔵館一九八九年)には土居真俊(一九〇七〜八八)氏講演「久松先生を偲ぶ」(一九八一年十月三日、京大楽友会館での第二回久松真一先生を偲ぶ講演会)の筆録が収められている。講演の終りに土居氏は、『覚の宗教 久松真一・八木誠一〈対話〉』(春秋社一九八〇年)を読まれて、久松先生のお考えについて三つの疑問を提起しておられる。其の要旨は次の通り。
1、中世は一であり、近世は多であるという捉え方は、あまりにも単純化し過ぎた考え方ではないか。中世にも個、多の契機があったし、近世においても多を貫く一が契機としては失われていないではないか。
2、モダニズムの行き詰まりの認識とその止揚を志向することとは、キリスト教神学の世界にも強く出ている。しかし、たとえばバルト神学は文化形成の基礎づけに弱さがある。ティリッヒは、プロテスタント時代の終焉を説くと同時に、彼の宗教社会主義の運動はセオノマスな文化の形成をめざした。自律でもなく他律でもなく、人間の自由が宗教的な性質を秘めるという意味でのセオノミーの文化の形成をめざした。知識階級の間に広まったこの運動は、しかし、ナチズムの出現の前に潰えてしまった。久松先生のポストモダニズムは、単に久松先生の思想として存在しただけなのか、それとも何か具体性をもつものなのかどうか。それが世界の文化を変革する力をもちうるかどうかは、これからの問題だとは思うが。
3、自分は浄土教の「二種深信」、すなわち仏の慈悲の意識と人間の負の意識との相即という考えに親しみを覚えるが、「対談」を見る限り久松先生には負の意識が全くない。久松先生のお考えを久松教学全体の立場から知りたい。
土居氏は、其の『宗教論集』末の八木誠一氏「刊行にあたって」によれば、
同志社大学神学部教授、NCC宗教研究所所長を歴任され、「現代における宗教の役割研究会」の創立者のひとりであり、また「東西宗教交流学会」の初代会長であられた。中でも「東西宗教交流学会」は、主として仏教学者とキリスト教神学者の対話のための学会であるが、一九八〇年、両教の学者思想家有志に呼びかけてこのような学会を造られた土居博士の先見の明はいまや誰の眼にも明らかである。この学会の設立は時代の要求に適ったものだったし、実際、北米のSociety for Buddhist Christian Studies と協力関係にある国際学会に成長したのである。
と評価されている。こういう洞察力豊かな方からの問題提起は、言葉の表面で受け止めて済ますわけにはゆくまい。土居氏は、協会会員に反論を引き出すための巧みな装置をしかけ、議論を深めようとされたと考えるべきであろう。お名前の漢字を確認せずに失礼申し上げました。
(3)訂正一点(『覚の参究 世界禅を生きる』北原隆太郎著、北原東代編、春秋社二〇〇六年)(p. 250)、「三八九[馬祖、百丈、黄檗の三人一体]」を「三八九[八祖一喝して九祖三日耳聾す]」に訂正。
著者・隆太郎さんが一九六四年九月二日に参究のさい久松真一先生は、
小鐸を指さして、「これを三八九で表すと、どういうことになりますか」と尋ねられた。私がいろいろと次々に呈解すると、「いけません」を連発され、「私もこの則にはひっかかりました。数において自在を得ていなかったので。言えば何でもないことですが、言ってはためになりません」と。
右の「三八九」の語注([]内)は、編者に尋ねられて常盤が提供したものですが、今これを訂正します。「三」は「三日耳聾す」、「八」は「八祖・馬祖」 、「九」は「九祖・百丈」、この三字は「八祖便わち喝す。九祖此れに因って大悟し、直に三日、耳聾するを得たり」を略して数字だけを並べたものと解されます。八祖、九祖という言葉は、慈明禅師・石霜楚円(九八六ー一〇三九)が編集した師・汾陽善昭(九四七ー一〇二四)の語録巻下に「唐の六祖の後、門人、譲大師を立てて七祖と為す、頌に曰く」として、「一達磨大師」「二可大師」「三璨大師」「四信大師」「五忍大師」「六能大師」「七譲大師」にそれぞれ頌を賦し、次に「六祖の後、伝法正宗血脈を叙する頌」として
「能師密に印して観音に付す、百丈親しく馬祖の心を伝えて黄檗大いに張る(広めた)。臨済喝して三聖大いに覚り、、、」
と続けるのに依ります。汾陽が七祖として讃えた南岳懐譲は、観音の異名で呼ばれていたといわれます。「三八九」は、汾陽の語録に見られず、編者・慈明が始めて用いた言葉のようですが、それが師の汾陽のこの頌に基づいていたことは間違いありません。慈明自身の語録に次の表現があります。
夏[安居]を解く日に上堂して云う、「昨日、嬰孩と作りて、今朝、年已に老いたり。三八九を未だ明めずんば、古皇の道を踏むこと難し。」
「古皇道」とは師・汾陽の語録巻下にこの題の一節があり、慈明が汾陽の言葉を借りていることが知られます。汾陽語録、頌古代別、巻中に百丈懐海(七四九ー八一四)が馬祖道一(七〇九ー八八)に参ずる則をあげて頌を添える。
百丈再び馬祖に参ず。祖、手を以て縄床の角の払子を指さす。[百]丈云う、この用に即すや、この用を離るや(大事を会得することは、それを使うところにあるのですか、それとも使わないところにあるのですか)。祖云う、汝、他後(今後)両片皮(口)を開いて何を将(も)って人の為にす(人の眼を開く)や。丈、払子を取って竪起す(まっすぐに立てた)。祖云う、この用に即すや、この用を離るや。丈、払子を旧処に掛く。祖、便ち喝す。丈此れに因りて大悟す。直に三日、耳聾するを得たり。
毎(つね)に無事に因りて師の前に侍す 師、縄床角上に懸かるを指さす
挙し放ち却って本位に帰して立つ 分明なり一喝、今に至って伝わる
久松先生が北原さんに小鐸を指さして「これを三八九で表すと、どういうことになりますか」と尋ねられたのは、右の則の表すところが、払子でなくこの小鐸でならば、どういうことになるか、と問われたことになる。北原さんは、このあと、その前年、一九六三年十二月二十日の参究のさいの、別の則についての久松先生の言葉を紹介しておられる。我々の参考になるので、ここにそれを引用させていただく。
「あなたは御自身の境涯で表されましたが、こうやってもよろしい。これは鈴です。これは障子です。これは畳です。これは天井です。これは床の間です。これは雲です。此れは山です。これは川です。万法は一に帰し、一は万法に帰す。すべては一の表現でないものはありません。」(同上)
「未明三八九、難踏古皇道」という慈明の語は、白隠慧鶴(一六八五ー一七六八)によって受け止められ、大灯国師・宗峰妙超(一二八二ー一三三七)の語録で、百丈が示衆に、馬祖の一喝で三日自分の耳が聞こえなくなったことを話すのを聞いて大衆のなかにいた黄檗希運(臨済の師、年代不詳)が激しく感動し、それを見て百丈が黄檗と言葉を交わす則を挙げて、大灯が頌を添えて讃える、その頌の最後の句に白隠のコメントとして添えられるのが、「不明三八九、対境多所思」である。白隠は大灯の語録の各則と頌に短いコメントと、すこし長い評唱とをつけ、これを『槐安国語』と名づけた。百丈と黄檗とのこの則は『槐安国語』巻五に含まれる。
大灯の則だけを、次に訓読で示す。
挙す。百丈懐海、一日、衆に謂いて言う、仏法は是れ小事ならず。老僧、昔、馬大師に一喝を被って直に三日耳聾し眼暗し。黄檗、挙するを聞いて舌を吐く。丈云う、子(なんじ)已後、馬祖を承け嗣ぐこと莫きや。檗云う、然らず。今日、師の挙するに依りて馬祖の大機大用を見るを得たり。然れども且(しばら)く馬祖を識らず。若し馬祖を嗣がば、我が児孫を喪わん(私が弟子たちに馬鹿にされましょう)。丈云う、如是、如是。
一喝に耳聾して天地黒し 当機(眼前に展開する働き)に舌を吐いて荊棘を生ず
虚を承け響きに接する意、論じ難し 両両三三好し動著する(動かす)に
白隠はこの第四句にコメントして「三八九を明めずんば境に対して思うところ多し」とする。
しかし「三八九」の内容は、白隠が信頼する慈明、そしてその師の汾陽に由来する自明のこと、というつもりでか、何の説明もなされていない。大灯の「両々三三好動著」は、『碧巌録』第七二則の雪竇重顕(九八〇ー一〇五二)の頌に「両々三三旧路行」(二人三人と古い路を行く)を承ける。大灯は、確かに馬祖、百丈、黄檗を意識して「両々三三」と言っている。そもそも、『景徳伝灯録』巻六、百丈懐海の項では、汾陽が挙した、馬祖と百丈との問答のあとに、大灯が挙した、この百丈と黄檗との問答がきて、二つの則の間のつながりがよく分かるようになっている。大灯の「両々三三」は、自然な表現である。ただ、それへの白隠の著語の「三八九」は、馬祖と百丈との間の問答に限定して理解する必要があることを、私は幸いにも汾陽の「七祖譲大師」の頌によって知ることができた。専門の研究者による最近の労作『槐安国語』訳注、禅文化研究所発行、を拝見したが、そこではこの「三八九」という句が慈明禅師石霜楚円語録に由来することを伝える以外は、意味不明とされているのを知った。慈明から汾陽に遡る手前で究明が止まっているわけである。そんなことで、ここに北原さんのご著書の中の句への私自身の説明の誤りを訂正し、その理由を記した次第です。